ep.47[Side M/現代]Link: 人狼-02
自動ドアを潜った瞬間、店の明るさが真正面からぶつかって来た。
思っていたより広い。
そして、思っていたより隠れる場所が無い。
右手には深い緑のタイルを貼った長いカウンタが真っ直ぐ伸びている。
白い天板。黒いレジ。
ガラスケースの中に整然と並ぶケーキとサンドイッチ。
奥の壁には木の色と淡い灰色のタイルを背にしたメニューボードが吊られていて、そこだけ切り取れば雑誌の一頁みたいに綺麗だった。
綺麗過ぎて、息が止まった。
左手には客席が広がっている。
木のテーブルと椅子。
壁際の長いソファ席。
少し奥には緑の模様が大きく広がる壁と、額に入った絵。
座っている人達は、それぞれ別のことをしているのに、誰もこの場に迷っていないように見えた。
会話している人。
黙って飲んでいる人。
パソコンを開いている人。
皆、この明るさの中に最初から居場所を持っているみたいだった。
天井は低めで圧を感じる。
四角く区切られた天井板のあいだに小さな照明が点々と並び、白過ぎない光を床へ落としている。
靴音は乾いて響くのに、店の空気は妙に柔らかい。
レジのやり取り。
カップの触れ合う微かな音。
誰かの笑い声。
全部が混ざっているのに、騒がしいとは少し違う。
静かじゃない。
その静けさを壊すのが自分になりそうで、息が吸えない。
入口から店の奥まで思った以上によく見えた。
見えるということは、逃げ道も分かるということだ。
けれど同時に、今ここで引き返したら、その引き返す姿までこの光の中に晒されるということでもあった。
私は立ち止まったまま、店内をもう一度見た。
温かそうなのに、簡単には混ざれない。
明るいのに、試されているみたいだった。
それが、工業街口駅前のスターバックスに入って最初に目へ飛び込んで来た景色だった。
私はバレない様に息を吸い込む。
──この店舗は初めて。他の店舗には行ったことがある。
私はレジ待ちの列に並ぶ。
近くで見ると、ガラスケースに並ぶケーキは宝石みたいにきらきら光っている。
少し、お腹が空いていた。
私は財布を開いてお札を確認する。
──三千円と小銭が少し。
ケーキは六〇〇円程度の値段だ。
少し高い。
飲み物はいくらだろう?
私はぐるりと周りを見渡す。
ケーキを食べている人は数人で、殆どは飲み物だけしか頼んでいないみたいだった。
「何かお取りしますか?」
不意に音が私にぶつかる。
「えっ」
見ると、お団子頭の店員さんがこちらを見ている。
私はレジの順番ではない。
「あ、いえ……その、いえ」
色んな言葉が思い浮かんでは消える。
「では、こちらへどうぞ。伺いますね」
私は促されるまま、二台あるレジのうち、奥側のレジに通される。
──今まで、レジは一つしか開けていなかったのに。
何故、私だけ別のレジに通されたんだろう?
おかしな挙動をしてしまったのカモ知れない。
後ろには誰も並んでいなかったのに。
私の前の人も普通に頼んでいて、一分も待てば直ぐに私の番になるはずだったのに。
──何で私だけ?
「こんばんは」
「あ、はい。こんばんは」
「ご注文お決まりですか?」
メニューが開かれる。
コーヒーは飲めない。
紅茶は無いのだろうか?
メニューを左から右へ。上から下へ。
目線を走らせる。
──失敗した。
私は腋の下から嫌な汗が流れるのを感じていた。
どうして、メニューを予め考えておかなかった?
初めからこうなることは分かっていたはずだ。
必死に文字を追う。
駄目だ。頭に入って来ない。
同じ行を何度も目でなぞっているのに、何も選べない。
メニューの一番上に、桜の飲み物が描かれている。
──これを頼むしかない。
一番上に目を惹く様に描かれているのだから、きっと人気メニューなのだろう。
私は意を決して──
「コーヒーは飲めますか?」
「え……?」
お団子頭の店員さんだった。
カウンタを挟んで、糸の様な目で笑顔を向けてくれている。
「あ、いえ……その……」
「私も、コーヒー飲めないんです」
周りを気にする様に、内緒話みたいに言った。
「だから、フラペチーノ──」
メニューの右の方を手で示す。
「ここから選ぶと、飲み易いですよ」
エスプレッソアフォガートフラペチーノ。
ダークモカチップフラペチーノ。
キャラメルフラペチーノ。
抹茶クリームフラペチーノ。
バニラクリームフラペチーノ。
──フラペチーノとは何だろうか?
