ep.57[Side M/現代]Link: 人狼-06
それから数日、私は仕事と家の往復を続けていた。
朝、施設へ行く。
入居者さんの顔を見て、声を掛けて、食事を運んで、記録を書く。
手を動かしている間は余計なことを考えずに済む時間もあった。
でも、ふとした拍子に思い出す。
明る過ぎた店内。
倒れたテーブル。
遅い自動ドア。
あの夜以来、工業街口駅前のスターバックスの前は通らないようにしていた。
遠回りでも、別の道を選ぶ。
それだけで胸の奥が少し楽だった。
昼休憩に入って、休憩室の冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出した時だった。
スクラブのポケットの中で、iPhoneが短く震える。
私は少しだけ手を止めて、それから画面を開いた。
GatePair: Linkの通知が一件だけ光っている。
人狼からだった。
トークを開く。
最初に見えたのは、写真だった。
木のお皿の上に、丸いクッキーが幾つか並んでいる。
綺麗な円ではなくて、少しだけ形がばらついていた。
焼き色も均一じゃない。
でも、それが逆にちゃんと作ったものに見えた。
[人狼]作りました。
私はその一行を、少しの間、黙って見詰めていた。
クッキー。
あの夜、私が好きだと言ったモノ。
あの夜、画面の中で、何気無く返しただけの言葉。
それを覚えていて、作ったんだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ詰まる。
可愛い、という言葉は何か違う。
でも、嬉しいだけでもない。
文字だけの相手だったはずなのに、そこに急に手付きみたいなモノが見えた気がした。
私は写真をもう一度開く。
形は少し不揃いで、焼き色も整い過ぎていない。
でも、それが失敗には見えなかった。
一枚ずつ、ちゃんと焼いた跡に見えた。
[ミユ]美味しそうです。
送ってから、少しだけ考える。
それだけでは足りない気がした。
[ミユ]私が好きって言ったから、作ったんですか?
送信してから、自分で少しだけ恥ずかしくなる。
訊き方が直球過ぎてデリカシが無いように感じた。
でも、もう消せない。
[人狼]そうです。好きだと言っていたので。でも、綺麗に出来ませんでした。
私はその返事を見て、ペットボトルを持ったまま動けなくなった。
──好きだと言っていたので。
たったそれだけのことなのに、妙に静かに胸へ入って来る。
押し付けがましくない。
でも、ちゃんと受け取っている。
私はゆっくり息を吐く。
休憩時間の白い壁。
蛍光灯の光。
冷蔵庫の低い駆動音。
全部、いつもの昼休憩のはずなのに、手の中の小さな画面だけが少し違う温度を持っていた。
その日の仕事を終えて部屋へ帰る頃には、もう私の頭の中には一つのことしか残っていなかった。
──私も、何か返したい。
クッキーに返すなら、同じ焼き菓子の方が良い気がした。
冷蔵庫と戸棚を確かめる。
板チョコがある。
無塩バターもある。
卵も、砂糖もある。
ホットケーキミックスも一袋あった。
私は何と無く、そのまま台所に立った。
包丁で板チョコを割る。
小さな音がまな板へ落ちる。
湯煎に掛けると、黒い塊が少しずつ艶のある液体へ変わっていった。
そこへバターを落とす。
ゆっくり混ぜる。
甘い匂いが狭い台所に静かに広がっていく。
卵を混ぜる。
砂糖を入れる。
チョコレートを合わせる。
電子レンジのオーブン機能で予熱をした。
ホットケーキミックスを入れる。
型に流し込んで、電子レンジに入れた。
焼き上がるまでの時間、私は何度も中を見た。
膨らみ始める表面。
少しだけ入る割れ目。
それを見るだけで、少しだけ安心する。
焼き上がって、粗熱を取る。
私は丸いままの姿を写真に撮った。
GatePair: Linkを開く。
白い入力欄が静かに待っている。
[ミユ]私も、焼きました。
写真を添えて送る。
返事は直ぐにきた。
[人狼]それは何ですか?美味しそうです。
私は画面を見たまま、少しだけ笑ってしまう。
知らないのに美味しそうなんだ、と思った。
[ミユ]ガトーショコラというケーキです。
少し間が空く。
その間に、私はもう一度だけ、焼き上がったガトーショコラを見る。
向こうの世界には無い名前。
向こうの世界には無い匂い。
[人狼]見たことがないです。食べてみたいです。
その一文を見て、私は写真の中の丸いお菓子を観返す。
見たことがない。
でも、美味しそう。
その順番が少し良かった。
知らないことを、知らないまま肯定してくれた感じがしたからだ。
[ミユ]レシピを送りますね。
レシピを送信してから、私は少しだけ背筋を伸ばす。
誰かに何かを教えることに、ほんの少しだけ気持ちが明るくなる。
けれど、次に届いたメッセージで、私は手を止めた。
[人狼]ホットケーキミックスとは何ですか?チョコレートとは何ですか?
