ep.50[Side Y/現代]No Link-01(後編)
隣の席のあの人が、居た。
僕の心臓が、自分は左胸にあるのだと主張するみたいに激しく鳴る。
ついさっきまで、シルヴィのことを考えていた胸の奥が、一気に現代へ引き戻される。
バーの真正面にある、いつものソファ席。
彼女は、そこに居た。
いつも通り、本を開いている。
背中は静かで、姿勢だけが真っ直ぐだ。
髪は低い位置で纏められていて、解けた毛が頬の横に細く残っている。
前髪は薄くて、目元に触れそうで触れない。
その横顔を見た瞬間、何だか少しだけ泣きそうになる。
居るんだ、と思った。
現代に帰って来ても。
世界はちゃんと続いていて、その中に彼女も居る。
僕は息を一つだけ飲み込んで、視線をレジへ逃がした。
いつもの僕の席は空いている。
レジには、栞ちゃんが居た。
「こんばんは」
「おっす」
なるべく普通の顔でカウンタに両手を付く。
メニューを眺める振りをする。
ダークモカチップフラペチーノか。
バニラクリームフラペチーノか。
マンゴーパッションティーフラペチーノか。
頭では文字を追っている。
でも、本当は一つも入って来ていない。
視界の端だけが彼女を捉え続けていた。
「ゆうきさん」
呼ばれて、僕は顔を上げる。
「どうしました?」
「……何が?」
栞ちゃんは少しだけ眉を寄せて、こちらを見ていた。
柔らかい顔なのに、そういう時だけちゃんと人の変化を拾う目になる。
「何かありました?」
「何かって?」
「何と無く、元気無さそうだなって」
その一言で、ちょっとだけ可笑しくなった。
笑うほど元気じゃないのに、見抜かれたことが少しだけ救いだった。
「……あぁ、栞ちゃん凄いね」
「いえいえ。……大丈夫ですか?」
「うん。栞ちゃんに心配してもらったら、元気になった」
「それは良かったです」
栞ちゃんが少しだけ安心したみたいに笑う。
その笑顔を見て、僕も漸く息が出来る。
「今日はコーヒーフラペチーノのヴェンティサイズに、チョコレートシロップを追加して」
「へぇ……モカフラペチーノですか?」
「流石だね」
「私も、好きです」
栞ちゃんが糸みたいな目で笑う。
──その言い方が不意に胸に引っ掛かった。
「……それ、凄く良い。もう一回言って」
「……?」
「『私も、好きです』って」
「……」
「あ、ごめん。そう言うつもりじゃ──」
「私、好きです」
「……へ?」
「……モカフラペチーノが。あははは」
そう言って、栞ちゃんは楽しそうに笑った。
僕は一拍遅れて、負けたと思う。
僕ともあろう男がビビってしまった。
「何それ、今日ちょっと切れ味良過ぎない?」
「今日は調子良いんです」
「危ないなぁ。危うく勘違いするとこ──」
「勘違いしても良いですよ」
栞ちゃんが被せる。
真顔だった。
「え?」
一拍。
「モカフラペチーノを、です」
栞ちゃんは、また笑う。
さっきより少しだけ悪戯っぽい笑い方だった。
「では、ご注文を確認しますね。コーヒーフラペチーノのヴェンティサイズ、チョコレートシロップ追加でよろしいですか?」
「……うん、それで」
「店内でお召し上がりですか?」
「……うん」
「グラスで良いですよね?」
「……うん。良いよ」
「かしこまりました」
レジを打つ音が小さく響く。
その音だけで、何とか現実に立っていられる気がした。
栞ちゃんがレシートを差し出す。
受け取る時、少しだけ声を落として言った。
「──でも、ほんとに」
「ん?」
「少し元気無さそうでした」
「……」
「無理して、いつも通りの顔しなくても大丈夫ですよ」
その言葉に、僕は少しだけ黙る。
多分、図星だった。
図星だったから、軽口で返したくなる。
「……栞ちゃんって、たまに防御無視の無属性攻撃するよね」
「接客です」
「それは接客じゃなくて、見透かすって言うんだよ」
「ふふ……じゃあ、お大事にしてください」
「ありがと」
僕はレシートを持って、バーの方へ向かう。
向かいながら、店内を一度だけ見る。
彼女は、未だ同じ姿勢で本を読んでいる。
世界は、何も変わっていないみたいだった。
変わっていない。
変わっていないのに、僕の中だけが知っている。
お昼ちゃんも。
シルヴィも。
あの大聖堂も。
あの森も。
あの痛みも。
