六
仁親たちは大木の根元にいた。花里姫の手を取って天翔から降ろすと、地表に露出した根の窪みに座らせる。近くには天王川の源流があり、所々に湧水が出ている。手持ちの竹筒に水を汲み、二人で分け合う。
「ありがとう」
喉を潤すと、生きた心地がした。天翔は水の湧く小さな穴に自ら頭を突っ込んで、ごくごくと喉を鳴らしている。さらさらと木々を撫でる夜風が二人を包む。隣同士に座る二人は、どちらともなく肩を寄せ合う。つかのま現実が幻想となり、追われているとは思えないような穏やかなひとときを刻む。ふと仁親が視線を下げると、花里姫の両手が震えていた。手を伸ばしかけ、一瞬躊躇い、空を彷徨った手をごまかすようにして立ち上がる。
仁親は夢中で水を飲む愛馬の傍で片膝をつき、その脚に深々と刺さっている矢を手折った。痛々しい天翔の姿を見て、花里姫が顔を歪める。
「どうして貴女が泣くのです」
仁親は花里姫の方に向き直ると、紅に染まった頬に手を伸ばし、蒼い瞳から零れた涙を片手で拭う。
「なぜ矢を抜いてあげないの」
「抜こうとすれば余計に傷つけてしまうのです」
指の背を温かい雫が濡らす。美しき姫君は、自分の命が狙われているこの状況で、馬の怪我にさえ心を痛めるのだ。まるで自分の身体が傷つけられたかのように、苦痛に満ちた表情を浮かべている。
為すべきことは一つ。仁親は意を決し、険しい表情で告げる。
「これから先は一人でお進みください」
「そんな……!」
花里姫は驚愕の表情を浮かべる。二人の蒼瞳がぶつかった。仁親は真剣な眼差しで話しだす。
「森を抜けると険しい山路が続きます。道とも呼べぬ難所ばかりです」
「それなら尚更」
花里姫が口を開くが、仁親はそれを遮って話を続ける。
「今の天翔に二人で乗ると、相当な負担を強いることになります。無理をさせれば、傷が深まります。敵に追いつかれる可能性すらあります」
「嫌よ、仁」
「花里様だけなら、天翔も速さを落とさずに駆けることができます」
「仁、お願い一緒に居て」
滔々と説く仁親の袖口を掴んで、花里姫が寄り縋る。
「大丈夫、道なら天翔が覚えています。この辺りは昔何度も走りました。この地で我らが知らない場所などありません」
仁親にとっても苦渋の決断なのだろう。両の拳が震えている。
「ねえ、仁。お願いよ」
「貴女を守るためです」
「仁、嫌よ……。仁……」
悲痛な面持ちで尚も縋りつく花里姫。仁親の胸に顔を埋め、とめどない涙を流す。仁親はされるがままで立ち尽くす。
「貴女を守らせてください。剣役として」
仁親が静かに言葉を漏らす。花里姫がゆっくりと顔をあげる。今度は両手で、泣きはらした花里姫の頬を包み、目尻から零れる涙を親指の腹ですくう。
「俺は貴女の剣です。何処にいようと」
花里姫の瞳が揺れる。天翔が察したように二人の傍へ寄る。
「天翔、頼んだぞ」
仁親は花里姫を天翔の背に乗せる。仁親に支えられて天翔にまたがった花里姫は、仁親が離そうとした手をとっさに掴んで言葉をかける。
「仁、あなたが私の剣なら、私は鞘よ。剣は鞘と一緒でなくては生きていけないわ。……必ず、私のもとに帰りなさい」
瞳いっぱいに涙を溜めた花里姫に見つめられ、仁親は溢れる思いを堪えるように下を向き、唇を噛み締める。二人で何事もなく萌黄郷へ、という計画は夢と化した。
覚悟を決めた仁親は顔をあげ、そっと花里姫から身を離すと、おもむろに懐から短刀を取り出した。
「この“お守り刀”を覚えていますか。幼少の砌、花里様から戴いたものです」
「ええ」
思い出の品を、馬上の花里姫に差し出す。
「これは俺の分身です。……いつも、花里様の御傍に」
花里姫は両手で受け取り、懐刀をぎゅっと抱きしめた。
「預かっておくわ。私のもとへ戻ったら、仁に返すの」
「はい」
花里姫は預かり物を懐に仕舞うと、泣き笑いを浮かべる。仁親も微笑む。
「さ、早く。振り落とされないように、しっかりとしがみついて」
「仁、約束よ!仁!」
「はい、花里様」
仁親は首元に光る銀の笛を口元に運び、抑揚をつけて吹き鳴らす。天翔は、その音に呼応するように嘶いて走り出した。
仁親は目を細め、天翔の頸に腕を回してしがみつく後ろ姿を見送る。その姿が闇に溶けると、大きく息を吐いて天を振り仰いだ。