私は瞬きをする。
ホットケーキミックス。
チョコレート。
どちらも私には説明の要らないものだった。
スーパーやコンビニに行けばある。
当たり前みたいに棚に並んでいる。
でも、向こうには無い。
私は画面を見詰めたまま、少しだけ考える。
──どう言えば伝わるんだろう?
[ミユ]ホットケーキミックスが無いなら、薄力粉と砂糖とベーキングパウダで構いません。チョコレートは、黒くて甘いお菓子のことです。
送信する。
黒くて甘いお菓子。
自分で打ってから、随分乱暴な説明だと思った。
でも、今はそれ以上上手く言えなかった。
返事は少し遅かった。
[人狼]分かりました。探してみます。
私はその一文を見たまま、少しだけ息を吐いた。
探してみます。
たったそれだけ。
向こうの世界に無いものを、探す。
多分、最初から見付からない。
それでも探そうとする。
その一所懸命さが、何だか少しだけ切なかった。
それから二日ほど経った昼休み、またiPhoneが震えた。
私は休憩室の隅で画面を開く。
人狼から、写真付きのメッセージが来ていた。
開く。
丸いケーキがお皿の上に一つだけ置かれている。
表面には細い亀裂が走っていて、中心が少しだけ膨らんでいた。
私が焼いたガトーショコラより色が明るい。
もっと柔らかい茶色だった。
[人狼]作りました。食べました。甘くて、美味しかったです。
ちゃんと作ったんだ。
しかも、私に教わったものを。
写真を拡大する。
形は少し歪で、表面も綺麗過ぎない。
でも、そこにあるのは失敗作には見えなかった。
私が教えたものを、自分の世界で何とか再現しようとした跡に見えた。
[ミユ]本当に作ったんですね。でも、少し色が薄い気がします。
送る。
少しして、返事が届く。
[人狼]こちらには、チョコレートというものがありません。よく分からなかったので、似たものを使いました。
私はその文章を読んだまま、瞬きをした。
やっぱり無かったんだ。
そして、この人は無いまま諦めなかったんだ。
[ミユ]似たモノって、何ですか?
送る。
直ぐではないけれど、そう長くもなく返事が来た。
[人狼]餡です。甘い豆を練ったものです。
私は画面を見たまま、小さく口元を押さえた。
──餡子。
餡子のガトーショコラ。
『ガトーアンコ』かな、と頭の中で思う。
少しだけ可笑しい。
可笑しいのに、その可笑しさは人を笑う時のモノじゃなかった。
胸の奥が、きゅうと詰まる。
チョコレートが無い世界で。
何を使えば近いだろうと考えて。
黒くて甘いものを探して。
それで餡子へ辿り着いたんだ。
私は写真をもう一度拡大する。
お皿の端に切り分けた跡があった。
もう食べた後なのだと分かる。
食べて、それで『美味しかった』と書いてくれた。
でも、それは私が知っているガトーショコラと同じ味ではないはずだった。
違う材料。
違う匂い。
違う甘さ。
同じ名前なのに、きっと違うお菓子。
それでも、この人はそれを作ったと言った。
私が教えたものを、自分の世界で一所懸命に形にしたからだ。
その不器用さに、私の心が揺れるのを感じた。
可愛い、とは少し違う。
愛しい、というほどでも未だない。
でも、放っておけないとも少し違う。
もっと静かで、もっと切ないものだった。
ちゃんと再現しようとしてくれたことが、嬉しいのに苦しい。
──この感情に名前はあるのだろうか?
[ミユ]餡子のガトーショコラなんですね。少し、味が気になります。
[人狼]こちらでも作れるように考えました。そちらと同じではないと思いますが。
私はそれを読んで動けなくなった。
──同じではないと思いますが。
そう書いた時の相手の気持ちが、何となく分かってしまったからだ。
私が教えたものと違うことを、きっと本人が一番分かっている。
分かった上で、それでも近付きたくて作った。
そのことが、胸の奥にじわりと残る。
私は休憩室の白い壁に背を預ける。
人の話し声が遠くで混ざっている。
冷蔵庫の低い駆動音。
蛍光灯の白さ。
全部、いつもの昼休憩のはずなのに、手の中の小さな画面だけが少し違う場所に繋がっていた。
同じ名前なのに違う味。
私が食べたことのないガトーショコラ。
でも、逆も同じだ。
人狼は、私が知っている本当のガトーショコラを知らない。
私は画面を見詰めたまま、不意に思う。
こっちの世界の、本物のガトーショコラを食べさせてあげたい。
餡子じゃなくて。
ちゃんとチョコレートで作ったものを。
人狼が一所懸命に似せてくれたからこそ、今度は私の方が渡したくなる。
文字だけじゃなくて味で伝えたい。
私は烏龍茶のキャップを閉めて、ゆっくり息を吐いた。
同じ名前なのに違う味をそのままで終わらせたくなかった。
私はiPhoneを静かに伏せる。
休憩時間は未だ残っていた。
でも、心のどこかはもう、今日の帰りに何を買うかを考え始めていた。
こっちの世界の本物のガトーショコラを食べさせてあげたい。
その気持ちだけが昼休みの白い光の中で妙に温かかった。




