ep.49[Side M/現代]Link: 人狼-03
一時間店内で過ごすと決めた私は、十分も保たずにここには居られないと感じていた。
ダークモカチップフラペチーノのグラスを両手で持つ。
冷たさが手の平に張り付く。
白いクリームの端が少しだけ溶けて、チョコレート色の表面に細く混ざっていた。
もう一口だけ飲む。
甘い。
ちゃんと美味しい。
美味しいのに、それでどうにかなる感じはしなかった。
店の中は明るい。
明るいのに、私の輪郭だけがそこから少し浮いている気がする。
誰かが笑っている。
誰かが低い声で話している。
カップの触れ合う音。
氷の音。
レジの向こうで店員さんが名前や番号を呼ぶ声。
騒々しい訳じゃない。
寧ろ、音は全部きちんと整っている。
でも、その整い方が苦しかった。
皆が自分の役割を知っていて、自分の時間を持っていて、自分の居場所を疑わずにここへ座っているみたいだった。
私は違う。
飲み物を買って、座って、ちゃんとここに居るのに、それでも未だ『居て良い人』になれていない。
背中をソファの背凭れに預ける。
その壁だけが私を黙って受け止めてくれている気がした。
閉店まで居ようと思っていた。
一時間くらい過ごせたら、少しは『慣れている人』の顔になれるカモ知れないと思っていた。
──けれど、多分もう無理だった。
十分も経っていない。
でも、私はもうここに居られないと感じていた。
グラスを持ち直す。
ストロを咥えて、一気に吸う。
冷たい。
甘い。
頭の奥が少しだけ痛くなる。
それでも止めずに飲む。
半分。
もう半分。
白いクリームの味が最後に口の中へ残る。
こんな飲み方をするモノじゃないんだろうと思う。
でも、ゆっくり味わう余裕なんて無かった。
私はグラスを置いて、レシートとiPhoneを鞄へ仕舞おうとする。
もう帰ろう。
そう思って、腰を浮かせた。
──その瞬間、ポケットの中でiPhoneが震えた。
私は反射みたいに動きを止める。
こんな時間に連絡して来る人は、そう多くない。
職場からカモ知れない。
ポケットからiPhoneを取り出す。
画面を見る。
通知はLINEじゃなかった。
GatePair: Link。
私はもう一度だけ、ゆっくりとソファへ座り直した。
手の中のiPhoneが少しだけ熱い。
画面を開く。
トーク一覧に、新しい通知が浮いていた。
[人狼]いつ会えますか?一度会って話をしましょう。
私はその文章を見たまま、直ぐには何も出来なかった。
早い、と思った。
勇者の時も。
エルフの時も。
よく考えもせずに、その世界に触れてしまった。
知らない景色。
知らない空気。
知らない優しさ。
知らない怖さ。
そういうモノを一つずつ飲み込むだけで精一杯だったのに……今度は会う話が先に来る。
今の私には、その早さが最も警戒してしまう『軽さ』に見えた。
未だ何も知らない。
相手のことを知らないし、相手も私のことを何も知らない。
それなのに『会いましょう』と言えてしまうことが、少し怖い。
私は指先で画面を撫でる。
返事を打つ欄が白く開いている。
でも、直ぐには文字が浮かばなかった。
断る。
それで良いはずだ。
今は誰とも会いたくない。
なのに、アプリを閉じることも出来なかった。
ここを出て行こうとしていたのに、今度はたった一通の文章の前で動けなくなっている。
少し考えてから、私は短く打ち込む。
[ミユ]どうしてですか?
送信する。
画面の右側へ小さく自分の言葉が並ぶ。
既読は直ぐに付いた。
[人狼]メッセージだけでは分からないことが多いからです。顔を見て話せば、安心してもらえるかと。
私は眉を寄せる。
安心。
その言葉が少しだけ引っ掛かった。
どうして、初めての相手に『安心させよう』と思えるんだろう?
どうして、会えば安心に近付くと信じられるんだろう?
