ep.53[Side Y/現代]No Link-02
四月六日の月曜日。
いつもの様に、朝の七時に目覚ましが鳴った。
昨日の夜に淹れた紅茶がポットに残っている。
僕はマグカップ一杯の紅茶を飲み、朝の支度を始めた。
歯を磨き、浴室に入る。
HIMAWARIのシャンプで髪を洗い、コンディショナで整える。
スーツに着替え、鞄を持って工業街口駅に向かった。
いつも乗る電車は決まっている。
工業街口駅の八時三分発だ。
後ろから二両目に乗る。
四月になって、車内の顔触れも少し変わっていた。
一人、ずっと仲良くしていた女の子が居る。
その子は最後に会った時、小説家になったと言っていた。
そして渡された『取り急ぎ、コスモスだけの花束を』。
僕の宝物の一つだ。
──やっぱり、今日も居ない。
僕は空いている席に座って、『異邦の騎士(改訂完全版)』を開いた。
奥付を確認する。
『1998年3月15日 第1刷発行』
「……へ?」
変な声が出た。
周囲の視線が一瞬だけ集まる。気付かない振りをした。
──初版だ。
この『異邦の騎士(改訂完全版)』は初版だった。
僕は内心、少しだけにやつく。
重版される度に、作品は整っていく。
誤字が消えて、語尾が揃って、説明は少しだけ親切になる。
読者にとっては、きっとそれが正しい。
でも、整うほどに、最初にしか残らないものが削れていく。
作者と編集が迷いのまま握り締めていた癖。
危うさ。わざと残した棘。
初版は、正しくなり切る前に作者と編集が『これで出す』と腹を括った瞬間がそのまま閉じ込められている。
未熟さじゃない。
決断の熱だ。
僕はその熱が冷める前の版が好きだった。
今度、あの髪の綺麗な本屋の子にお礼を言いに行こう。
そう思って、文庫本を閉じた。
今日、僕には作戦があった。
彼女の誕生日は四月九日。
三日後だ。
誕生日が分かっているなら、プレゼントを渡せば良い。
理屈は、それだけだった。
仕事を終えた僕は、そのまま臨海ターミナル駅のルミナスへ向かった。
平日の商業施設は、休日より少しだけ現実的だ。
人は多い。
でも、浮ついていない。
誰もが自分の目的だけを細く持って歩いている。
僕もその内の一人だった。
目的だけは、妙に明確だ。
先ず目に入ったのは、GODIVAだった。
『チョコレート詰め放題』のポップ。
『羽ばたく花咲く春アソートメント』。
華やかで、春らしくて、ちゃんと可愛い。
でも、立ち止まっただけで分かる。
これは違う。
この前、クッキーは渡した。
誕生日本番で、またチョコレート。
消えモノばかりになるのは、何だか味気無い気がした。
そこを抜けて、CA4LAへ入る。
帽子が並んでいる。
棚の上も、壁も全部がちゃんと帽子のための景色になっていた。
フェドラを一つ手に取る。
鏡の前で合わせる。
似合う。
普通に欲しい。
でも、僕のために来たんじゃない。
そもそも、彼女が帽子を被っているのを見たことがない。
見たことの無い姿を、いきなりプレゼントで差し出すのは違う気がした。
「あれ?」
見知ったスタッフさんだ。
「こんばんは」
「あー!スーツだから分かりませんでした」
「うん。仕事帰りに寄ったんだ。キャスケットある?」
「キャスケットはこちらです」
キャスケットの棚に通される。
「インスタかXで観たんだよね。新作のキャスケット」
「その投稿観れますか?」
iPhoneを取り出し、投稿を探す。
「う〜ん……見付からない。……あ!これ」
僕はiPhoneの画面を観せる。
「あぁ、MINIですね」
「小さいの?」
「はい、小さめのキャスケットです。デザイナが小振りなキャスケットを作りたくて命名したみたいです」
「っつーか、最近、小さめのキャスケット流行ってるのかな?
