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GatePair: Link〜【いいね】で始まる異世界マッチング〜  作者: 愛崎 朱憂
第二章:獣人編

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46/67

ep.46[Side M/現代]Link: 人狼-01

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。

※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。

 見慣れた天井だった。

 カーテンの隙間から白んだ朝が細く差している。

 乾いた部屋の空気。

 冷蔵庫の低い駆動音。

 遠くを走る車の気配。

 異世界の静けさじゃない。

 現代の音が遅れて耳の奥へ戻って来る。


 右手の中に硬い角の感触がある。

 iPhone。

 咄嗟に画面を観る。


 四月二十日の十五時三分。


 息が止まった。


 その瞬間、表示が僅かに固まる。

 次いで数字が音も無く書き換わった。


 四月五日の午前四時十二分。


 私は目を見開いたまま画面を見詰める。


 勇者の世界から帰って来た時、私は日付を観なかった。

 その時は戻って来られたことだけで精一杯だった。

 部屋の空気。蛍光灯の白さ。乾いた音。

 安全なはずの場所で呼吸だけが整わなかった。


 今回は、違う。


 私は今、確かに観た。

 異世界の時間と現代の時間がずれていた。


 反射みたいにメモアプリを開く。

 指が震えて、最初の一文字を打つまでに少し手間取る。


『ブロック 4月20日 15時3分。現代 4月5日 4時12分』


 打ち込んでから、もう一行足す。


『リンク 4月4日 22時頃』


 私は画面を見詰めたまま浅く息を吐いた。


 四月四日の二十二時頃にリンクして、四月二十日の十五時頃に【ブロック】した。

 十六日近く、異世界に居たことになる。

 十六日近く異世界で過ごして──現代では六時間とちょっと。


 駄目だ。

 計算が出来ない。

 私はもう一行、付け足した。


『勇者の時は日付未確認』


 打ってから、保存する。

 保存したところで頭の中が整理される訳じゃない。

 後でゆっくり考えよう。


 兎に角、今日は『未だ』四月五日だ。

 仕事は休み。


 少しだけ、寝ようと思った。

 身体を綺麗にしてから。


 私はiPhoneを握ったまま、靴を脱いで一度ベッドに腰掛けた。


 耳の奥に、未だエルフの森が残っている。


 白い光。

 水音。

 糖樹の蜜の甘さ。

 森の中を歩く時の少し湿った土の匂い。

 木々の間に差す朝の柔らかい白。

 シルヴェーヌ。


──そして、リュミエル。

 半歩前を歩く白い背中。

 静かな声。

 そして、あの小さな頷き。


 怖いことが無かった訳じゃない。

 洞窟も、冷たい格子も、忘れた訳じゃない。

 けれど、思い出そうとすると、不思議なくらい先に浮かぶのは綺麗なモノばかりだった。


 それでも、今……ここには何も無い。

 机。カーテン。見慣れた壁。

 昨夜までの私が置いたままのコップ。

 安全なはずの部屋。


 部屋は安全なのに、心の中にあった大きな『何か』だけを向こうの世界に置き忘れたままみたいだった。


 私は立ち上がる。

 足の裏に床の冷たさが触れる。

 現代の冷たさだ。

 森の土でも、木の床でもない。

 平らで、乾いていて、何も語らない冷たさ。


 脱衣所へ向かう。

 服を脱ぐ動作だけが妙に現実的だった。

 ブラウスのボタン。

 スカートのファスナ。

 ショーツの布。

 全部が私を元の世界へ引き戻そうとする。


 シャワーの蛇口を捻る。

 湯気が立つ。

 曇っていく鏡の向こうで、自分の顔が少しだけぼやける。

 その曖昧さに少しだけ救われた。


 身体を綺麗に洗う。

 SABONのパチュリ・ラベンダー・バニラがお風呂場に香る。

 湿った木でも、焼けた空気でも、ヒュドラの毒でもない。

