六
風の音が耳元を掠める。木々の間をくぐるように、行く手に伸びる枝々を避けながら山道を進むユキ。どんなに慣れ親しんだ山でも、夜になるとまるで違う生き物が棲む世界へと変わってしまう。毎晩走り回っているからといって心安くはならない。雨上がりの地面、風の中の木立、人の気配を察知した生き物たち。
斜面を駆け続ける。走りながら考えを巡らせる。脚には自信があるので、このまま逃げ切る方が一撃入れるより確率は高い。しかし相手は剣役。そう簡単に切り抜けられるはずはないとユキもわかっていた。
後ろから迫る気配は感じられない。しばらくそのまま山を駆け上る。すると突然、郷巡りで平七の隣にいた時よりも強烈な、痺れるような寒気が全身を襲った。
(――横か!)
肌が、神経が、細胞が反応した。まさに間一髪、ユキは身を屈めて前転するように衝撃をかわした。視界の端から突然現れた仁親が飛び掛かってきたのだ。冷汗が額を流れる。
振り返り、脇に差した木刀を構える。小半刻の枷があっても追いつかれたのだ。自慢の駿足をもってしても、このまま走って逃げおおせる可能性は低い。それなら、なんとか一太刀でも浴びせる方に賭けるしかない。
妖しい青光を放つ仁親の双眸が闇に浮かぶ。ユキの構えを認めるや、再び音もなく迫ってくる。
まるで複数人を同時に相手しているように、右から左から、あらゆる方向から、縦横無尽の斬撃が繰り出される。木刀から伝わる重くて鈍い衝撃を、何度も跳ね返す。時折受け止めそこなっては肩や腹を打たれ、その度に体力が削がれていく。それでもユキは倒れない。
己の息遣いと、時折踏みしめた枝の音が木霊する。ユキは頭の中で戦況を組み立てる。防戦一方、突破口はないか。次はどこからくるのか。次の攻撃はどう捌くか。次は受けきれるだろうか。次に倒れたら起き上がれるだろうか。次はどうすれば。次は、次は、次は……。
――次とはいつかしら……
夕暮れ時からずっと心にのしかかっていた言葉が、姫君の悲壮を含んだ声で再生された。その時、ユキは天啓にうたれたかの如く悟ったのだ。自分に足りないものの正体を。
(次など無いんだ……!)
両足から砂煙が立ち昇る。仁親の攻撃を払いのけ、なんとか踏みとどまる。そして自ら仕掛けんと、木刀を強く握り直し、相打ち覚悟でありったけの思いと力を込めて一撃を放つ。
二つの影が交わる。夜風に乗った雲から、ちらりと月が顔を出す。きらきらと零れる淡い月光が、両者に柔らかく降りそそぐ。
「確かに、一撃は一撃だ」
仁親の脇腹あたり、うっすらとだが衣に擦れた跡がついている。ユキの方はというと、しっかりと肩に打撃を喰らって膝をついている。とはいえ、微かだろうが何だろうが、一撃入れるという条件は達成したのだ。俄かに信じられない様子で呆然とするユキに、仁親が問う。
「……わかったのか」
こくりと頷くと、ユキは立ち上がり、今しがた掴んだ真理を口にする。
「鍛錬では、倒されても『次こそは一本取る』という気持ちでやっていました。でも、そうじゃない。実戦では次なんて無い。殺すか、殺されるかだから」
まっすぐに仁親の目を見て話すユキ。自分に足りないもの、それは守人としての確固たる気概だ。
仁親の蒼い瞳が力強く見つめ返す。
「“守る”とは、他者の命を背負うことだ。自分が倒れたらそれまで。故に次など無い」
それは、守られる側にとっても同じこと。守る者の覚悟と、守られる者の覚悟。剣役の覚悟と、郷の花の覚悟。
達観の境地に至ったユキの様子を見てとるや、仁親は衣服に着いた土埃を払いながら下山を促す。二人並んで歩く山道は、ユキの目には駆け上ってきた時よりも穏やかな世界に映った。
「お前はまだまだ強くなれる。守るべきを忘れるな」
東の空、地平線付近が朱に染まり、雲間から薄明かりが覗く。なぜだろう、ユキは生まれたての赤子のように泣きわめきたくなった。




