二
夕暮れ時、奥屋敷の庭先では、今日もユキと仁親の打ち合いが繰り広げられている。その傍らでは花里姫がにこにこしながら二人を見守っている。
必死の形相で打ちかかるユキに対し、相変わらず涼しい顔でユキの刀を受ける仁親。あの打ちのめされた夜からユキは何倍も努力しているが、未だに一本も取れずにいる。とはいえ毎日稽古をしていれば進歩はするもので、仁親の獲物は竹刀から木刀に変わっていた。木刀同士がぶつかる重み、その力強さを両の手で感じながら、ユキは何度も立ち向かっていた。
「もう一本、お願いします」
言いつけを守り、転がされても倒されても刀を離さず立ち上がる。何度目かの転倒の後、不意に横から花里姫が口をはさむ。
「毎日頑張っているわね、ユキ」
右耳に届いた可憐な声に、顔が赤くなるユキ。その隙を見逃さず、仁親が脇腹に一撃を入れる。
「……集中しろ」
はい、と情けなく返事をするユキを見て、花里姫がけらけらと笑う。御前試合で優勝したとはいえ、仁親にはまだ勝てそうにない。膝立ちで歯を食いしばり、意気込んで構える。
「次こそは、一本取ってみせます!」
「次とはいつかしら……」
はっとして姫君の方を振りむく。誰に言うともなくぽつりと呟いた言葉のようだったが、口元に笑みを浮かべながらも、その蒼い瞳には底の見えない感情があるように思えた。見てはいけないものを見てしまったと思った。常に命を脅かされている恐怖、周りに信用できる人間が少ない不安、何もできず奥屋敷で過ごすだけの焦燥。いつまでも頼りにならないままでいる、子供剣士への呆れもあるのかもしれない。郷の象徴として大切にされる一方で、何をしたわけでもなく命を狙われる宿命。この世に生まれ落ちた時から“郷の花”という役目を背負わされた人間の悲しみを垣間見たような気がして、ユキは絶句してしまった。
「これはこれは姫様、面白いものを見てらっしゃいますな」
沈んだ空気を一瞬で吹き飛ばす快活な声が、渡殿から聞こえてきた。声の主はユキもよく知るあの男だ。
「お久しゅうございます。花里姫様におかれましては、お会いする度、益々美しくなられますな」
「あら東吾、珍しいわね」
東吾の軽口に、慣れている様子で姫が応える。殿の傍に仕えるはずの風読みが何故わざわざ奥屋敷まで訪ねてきたのかと、姫君が朗らかに問いかける。
「明日、風森村へ参ります。数日間“風見ノ塔”に籠るので、その前にご挨拶をと思いまして」
「そう。大変だろうけれど、精一杯務めて父上を助けて頂戴ね」
「もったいなき御言葉、有難く」
両の袖を胸の前で合わせ一礼し、そっとユキに目配せする。その意図を図りかねていると、今度は仁親に向かってにやりと笑う。
「随分と熱心な指導のようだな」
「ああ。ちょうど夕餉の頃合いだ、お前も下がってよいぞ」
にべもなく答える仁親に促され、ユキは東吾と一緒に奥屋敷を後にする。普段は生垣沿いに歩くところを、こちらの方が近道だからという東吾の案で、こっそり庭園を横切るように進んでいく。なあに、風読みを咎める奴なんておらんだろう、とお気楽な調子で言うものだから、そういうものかと黙ってついていく。手入れの行き届いた芝に伸びる二人分の影。ユキは、悪戯な笑みを浮かべる東吾の隣で歩きながら、この男が来る直前の花里姫の表情が頭から離れないでいた。
「くじけるなよ」
ハッとして顔をあげると、東吾は目を細めてこちらを見下ろしていた。ユキの不安を見透かすように言葉を続ける。
「姫様の眼に臆していたようだったが」
さすが風読み、あの一瞬の空気から何かを悟っていたようだ。可憐な姫君の、見惚れるほどに美しい蒼い瞳を、何故か恐ろしく感じてしまったこと。姫君にも仁親にも、そろそろ見限られるかもしれないと、正直に不安を口にする。
「先日の御前試合を見ていたぞ。随分強くなったじゃあないか。そりゃあ剣役には到底及ばないだろうが、卑下することでもない。あいつが見込んだんだ、お前も強くなるさ」
「見込まれて……なのかはわかりません。たまたま味方にできる人間がおいらだった。それが弱いから仕方なく稽古をつけてくれているのかも……」
「何を言う!間違いなく味方であることが重要なのだ」
自信なさげに言うユキに、思わず声を荒げる東吾。存外大きな声を出してしまったことに気が付くと、そっと声をひそめて話を続ける。
「お前は覚えていないかもしれないが、水車の刑の最中にあいつが駆け込んできて言ったのだ。『その少年は咎人に非ず、守人である』と」
仁親が当時の状況を詳しく説明したことで、ユキの疑いは晴れた。残念ながら仁親の声はユキの記憶になかったが、その後自分を担いでくれた、肩の温かさはしっかりと覚えている。
「お前は黒夜叉集団に襲われた村の生き残りだそうだな。さすれば同じ痛みを背負い、同じ者を仇としている。そして郷巡りでのお前の動き、姫御輿に襲い掛かる平七に身体を張って対抗したと聞いた。強い弱いは別として、仁親はお前のことを“姫様を守る同志”だと思っているぞ」