「抹茶は好きですか?」
「……いえ、その……」
「甘いのは?」
「……好きです」
「甘過ぎるのは?」
「あの……その、得意じゃないです」
「じゃあ、これ」
糸の目の店員さんが手で示す。
──ダークモカチップフラペチーノ。
チョコレートに見える。
チョコレートは大好きだ。
「ロースト抜きにしましょうか?」
──ロースト抜き?
トーストみたいなモノだろうか?
丁度お腹も空いている。
「あいえ、大丈夫です」
「じゃあ、そのままにしますね」
そう言うと、糸の目の店員さんはカップを幾つか取り出して並べる。
「どの大きさにしますか?」
私は真ん中のカップを指差した。
さっきテーブルを見渡した時、これくらいの大きさのモノを皆が飲んでいたからだ。
「トールサイズですね」
そう言って、レジを打ち込んでいる。
名札を見ると──Shioriと書かれている。
──しおりさん。
「ご注文を確認お願いします。ダークモカチップフラペチーノのトールサイズ一点でよろしいですか?」
トーストは無いのだろうか?
さっき、私はトースト抜きにしないと言ったのに……。
「あ……はい」
「店内で飲まれますか?」
「はい」
「グラスでお出ししても構いませんか?それともカップにしますか?」
「……グラスで」
「それではお会計、五五〇円です」
私は千円札を出した。
「それでは、こちらの番号札をお持ちください」
そう言ってレシートを渡される。
しおりさんの指がレシートの下を指している。
──二四九。
どうやらそれが私の番号らしい。
「あちらのバーでお渡ししますね」
しおりさんが奥を手で示す。
「ありがとうございます」
糸の様な笑顔で言われる。
私は少し、頷く様に頭を下げた。
トーストを貰えないのは、しおりさんの間違いではなかったか?
私はゆっくり歩きながら周りのお客さんのテーブルを見る。
誰もトーストを食べていない。
──トースト抜きって、何だったんだろう?
私は『バー』と呼ばれたカウンタで待った。
バーの前は、思っていたより落ち着かなかった。
店員さんが絶えず行き来して、出来上がった飲み物が次々にカウンタへ置かれていく。
名前や番号が飛ぶ度毎に私は肩を小さく揺らしてしまう。
じっとその場に立っているのも何だか目立つ気がした。
私は少しだけ身体をずらして受け取り口の正面から外れる。
その位置から、もう一度だけ店内を見た。
中央のテーブル席は明る過ぎた。
店の真ん中に座ることになる。
あそこは無理だと思った。
窓際も外の人が通る度に視線が触れそうで落ち着かない。
何より、背中を晒す席は少し怖い。
その時、バーの向かいにある壁際のソファ席が目に入った。
背中を壁に預けられる。
受け取り口が真正面に見える。
番号を呼ばれても、ここなら直ぐに気付けそうだった。
しかも、通路に面している。
店の真ん中に取り残される感じがしない。
居たたまれなくなったら、立ってそのまま入口の方へ戻れそうだった。
逃げられる席だ、と思った。
その瞬間、少しだけ安心する。
座るなら、あそこが良い。
私は飲み物を受け取ったら、直ぐにあの席へ行こうと決めた。
程無くして、カウンタの向こうから声がした。
「二四九番でお待ちのお客様」
私は小さく肩を震わせてから、レシートを握り直す。
呼ばれたのは、自分だ。
「あ……はい」
差し出されたグラスは、思っていたより冷たかった。
チョコレート色の飲み物の上に、白いクリームがふわりと乗っている。
私はそれを両手で受け取って、零さないように気を付けながら振り返る。
そして、真っ直ぐバーの向かいの壁際ソファ席へ向かった。
背中が壁に触れた瞬間、少しだけ呼吸がし易くなる。
私はグラスをそっとテーブルへ置き、ソファに浅く腰を下ろした。
恐る恐るストローを口に含む。
冷たかった。
チョコレートの味がする。
甘い。
でも、甘ったるい訳じゃない。
思っていたより、ずっと飲み易かった。
──甘過ぎない感じがかなり好みだった。
私はもう一口だけ飲んで、グラスから口を離す。
それから、何と無く店内を見た。
バーでは次の飲み物が作られている。
誰かが話していて、誰かが黙ってカップを傾けていて、誰かはパソコンを開いている。
皆、それぞれにこの場所でやることを持っているみたいだった。
でも、私は違う。
飲み物はある。
席もある。
逃げ道も見えている。
なのに、その先が無かった。
私はグラスに添えていた指先を、そっと離す。
──何もすることが無い。
こんなところに一時間も居られるだろうか。