 知っている香り。

 ちゃんと、私の生活の中にあった香り。


 何だか、上手く呼吸が出来る。

 異世界に行ってから、カニューレが少しずれていたみたいだ。


 顔を洗う。

 髪を濡らす。

 お湯が頭を流れて、首筋を落ちて行く。

 触れられた場所から順番に、向こうの世界が少しずつ遠くなるんじゃなくて、静かに胸の奥へ沈んでいく気がした。

 気がしただけで、本当にそうなのかは分からない。

 分からないけれど、少なくとも今、私はここで目を閉じていられる。


 パンテーンの青を泡立てる。

 指先が髪の間を通る。

 泡の匂い。湯気の熱。狭い浴室の反響。

 どれも、ちゃんと私の生活の中にあったものだ。


 シャワーを頭から被る。

 コンディショナを丁寧に付けて、シャワーで流す。


 手順がある。

 順番がある。

 順番に身体を動かしているだけで、少しずつ息が深くなる。


 十六日振りに、湯船に浸かった。


 熱がじわりと脚から昇って来る。

 エルフの森では一度も入れなかった。

 肩まで沈む。


 「はぁ……」と、音にならない息が漏れた。


 危うく、そのまま眠ってしまいそうになる。


 瞼の裏が重い。

 身体がやっと、ここへ戻って来たのカモ知れないと思う。

 そう思えただけで、少しだけ安心した。


 でも、私は目を開ける。

 浴室の外に置いたiPhoneのことを思い出したからだ。


 四月四日の二十二時に異世界に行って、【ブロック】を押したのが四月二十日の十五時。

 四月五日の午前四時過ぎ。

 十六日近く、異世界に居て。

 現代では六時間ちょっと。


 私は湯船の縁に頭を預け、ゆっくり息を吐いた。


 分からないことは、未だ多い。

 でも、分からないままでも、一つだけ確かなことがある。


 私は帰って来た。

 帰って来てしまった。

 その二つは似ているのに、少しだけ違う。


 目を閉じる。

 お湯の中で自分の心臓の音だけが小さく響いていた。



 ベッドで目覚めた時、部屋は薄暗かった。


 カーテンの隙間から差し込む光は、朝の白さじゃない。

 もう夕方の色を過ぎている。

 私はぼんやりした頭のまま枕元へ手を伸ばし、iPhoneを掴んだ。


 十九時二分。

 私は暫く、その数字を見詰めた。


 休みが終わってしまったような気がした。


 何かをした訳でもない。

 どこかへ行った訳でもない。

 ただ身体を綺麗にして、少し横になっただけのはずなのに、気付けば一日が私の知らない顔をしてそこに居た。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 身体が重いんじゃない。

 寧ろ軽い。

 ちゃんと休めた後の重さだ。

 熱い湯に浸かって、ベッドに寝転んで──知らないうちに眠ってしまうくらいには、私は疲れていたんだと思う。


 私は浅く息を吐く。


 このまま部屋に居たら、ずっとぐるぐると同じことを考えてしまいそうだった。

 どこかへ行こうか、と思った。


 そう思ってから、私は少しだけ可笑しくなる。

 十九時を過ぎてから『どこかへ行こうか』なんて、休みを無駄にした人の台詞みたいだ。

 実際、その通りなのカモ知れない。


 でも、今からでも外へ出たい気分だった。


 映画館は時間が中途半端だ。

 ショッピングモールも、今から行くには少し遅い。

 中華街まで出るほどの元気は無いし、わざわざ何かを買いたい訳でもない。


 考えて、考えて、それから不意に思った。


──スターバックスに行ってみよう。


 私はその考えに自分で少し驚いた。

 スターバックスは、私にとってずっと少し怖い場所だった。


 ガラス越しに見える明るい店内。

 季節ごとに変わる綺麗なポスター。

 当たり前みたいにカスタムを頼んで、名前を呼ばれて、ノートパソコンを開いている人達。

 何もかもがきらきらして見えて、何と無く、自分とは違う世界の人達が居る場所みたいに思えていた。


 入ってみたいと思ったことが無かった訳じゃない。

 でも、怖かった。


 私なんかが行っても良いんだろうか?

