ep.43[Side Y/異世界]Link: エルフ-15
その微笑みを見た瞬間だった。
張り詰めていた糸が不意にどこかで切れる。
僕の膝が遅れて笑った。
「ユウキ?」
シルヴィの声が近付く。
近付くより先に僕の身体が少しだけ傾いていた。
転ぶ程じゃない。
でも、自分で立っているのか、気合で立っているのかが分からない。
「……危な」
言い切る前に腕を取られた。
血と土で少し汚れたシルヴィの指先だった。
「大丈夫?」
「大丈夫……多分」
「多分、は禁止」
「今はちょっと、そのルール厳しい」
シルヴィは怒らない。
怒らないまま僕の腕を自分の肩へ掛けた。
支える力が思ったより強い。
細いのに、ちゃんと部隊長の力だった。
ルージュがこっちを見て、鼻で笑う。
「はっ。終わった瞬間に腰抜かすとか、人間らしくて良いじゃねーか」
「腰は抜けてない」
「似た様なもんだろ」
「会話が雑です」
「雑でも通じるなら問題無ぇよ」
ブランが透き通る刃を戻したまま僕を見る。
「緊張が切れたのでしょう。寧ろ正常です」
「ブラン、優しいね」
「優しくありません。事実です」
その言い方で少しだけ笑いそうになって、笑うと本当に崩れそうで止めた。
ルージュが肩を回す。
肩を回す音まで、戦いの続きみたいに大きい。
「じゃあ、俺達は一旦戻るか」
ルージュがブランに声を掛ける。
「一緒に帰らないの?」
僕が訊くと、ルージュはにやりと笑う。
「何だよ。未だ俺様と一緒に居たいのか?」
「そういう言い方すると、全部が台無しになるよ」
「私達は、今の森とは関係無い存在なので」
「ケン王なのに?」
「だからこそです」
「王が三人も門に並んだら、暑苦しいだろ」
「それ、ルージュが言う?」
「はっ。俺様は景観を気遣える男だからな」
「確かに──」
僕は少し大袈裟に辺りを見渡す。
「見晴らしは良くなったね」
「はっ。やっぱり元気じゃねーか」
ブランは少しだけ僕を見る。
目を開けているのか閉じているのか分からない、あの真っ直ぐな目だ。
「最初に顔を見た時より、死にそうな顔ではなくなりました」
「それ、ブランなりの褒め言葉?」
「観測結果です」
「じゃあ、ブランなりの褒め言葉ってことにしておく」
「勝手にしてください」
その乾いたやり取りにシルヴィが小さく息を漏らした。
笑う一歩手前の息だった。
森を戻る。
帰り道の匂いが来る時と違う。
焦げた岩の匂い。
血の匂い。
その下に漸く少しだけ戻り始めた木の匂いがある。
風が葉を揺らす。
揺らす音は同じなのに、さっきまでより遠い。
遠くなったということは、森の呼吸が戻り始めているのだと分かった。
村へ近付くにつれて、空気が変わる。
門の前には既に人が集まっていた。
歓声は未だ無い。
誰もが、先頭を歩く白いローブを見ていた。
リュミエルが門前で足を止める。
それだけで、騒めきが消えた。
「ヒュドラは封印しました」
一拍。
次の瞬間、村のあちこちから声が上がった。
歓声だった。
でも勝ち鬨じゃない。
張り詰めていたものが漸く切れた者達の、安堵の声だった。
泣き出す子供が居る。
膝を折る者が居る。
誰かがリュミエル様と叫び、誰かが空を仰いだ。
リュミエルが静かに手を上げる。
それだけで、村の熱が少しずつ整って行く。
「ですが、失った命は戻りません」
リュミエルの言葉を聞いて、全員が沈黙した。
そこで、やっと僕は分かった。
僕ら人間はいつか死ぬモノだと思って、日々を生きている。
でも、この森のエルフは、もっと遠くまで続く明日を当たり前みたいに信じている。
──寿命がある僕らと長寿のエルフとでは、誰かを失うことの重さが、こんなにも違うのだと。
家へ戻る頃には僕の足は本当に自分のモノじゃなくなっていた。
家の扉が閉まる。
それだけで漸く外の緊張が剥がれる。
「座って」
「命令?」
「命令」
「はい」
素直に座る。
椅子じゃない。
いつものベッド。
木の匂いが近い。
帰って来た匂いだ。
シルヴィが棚から布と小瓶を取る。
いつもの軽い手付きじゃない。
無駄が無いのに、今日は少しだけ速い。
「服、脱いで」
「急に危険な命令が──」
「肩、裂けてる」
「……はい」
軽口を叩いた瞬間、シルヴィの視線が刺さった。
刺さったのに怒鳴らない。
怒鳴らない方が怖い。
服を脱ぐ。
肩口から脇腹に掛けて、何本も嫌な色が走っていた。
浅い傷のはずなのに、数が多いと妙に戦った感じがして笑えない。
「こっち向いて」
「はい」
「腕」
「はい」
「左」
「はい」
「返事だけ良い」
「怒られないコツだから」
シルヴィは布へ薬を含ませる。
それを肩へ当てた瞬間、普通に痛い。
「っ……!」
「我慢して」