私には逆だった。
会う方が怖い。
会った方が、もう戻れない気がする。
[ミユ]未だ、会うつもりはありません。
短く返す。
これで終わるだろうと思った。
既読はまた直ぐに付く。
[人狼]分かりました。すみません。早過ぎましたね。
私はその一文を見て、少しだけ瞬きをした。
思っていたより、あっさり引いた。
しつこく来る訳でもなかった。
それが逆に拍子抜けで、少しだけ肩の力が抜ける。
もう一通、続けて届く。
[人狼]会うのが難しいなら、少しずつ話しましょう。その方が良いなら、私は合わせます。
私はその文章を見たまま、暫く動けなかった。
──合わせます。
その言葉をそのまま信じるほど私は素直じゃない。
でも、完全に嘘だと決め付けることも出来なかった。
私はふと、自分が未だ店を出ていないことに気付く。
さっきまで十分も居られないと思っていたのに、今はこうしてiPhoneを握ったまま同じ席に座っている。
少なくとも、通知は私をここへ縫い止めた。
[ミユ]……少しずつなら。
送信する。
数秒遅れて既読が付く。
[人狼]ありがとうございます。では、今日は一つだけ。甘いものは好きですか?
私は思わず、テーブルの上のグラスを見る。
チョコレート色の底。
少しだけ残ったクリーム。
空になりかけたダークモカチップフラペチーノ。
こんなタイミングで、そんなことを訊くんだ。
私は少しだけ驚いて、それから少しだけ可笑しくなる。
重たい話でも。
踏み込んだ質問でもなく。
最初の一つが、それなんだと思った。
[ミユ]好きです。でも、甘過ぎるのは少し苦手です。
送った直後、心のどこかがほんの少しだけ軽くなる。
多分、今の私は誰かに自分の好みを伝える──みたいな、どうでも良い会話をしたかったんだと思う。
どこの世界の誰であっても、最初から心の深い所へ入って来られるのは困る。
でも、甘いものの話くらいなら未だ許せる。
[人狼]分かりました。覚えておきます。
その返事を見て、私は少しだけ首を傾げる。
──覚えておきます。
たったそれだけなのに、不思議とその言葉は軽く見えなかった。
重くもなかった。
ただ、ちゃんと受け取った人の返事みたいだった。
私はiPhoneを膝の上へ伏せる。
店の中の音が戻って来る。
ミルクを泡立てる音。
小さな笑い声。
カップを置く音。
入口の方で誰かが店員さんに挨拶する声。
さっきと同じ店のはずなのに、ほんの少しだけだけれど、空気の硬さが和らいだ気がした。
ここが私の居場所だと思えた訳じゃない。
未だ、そんな風には思えない。
でも、今直ぐ逃げ出さなければいけない場所でもなくなっていた。
私はもう一度だけグラスを持ち上げる。
底に残った最後の一口を飲む。
冷たさが口の中で解ける。
けれど、それで持ち時間が終わってしまったことも分かった。
空のグラスだけで、これ以上座っているのは変だろうか。
もう帰るべきだろうか。
それとも、何か一つだけでも追加で頼めば、あと少しここに居ても良いのだろうか。
iPhoneの時計を観る。
二十一時二十一分。
入口の方で、自動ドアの開く音がした。
私は反射みたいに顔を上げる。
入って来たのは、男の人だった。
年齢は分からない。
若く見える訳でも、凄く大人に見える訳でもない。
ただ、疲れているのに無理して普通の顔をしている人だと思った。
その人は店の明るさに一瞬だけ目を細めてから、店内を見渡す。
そして、何故だか少しだけ視線がこちらに触れた気がした。
私は咄嗟に目を逸らす。
別に見られていた訳じゃないのカモ知れない。
でも、そう感じた。
その人はレジへ向かう。
しおりさんが居る方だった。
「こんばんは」
「おっす」
そのやり取りだけで、少し分かる。
この人は初めてのお客さんじゃない。
店員さんと、既にいつもの距離がある。
私は何と無く、その人の方を見ないようにしながら、視界の端で動きだけを追う。
しおりさんの声が微かに聴こえる。
その人が少し笑った気配がした。
それから、少し間があって。
また二人の声が重なる。
私は思わず顔を上げそうになってから止める。
店員さんが笑っている。
その人も、少し遅れて笑った。
さっきまでは、皆が最初からこの場所に馴染んでいる人達に見えていた。
でも、その人の笑い方は何だか少しだけ無理があるようにも見えた。
普通の顔をしているのに、少しだけ元気が足りない。
そんな感じだった。
その時、向こうでレシートを受け取る音がして、その人がバーの方へ移動した。
私の前のカウンタで男の人がグラスを受け取る。
そのまま振り返って、こちらへ近付いて来る気配がした。
私は一瞬だけ身構える。
目を伏せて、テーブルの端を見ている振りをする。
「それ、美味しそう」
思ったより近くで声がした。
私は反射みたいに顔を上げる。
──視線がぶつかる。




