ep.52[Side M/現代]Link: 人狼-05
部屋に辿り着くまで、私は一度も後ろを振り返らなかった。
駅からの道も。
エレベータの中も。
玄関の前で鍵を探す時も。
ずっと、背中の直ぐ後ろに誰かが居る気がしていた。
部屋に入る。
鍵を閉める。
チェーンを掛ける。
それでも足りない気がして、私はもう一度だけ鍵に触れた。
ちゃんと閉まっている。
金属の冷たさが指先に伝わって、そこで漸く少しだけ息が出来た。
玄関の床にバッグを置く。
パンプスを脱ぐ。
踵が擦れていた。
けれど、痛いのかどうかもよく分からなかった。
私はその場にしゃがみ込む。
背中を扉に預ける。
静かだった。
駅前の音は遠い。
車の気配も、誰かの話し声も、分厚い壁の向こうで薄く潰れている。
さっきまであんなに明るくて、音が多くて、視線ばかりがある場所に居たのに。
今は、自分の呼吸だけが部屋の中でやけに大きかった。
手の平がじんじんした。
膝も熱い。
私はゆっくり立ち上がって、洗面台へ向かう。
鏡の中の自分は、出る前とは別人みたいだった。
前髪は少し乱れていて、目元の薄いメイクも崩れている。
頬だけが変に赤い。
走って来たせいなのか、恥ずかしかったせいなのか、自分でも分からなかった。
水を出す。
冷たい水で手を洗う。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
右の手の平が擦れていた。
皮が薄く赤くなっていて、細かな埃みたいなモノが貼り付いている。
膝もスカートを捲ると少し赤くなっていた。
大した怪我じゃない。
でも、その程度が逆に嫌だった。
泣くほどでもない。
病院に行くほどでもない。
誰かに言うほどでもない。
なのに、私の中ではちゃんと痛かった。
濡らしたタオルで膝を押さえる。
それだけで、店の中の光景がまた頭に戻って来た。
倒れるテーブル。
男の人の声。
視線。
遅い自動ドア。
私は思わず、蛇口を強く捻った。
水音が少し大きくなる。
それで上書き出来る気がした。
出来る訳がなかった。
洗面台の縁に両手を置く。
俯く。
──ただ、スターバックスに行ってみたかっただけだった。
それだけだったのに。
初めて入って。
初めて頼んで。
少しだけ緊張して。
でも、少しだけ嬉しくて。
少しだけなら、自分もああいう場所に混ざれるのカモ知れないと思った。
たった、それだけだった。
私は鏡を見ないようにしながら顔を洗った。
冷たい水が頬を流れる。
それでも、熱は引かなかった。
バッグの中で、iPhoneが震える音がして、私は肩を揺らす。
その震え方に、身体が勝手に強張った。
でも、少し待っても二度目は来なかった。
電話じゃない。
多分、通知だ。
私は洗面台の横にバッグを置いて、ゆっくりと口を開けた。
中からiPhoneを取り出す。
画面が光る。
GatePairだった。
私はその文字を見たまま、少しだけ瞬きをする。
人狼からメッセージが来ていた。
[人狼]覚えておきます。私は焼き菓子が好きです。クッキーとか。
私は暫く、その画面を見詰めていた。
たったそれだけだった。
会おうとも。
急かすとも。
今直ぐ返してとも書いていない。
──クッキーとか。
それだけの一言が今は妙に静かだった。
私は洗面台の前から動けないまま、画面に触れる。
トーク欄を開く。
白い入力欄が下にある。
返すべきだろうかと思う。
返さなくても良いのカモ知れないとも思う。
今日はもう、誰とも関わりたくない気もした。
でも、違った。
顔は見たくなかった。
声も聞きたくなかった。
笑われるのも、見透かされるのも嫌だった。
けれど……文字だけなら。
こうして画面の中に並んでいるだけなら。
少なくとも、私が転ぶところを見られることはない。
笑われることもない。
ここでの私は手の平の傷も、赤くなった膝も、崩れた顔も見せなくて済む。
私は少しだけ息を吐く。
画面に指を置く。
[ミユ]私も、クッキーは好きです。
打って、止まる。
短過ぎる気がした。
でも、それ以上の言葉は今は要らなかった。
私は送信する。
右側に小さく自分の言葉が並んだ。
数秒して、新しいメッセージが届く。
[人狼]良かったです。今度は、甘過ぎない物を考えておきます。
私はその文章を見たまま、少しだけ首を傾げた。
今度。
考えておきます。
普通なら、そこに少し身構えたのカモ知れない。
けれど、今は違った。
その言葉は、さっき店で向けられた声よりずっと遠いのに……ずっと静かだった。
私はiPhoneを握ったまま、ゆっくり床へ座り込む。
洗面台の前の冷たい床に、脚を横へ流した。
部屋の中は静かだ。
冷蔵庫の低い音。
換気扇の微かな気配。
それだけしかない。
なのに、さっきまで胸の中を暴れていたモノが、ほんの少しだけ小さくなっている気がした。
私は画面を見る。
顔の見えない相手。
どこに居るかも分からない相手。
私がどんな顔をしているのかも知らない相手。
でも、今夜はそれが少しだけ助かった。
私はもう一度だけ、短く打ち込む。
[ミユ]ありがとうございます。
送信する。
そのまま、画面を伏せる。
冷たい床に背中を預けて、天井を見上げた。
スターバックスには、もう行けないと思う。
あの光の中へ戻れる気は、しなかった。
けれど、全部が終わった訳ではないのカモ知れない。
そう思えたのは、今夜はこの小さな画面の中だけだった。
顔のある場所は怖い。
でも、文字だけの場所なら未だ居られるのカモ知れない。
私は目を閉じる。
手の平は未だ少し痛い。
タイツも引かれる感覚がある。
でも、さっきまでみたいに、全部が剥き出しのままじゃなかった。
今夜の私は、画面の中にだけ少し隠れることが出来た。
それだけで充分だった。