「いや、それはしてる」
「足りない」
「厳しい」
シルヴィは黙る。
黙ったまま、傷口を拭う。
拭う手付きが優しい。
優しいのに、少しだけ震えていることに気付いてしまった。
「……シルヴィ」
「何?」
「手、震えてる」
「震えてない」
「震えてる」
「ユウキが震えさせた」
「ごめん」
「うん」
少しの間、木の家の音だけがする。
布が擦れる音。
小瓶の蓋が当たる音。
外で誰かが走る足音。
遠くの指示の声。
全部が戦いの後だった。
「ねぇ、ユウキ」
「何?」
「死ぬかと思った?」
「……普通に思った」
「うん」
「シルヴィも?」
「うん」
そこで漸くシルヴィが顔を上げた。
いつものシルヴィだ。
でも、目の奥だけが今日を未だ終わらせていない。
「でも、一番怖かったのはそこじゃない」
「どこ?」
「ユウキが、私の前から消えること」
言葉が直ぐに返せない。
返せないまま、僕はシルヴィを見る。
シルヴィは続ける。
「死ぬのは怖いよ。普通に怖い。でも、それより嫌なのは……ユウキが一人で決めて、私の傍から居なくなること」
「……」
その言葉は、妙に近かった。
近過ぎて、軽い返事では触れられない気がした。
僕は少しだけ困って、少しだけ笑った。
「だから、あの時言ったの」
「一緒に死ぬって?」
「うん」
少しの間があった。
「私、一緒に死にたい訳じゃないよ」
僕は首を傾げる。
「ユウキを一人で死なせないって決めて……『やっぱりあの決断は間違ってなかった』って胸を張りたかっただけ」
その一言で胸の中の何かがずれる。
戦いの前からずっと張っていた線が少しだけ別の形へ引き直される。
「……シルヴィ、それ」
「何?」
「狡い」
「ユウキに言われたくない」
「それもそうだね」
少しだけ笑う。
笑った瞬間、今度こそ目の奥が熱くなりそうになって、僕は直ぐに天井を見る。
──格好悪い。
でも、今日はもう少しくらい格好悪くても仕方が無い気もした。
「ユウキ」
「ん?」
「今日、一番格好良かった」
「それ、多分、ルージュとブランが居たから補正入ってるよ」
「入ってない」
「リュミエルのインディグネイションもあったし」
「それでも」
「……どこが?」
「女の子を助けよう、って言ったところ」
あぁ、と僕は思う。
あれは格好付けた言葉じゃなかった。
折れそうだった僕が自分を殴るために言っただけの言葉だ。
「格好良い言葉だったかな?」
「違う」
「違うの?」
「格好良い人の言葉だった」
シルヴィがそう言って、僕の横に置いた剣を見る。
──シルヴェーヌ。
今日、初めて本当に剣になった剣だ。
「名前、付けて正解だったね」
「シルヴェーヌ?」
「うん」
「シルヴィ銀弾だから?」
「未だ言うの?」
「シルヴィを完全に攻略したい」
「馬鹿」
でも、今度の『馬鹿』は柔らかい。
柔らかくて、疲れていて、少しだけ安心していた。
外の音が少しずつ減る。
村が、今日という日を内側へ畳み始めている。
シルヴィが立ち上がり、水を取りに行く。
戻って来て、僕の前に器を置いた。
「飲んで」
「かたじけない」
「今日はもう、格好付けなくて良いよ」
「いや、それは無理」
「何で?」
「シルヴィの前だから」
「……ほんと馬鹿」
それでも、シルヴィは少しだけ嬉しそうだった。
器の水は冷たい。
冷たいのに、身体の中へ入ると漸く戻って来た感じがする。
生きている。
その実感だけが今はやけに遅い。
「ねぇ」
いつものシルヴィの目。
「私、思っちゃった」
「何を?」
「もう、二人で居られるんだなって」
いつものシルヴィの唇。
「明日もユウキが居るのかなって」
「……」
「明後日も、その次も。起きたら、またユウキが居るのかなって」
「シルヴィ」
「……やっと、そう思っても良い気がしたの」
小さくなった灯りを見る。
それからシルヴィを見て、頭にそっと触れた。
シルヴィが息を零すみたいに笑った。
「生きて帰れて本当に良かった」
夜の匂いがそこで少しだけ優しくなる。
外では未だ誰かが動いている。
森は未だ今日を終わらせ切っていない。
でも、この家の中だけは、漸く終わって良い空気になっていた。
僕は壁に背を預ける。
シルヴィが僕の隣に座って、頭を僕の膝に乗せた。
何も言わない時間が来る。
その沈黙は怖くなかった。
風が窓の外で揺れる。
焦げた匂いは未だ少し残っている。
その下に木の匂いが戻る。
少しだけ遅れて石鹸みたいな匂いも混ざる。
終わったのだと思う。
少なくとも、ヒュドラとの戦いは。
でも、終わったモノの中に何か別の始まりが混ざっている。
そんな匂いがしていた。
翌日の夜。
エルフの森には、遅れて来た安堵を囲むように焚き火が幾つも灯っていた。