他のブランドでも、頭のところが小さめのキャスケットがあったよ」
「キャスケット自体が結構流行りな気がします」
「おっきいのは可愛いけど、小さめはシュッてするね」
「小振りの方がシルエット的にスッキリ見えて女の子には小顔に見えたりするので人気なのかもです。メンズにはビッグサイズの方が人気ですけどね」
試着して鏡に映す。
「うーん。違う、こっちも良い?」
「はい。勿論です」
試着。
「こっち」
試着。
「駄目だ……どれもハマんない」
僕は帽子を戻した。
「また、私服で来るよ」
「はい。お待ちしてます」
出ようとすると、出口までついて来てくれる。
「店長に、いらっしゃったって伝えておきますね」
スタッフさんが笑う。
「彩音さん居ないの分かってて来てるから、わざわざ伝えなくて良いから」
「ふふ、でも喜ぶと思いますよ」
「いや、仕事帰りに寄っただけだし。ダセェところは見せられないから」
そう言って店を出る。
帽子の似合う人は、自分に似合う帽子を知っている。
でも、プレゼントって、それだけじゃない。
ルミナスの一階へ入る。
LOEWEの前で足が止まった。
パズルバッグが目に入る。
前に財布を見た時は、正直、センスがよく分からなかった。
でも、バッグは違った。
目の前にある立体を見た瞬間に、意味が分かる。
「何かお探しですか?」
販売員さんが声を掛けて来る。
「うん……この、バッグ」
「はい」
「前に財布を見た時に、このパズルデザインは何かが違うと思ったんだよね。正直、よく分からなかった」
その瞬間、販売員さんの目がほんの少しだけ冷えた。
笑顔は崩れていない。
でも、空気だけが一枚、薄く硬くなる。
僕はその変化に気付いた。
気付いたけれど、別に悪いことを言ったつもりはなかった。
デザイナはデザインをするのが仕事だ。
だったら、見る側である素人が「分からない」と言うことまで含めて、受け止めるしかない。
僕には、そこで遠慮する理由がよく分からない。
「でも、このバッグを見て分かった」
「……はい」
「このデザインって、バッグのために生まれたんじゃない?」
一瞬だった。
販売員さんの顔が、ぱっと明るくなる。
「その通りです!」
今度の声には、さっきまで無かった熱があった。
作った笑顔じゃない。
自分の好きなものを、ちゃんと分かる相手に見つけてもらった時の顔だった。
その反応で、僕も少しだけ嬉しくなる。
でも、駄目だ。
これは流石に重い。
彼女が普段持っているのは、もっと小さい鞄だった気がする。
黒っぽい、小さなバッグ。
これをいきなり渡すのは違う。
綺麗過ぎるし、強過ぎる。
LOEWEを抜けて、二階へ上がる。
ALEXANDRE DE PARIS。
カチューシャ。
バレッタ。
細い金具に、少しだけ光を含んだ飾り。
彼女のポニーテールに、このバレッタを付けて欲しいと思った。
思った時点で、違うと分かる。
これは近過ぎる。
髪に触れるものは、距離が近い。
似合う、だけで渡して良い類のモノじゃない。
四階へ上がる。
gelato pique。
柔らかい色味。
柔らかい服。
柔らかい空気。
奥へ行くと、下着のコーナーが見えた。
僕は少しだけ足を止めて、直ぐに踵を返した。
これは違うとか以前の話だった。
普通に違う。
FURLA。
kate spade。
MICHAEL KORS。
どれもちゃんと可愛い。
ちゃんと可愛いけれど、何かが違う。
探しているのは、可愛いだけのモノじゃない。
彼女に似合って、僕が渡しても、未だ終わらないモノだ。
そう思いながら歩いていた時、agnès b.の時計が目に入った。
止まる。
近付く。
スクエア型。
茶色のベルト。
白過ぎない文字盤。
派手じゃない。
でも、きちんと綺麗だ。
店員さんが近付いて来る。
「何かお探しですか?」
「うん。前に腕時計を見た事があって」
「こちらです」
差し出された時計を見て、僕は首を傾げる。
「あれ?……ベルト、違う?」
「えーと……」
「半年くらい前に見たのと違う気がする」
「半年前でしたら、デザインが変わっています。あと、時計の中身も変わっていまして」
「中身?」
「以前はSEIKOさんとのライセンスでしたが、契約が終了しまして。今は自社製造になっています」
「へぇ……そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、今は別物ってこと?」
「完全に別物ではないですが、以前ご覧になったものとは少し印象が変わると思います」
「うーん」
僕は腕時計を見詰める。
悪くない。
凄く悪くない。
寧ろ、かなり良い。
バッグは強過ぎた。
バレッタは近過ぎた。
でも、腕時計は未だ日常の顔をしている。
時間を見る。
それだけの道具だ。
それだけの道具なのに、ずっと身に着ける。
「試着も出来ますよ」
「いや、大丈夫」
「プレゼントでお探しですか?」
「そんな感じ」
「でしたら、人気はあります」
ライセンスが切れて、ついこの前に発売されたと言っていたクセに、人気があるという言葉が信じられなかった。
「そっか」
僕はもう一度、茶色のベルトを見る。
白い肌に、きっと似合うと思った。
でも、似合うから買う、では駄目な気がした。
買った後に、僕が勝手に意味を載せてしまいそうだった。
「取り置きも出来ます」
「そこまではしなくて良いかな」
「承知しました」
僕は少しだけ黙る。
黙って、もう一度だけ時計を見る。
四角い文字盤。
細いベルト。
大人し過ぎない程度の綺麗さ。
「一日考えさせて」
「はい、勿論です」
そう言って、僕は店を出た。
手の中には何も無い。
それなのに、スクエア型の茶色ベルトの腕時計だけが、未だ頭の中に残っていた。