全部を抱えたまま、僕は今、工業街口駅前のスターバックスに立っている。
程無くして、バーから番号を呼ばれた。
グラスを受け取る。
冷たい。
重い。
でも、その重さが少しだけ助かった。
僕は振り返る。
行く先は決まっていた。
バーの真正面。
いつものソファ席。
そして、彼女の隣。
彼女は珍しく、スターバックスでケーキを頼んでいた。
白い皿の上に、淡い赤色のケーキ。
フラペチーノだけじゃない。
それだけで、何だか今日は少しだけ世界の輪郭が違って見えた。
「それ、美味しそう」
思ったより普通の声が出た。
彼女が顔を上げる。
視線が合う。
「それ、何てケーキ?」
「ルビーチョコレートケーキですよ」
横から応えたのは、テーブルを拭いていた天羽ちゃんだった。
──違う。違うんだ、天羽ちゃん。こっちは分かってて訊いてるんだ。
「そっか〜、僕も頼もうかな」
「はい、かしこまりました!」
天羽ちゃんが明るくペストリの方へ向かう。
僕は立ち上がる。
その時だった。
「……誕生日」
「え?」
彼女はケーキを見詰めたまま、小さく言った。
「誕生日なんです──」
彼女が顔を上げる。
また、目が合う。
僕の心臓が、今まで手加減していた分まで取り返すみたいに鳴り始めた。
「四月九日」
時が止まった。
いや、止まったんじゃない。
僕が止まった。
見惚れてしまったのだと、次の瞬間に気付く。
「そっか」
それしか言えなかった。
僕はレジへ向かう。
ペストリを眺める振りをする。
──クソ雑魚ナメクジ野郎。
頭の中で、自分に毒を吐く。
もっと、何かあっただろ。
もっと気の利いた返しが。
『四あわせが九るなんて、素敵な誕生日だね』とか。
いや、寒い。却下だ。
『その幸せがやって来ましたよ。お待たせしました、僕があなたの幸せです』。
論外だ。腐っている。センスが終わってる。
──考えろ。
もっとマシなやつ。
もっとウィットに富んだピクルス的なやつ。
でも、思い付くほど駄目になる。
頭の中でヴェール=パッサージュ・リーニュが全然通らない。
線どころか、言葉の交通整理すら出来ていなかった。
ルビーチョコレートケーキを頼む。
その時、レジ横のクッキーが目に入った。
不意に、思考が止まる。
止まってから、逆に分かった。
──考えるから腐るんだ。
考え過ぎると、僕は直ぐ変な方向へ格好付ける。
だから、もう一番シンプルなやつで良い。
僕はルビーチョコレートケーキと、クッキーを買った。
席へ戻る。
心臓が五月蝿い。
五月蝿いけれど、もう一度だけ整える。
──一旦ね。一旦。
ケーキをテーブルへ置く。
グラスの位置を少しだけ直す。
椅子に座る。
それから、呼吸を一つ。
「あのさ──」
友達みたいに話し掛ける。
そういう人なんだって、先に押し付ける。
一度話した人とは、もう少しだけ普通に話して良いと思ってる人なんだって。
そういうキャラで行くしかない。
僕はクッキーを差し出した。
「お誕生日、おめでとう」
彼女の瞳が揺れる。
僕は満面の笑顔を作った。
少しだけ目を細める。
そうすると、相手の反応を直視し過ぎなくて済む。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
──何、この沈黙。地獄かよ。
やっぱり早かったか。
重かったか。
気持ち悪かったか。
いや、落ち着け。一旦ね。一旦。
「……ありがとう」
小さな声だった。
でも、ちゃんと届いた。
クッキーの重さが、そこで少しだけ軽くなる。
受け取ってもらえたのだと分かった。
彼女はクッキーを開かずに、静かに鞄へしまった。
その意味は分からなかったけれど、少なくとも返されはしなかった。
──それ以上、会話は生まれなかった。
彼女も続けようとはしなかったし、僕も無理には続けなかった。
無理に続けたら、きっと何かが壊れる気がした。
でも、それで充分だった。
きっとまた話せる。
今日、ちゃんと一歩だけ進めたのだから。
僕はルビーチョコレートケーキを一口食べる。
甘酸っぱかった。
彼女の誕生日に合わせたみたいな色だと思って、少しだけ可笑しくなる。
今日が最高の日だなんて、流石に大袈裟だ。
受け取ってもらえただけで、今日はもう充分だった。
充分過ぎて、これ以上何かを望んだら罰が当たりそうだった。