 注文の仕方が分からなかったらどうしよう……。

 変に思われたらどうしよう……。


 そんなことばかり考えて、結局一度も入れなかった。

 なのに今日は、少しだけ行ける気がした。

 理由は分からない。


 でも、知らない場所にも、ちゃんと優しい景色があることを私は知ってしまった。

 少し怖くても、入ってみた先に自分の知らない綺麗なモノが待っていることも。


 エルフの森で一つだけ成長したんだと思う。

 だから今の私なら、あの明るい扉の向こうにも行ける気がした。


 行ってみたいと思った。

 静かな森とは違う、少しざわついた明るい場所に自分を置いてみたかっただけカモ知れない。

 人の気配の中に混ざって、街に参加している感覚が欲しかった。


 私はベッドから降りた。


 洗面台の鏡を見る。

 寝起きの顔。

 少しだけ浮腫んだ目元。

 ぼさぼさな髪。


──これでは行けない。


 私は歯を磨いて、顔を洗った。

 冷たい水で頬を撫でると、少しだけ頭の中がはっきりする。

 髪の寝癖を水で濡らす。

 SINN PURETEのオイルを馴染ませ、櫛を通してからドライヤを当てた。

 毛先に軽くヘアアイロンを通す。

 それから鏡の前で、薄くメイクをした。

 最後にもう一度だけヘアアイロンで前髪と毛先を整える。

 少し、黒髪のボブがいつもより綺麗に整った気がした。


 クローゼットを開く。


──服はどうしよう。


 そこで、ふと思った。

 普段からスターバックスを利用している風にして行けば良い、と。


 私の中では初めてでも、慣れている顔をしていれば……きっと店員さんも他のお客さんも、いちいち気にしない。


──そうだ。きっと、そうだ。


 私は少し考えて、閃く。

 他の店舗はいつも利用している。

 この店舗に来るのが初めてなだけ。

 スターバックス自体が初めてな訳じゃない──みたいな顔をしていれば良い。


 私はクローゼットの奥から、Yシャツとスーツを引っ張り出した。

 初めてじゃなくて、ただ今日はこの店舗に寄っただけの人に見える服。

 支度を終えると、部屋の灯りを落とした。


 iPhoneと財布をバッグに入れる。

 ノートパソコンを持って行こうかと考えて、インターネットをどうやって繋ぐのか分からなくて止めた。


 時計を見ると、二十時四十分。

 鍵を持つ。

 玄関でパンプスを履く。


 その一つ一つが今日を未だ終わらせないための小さな儀式みたいだった。



 夜の空気は思ったより柔らかい。

 昼の熱が少しだけ残っていて、風は乾いている。

 森の匂いはしない。

 当たり前だ。

 しないのに、少しだけ探してしまった自分が居た。


 駅前へ向かう道を歩く。


 コンビニの灯り。

 信号待ちの人。

 自転車の音。

 どこにでもある夜の景色。

 私はその中を歩きながら、やっぱり少しだけ、ここへ戻って来たんだと思う。


 スターバックスの看板は工業街口(コウギョウガイコウ)駅前の角を曲がると直ぐに見えた。


 ガラス越しの明るい店内。

 温かそうな光。

 並んでいるカップ。

 何かを待つ人達の影。


 私は店の前で一度だけ立ち止まる。


 思っていたより明るい。

 思っていたより、人が多い。

 思っていたより、自分には場違いな場所に見えた。


 やっぱり止めようか、と少しだけ思う。

 でも、ここまで来たんだから──とも思う。

 エルフの森へ行けたのに、スターバックスに入れないなんて、ちょっと変だ。


 そう考えたら、少しだけ肩の力が抜けた。


 自動ドアは楽だった。

──ノックを四回する必要が無いから。

 心の中で、クスリと笑う。


 iPhoneで時間を観る。

 二十時四十九分。

 閉店時間は二十二時。

 一時間、スターバックスで過ごす。


 硝子に映る自分の顔を一瞬だけ見て、それから視線を外す。

 大丈夫。

 いつも行っているスターバックスに入るだけだ。

 ここの店舗が初めてなだけだ。


 そう自分に言い聞かせて、私は店内に入った。

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