ep.51[Side M/現代]Link: 人狼-04
私は動けなかった。
知らない人だと思う。
でも、知らないと断言するには、相手の顔が妙に整い過ぎていた。
黒い髪は短く綺麗に整えられていて、前髪だけが額の上を斜めに流れている。
若い。けれど、学生っぽい幼さではなくて、人と話すことに慣れた顔だった。
目は大き過ぎないのに印象に残った。
笑っている訳ではないのに、真っ直ぐこちらを見る目だった。
その視線の強さに、私は咄嗟に息を止める。
口元には、柔らかく見せるための形だけが先に出来ているみたいだった。
優しそうにも見える。
でも、その優しさが私に向けられていること自体が、少し怖かった。
知り合いだろうか?
ナンパなんだろうか?
それとも、私が何かしてしまったんだろうか?
頭の中で理由だけが幾つも浮かぶ。
なのに、身体は一つも動いてくれない。
「それ、ダークモカ?」
「……はい」
辛うじて、それだけ返す。
「やっぱり。美味しいよね」
そう言いながら、男の人は私の向かいの椅子に手を掛けた。
「ここ、座っても良い?」
「あ、私……もう行きます」
「いや、ちょっと話そうよ」
「いえ……その……」
「誰かと待ち合わせ?」
「いえ……あの、いえ……」
男の人は小さく笑った。
「あはは。落ち着いて、落ち着いて」
そう言って、私の向かいに座る。
「……」
「何してたの?」
「あの、私……」
見られている。
それだけで、頭の中が白くなる。
私は目を合わせられなかった。
「ボーッとしてた?」
「……いえ」
「ん?」
「あの、私……初めてで」
「何が?」
「いえ、スタバ……あの」
そこで、男の人は吹き出した。
「スタバ初めてなの?ウケる」
「あの、ごめんなさい」
「あははは」
「私……ごめんなさい。分からなくて……」
「いや、良いよ良いよ。おっかしー」
「……ごめんなさい」
「そのダークモカも店員さんに選んでもらった感じ?」
「あ、はい」
「あはは!面白いね、それ。俺が居たら助けてあげられたのに」
「はい、ごめんなさい……」
どうして謝っているのか、自分でも分からなかった。
でも、笑われた瞬間に、何かが決まってしまった気がした。
私はやっぱり、この場所の人間じゃないのだと。
「じゃあさ、これからご飯でも食べに行かない?」
「……」
「お腹空いてるでしょ?」
「あの、私……家で」
「家で食べるの?」
「あ、はい」
──良かった。これで、どこかに行ってくれる。
「料理するんだ」
「……はい」
「じゃあ、向かいのスーパーで食材買うから、作ってよ」
「……え」
「丁度あそこ、未だ開いてるし」
「いえ、私……一人暮らしで」
「丁度良いじゃん。行こうよ」
言葉が追い付かなかった。
丁度良い。
何が。
どうして。
そんなことを考えるより先に、身体の内側が冷えて行く。
「いや、あの……」
「大丈夫だって。そんな警戒しなくて良いから」
「……」
「ちょっと待ってて。グラス、片付けて来てあげるよ。やり方、分からないでしょ?」
そう言って、男の人は私のグラスを持ち上げ、席を離れた。
その瞬間だった。
今。
今しか無い。
私はソファとソファの間の低いテーブルに置いていたバッグを掴んで、立ち上がった。
そのまま入口へ向かおうとして、一歩目で方向を誤る。
次の瞬間、足先がテーブルの脚に引っ掛かった。
鈍い音がして、視界が傾く。
「あ……」
受け身も取れないまま、私は前のめりに床へ倒れ込んだ。
テーブルが大きく揺れて、倒れる。
椅子の脚が床を擦る音が店内に嫌なくらい響いた。
手の平が熱い。
膝も痛い。
バッグの中に入れていたリップクリームがカラカラと滑る。
でも、それより先に分かった。
──見られている。
男の人の笑う声が少し離れたところから聞こえる。
「おいおい、大丈夫かよ」
周りの視線が自分に突き刺さっているのも分かった。
レジの前の人。
ソファ席の人。
店員さん。
誰も彼もが、転んだ私を見ている気がした。
ただただ、恥ずかしかった。
私は俯いたまま、慌てて身体を起こす。
倒れたテーブルに手を掛けて、元の位置へ戻す。
上手く出来ているのかも分からない。
でも、そのまま逃げたらもっと駄目な気がして、手だけが勝手に動いた。
顔を上げられない。
誰とも目を合わせたくない。
何で私だけ。
落ちたリップクリームを拾い、バッグを抱えるみたいに掴んで、そのまま入口へ向かって走る。
「あ、おい!」
何で私だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
私はただ、スターバックスに来てみたかっただけなのに。
私もこの中に混ざれるのかなって思っただけなのに。
「待てよ!」
自動ドアが、遅かった。
開いて。
早く。
お願いだから。
私は俯いたまま、開き切る前の自動ドアを抜けるようにして外へ飛び出した。
夜の空気が頬にぶつかる。
でも、安心なんて出来なかった。
背中の直ぐ後ろまで追い掛けて来ている気がした。
私はそのまま走った。
駅前の灯りが揺れる。
コンビニの白い看板。
信号待ちの人影。
車の音。
全部が滲んで見えた。
パンプスの音が、乾いた歩道に打ち付けられる。
上手く走れない。
それでも止まれない。
少し先の角を曲がる。
更に曲がる。
やっと人通りが薄くなったところで、私は壁に手を付いて立ち止まった。
息が苦しい。
胸が痛い。
心臓だけが速過ぎて、身体が未だ店の中に置いて行かれているみたいだった。
追い掛けて来る足音は、無かった。
それでも、直ぐには顔を上げられなかった。
もし今ここで誰かと目が合ったら、それだけでまた何かが始まってしまいそうだった。
私はバッグを胸の前で抱える。
指先が震えている。
たったそれだけのことに、少し時間が掛かった。
知らない人に話し掛けられただけ。
それだけなのカモ知れない。
でも、私にとってはそれだけじゃなかった。
初めて入った店で。
初めて注文して。
少しだけ頑張って、一時間居てみようと思って。
少しだけ、この街の中へ混ざってみようと思った。
その全部が、たった数分で駄目になった。
私はゆっくり顔を上げる。
遠くに見えるスターバックスの灯りは、もう温かく見えない。
明るいだけだった。
明る過ぎて、私には隠れる場所が無い光だ。
もう、無理だと思う。
あの店には行けない。
少なくとも、もう前みたいな気持ちでは二度と入れない。
私は一度だけ唇を噛んで、それから踵を返す。
帰ろう、と思った。
今日をこれ以上、どこにも置いて行きたくなかった。
あの店の灯りをもう前みたいには見られないと思った。
行ってみたいと思っていた頃の気持ちは、もう戻って来ない気がした。




