五
誰一人、声を発さぬ間ができた。天井から、きいん、という音がする。実際には何も鳴っていないのだが、空気を振るわせるその場の緊張が、音となってユキの耳に届いた。
花里姫は依然、ユキを見つめたままだ。蔀の開いた南側から差し込む陽光が、明障子を通して姫君に柔らかく降り注ぐ。光を纏うその神々しい姿を直視できないユキは、自分の膝の先にある床の木目に視線を移す。そのまま口を開こうとして、一瞬ためらった後に隣の仁親を見やる。あの夕暮れ時と同じように、自分の傍らには仁親がいる。それが心強かった。仁親が無言で頷いてみせると、ユキは決心がついたように居住まいを正す。
「その晩は新月で、早々に寝床に入ったんです。村のみんなが寝静まった頃、外が急に明るくなって……」
惨憺たる夜の出来事を、事前に仁親に言われた通り、言葉を選んで慎重に話す。誰かの叫び声に飛び起きると、日が昇る前だというのに障子戸が明々と照らされていた。方々から「賊だ」と叫ぶ声が聞こえ、赤い光は燃え盛る炎なのだと悟った。金属の打ち付ける音、戸を破壊する音が迫り、一瞬にして今生の別れを決めた親は、命に代えて子を匿った。
「おっか――かあさまが、おいらをこっそり逃がしてくれたんです。お前は足が速いから、郷屋敷に走って助けを求めるんだよって」
火の海にのまれた故郷を命からがら脱出し、闇の廃墟と化した森の中を、夕月郷の中央にある郷屋敷に向かって駆けた。新月は、歩きなれた森を魑魅の巣窟に変えた。足元も、行き先も、これから生きてゆく道も何も見えない真っ暗闇を、傷だらけになりながら走り抜けた。そして郷屋敷にたどり着く手前で行き倒れたところを平七に拾われ、郷守になった。その平七こそが、賊の一味だとも気付かずに。
「……平七は、どうしておいらを生かしておいたのでしょうか」
誰に対するでもない問いだった。隣に座する剣役が口を開く。
「郷屋敷の近くで騒ぎを起こすわけにはいかんだろう」
死体の処理に困るからな、とは流石に姫君の前では口にできなかった。
「あの時お前は、平七を見て賊とは考えなかったのであろう。それは何故だ」
「そ、それは……何でだったかな。……ああ、そうだ。月の紋様が見えたんです。よく村の見回りに来ていた郷守たちと、同じ装束を着ていたからです。賊たちは黒い衣に、頭には角を生やしたような恰好をしていたもんで、それでまさか賊の一味だとはこれっぽっちも」
己が情けなくなり、次第に声が小さくなる。視界の床板が微かに滲む。平七と出会った最初の晩の違和感にもっと早く気付いていれば、何かが変わっていたのかもしれない。
ユキは知る由もなかったが、あの晩村を襲った賊は、闇に紛れる黒い装束姿で不寝番の目を掻い潜ったのだ。賊の侵入に気が付いた時はもう手遅れだった。ユキが逃げおおせたのは奇跡といって良かった。近くの詰所から郷守たちがすぐさま駆けつけて賊に対抗したが、その安否は定かではない。
「して、どう考える高虎」
「十中八九、黒夜叉集団の仕業でしょうな」
姫君の下問に、高虎と呼ばれた側仕えが応じる。
「おそらく平七は、物見として控えていたのでしょう。郷屋敷まで逃れて来れる者の存在は想定外だったはず。郷守の姿で迂闊なことはできぬ故、ユキを助けた形をとったというのが妥当かと。以後、兄貴分を気取って手元に置くことで、監視していたのでしょうな」
耳の下から顎にかけてたくわえた、白と灰色が混ざるひげを右手で擦りながら尋思する。目を細めながら語る高虎が向ける、武人独特の射貫くような視線に、ユキは居心地の悪さを感じていた。
それを察してか、仁親が横から口をはさむ。
「黒い衣に頭に角を生やしたような恰好と申していたが、他に特徴は」
「ええと、そうだ。頭の片側に、鬼のようなお面をつけている男がいました」
「……夜叉面か」
応じた仁親と、正面の花里姫と、高虎が揃って渋い表情を作る。
「十二年前の悪霊が目を醒ましたか」
何か心当たりのある風な三人についていけないユキの様子を見て、姫君が問いかける。
「萌黄郷の創成期の話を聞いたことがありますか」
「はい、少しだけ。夕月郷を襲った悪者たちから、郷の花を守った刀守が始祖だと」
この先は私めが、と話を引き受けたのは高虎だ。
「その者どもは黒夜叉一族と呼ばれていた。萌黄郷を賜った冬守家初代当主によって、一族もろとも、とこしえの闇に葬られたのだ」
以来、郷に泰平がもたらされた。今日まで、郷の花を象徴とする常春の世が続いている。
ところが、近年になって看過できない事態が発生しているという。
「十二年前、黒夜叉を名乗る男が現れた。その男が引き連れる、自称一族の生き残りが結成した暗躍集団が、黒夜叉集団だ。黒い装束に、揃って身に着けるは二本の角。頭たる黒夜叉は、印として夜叉の面をつけている」
そして、と再び花里姫が言葉を継ぐ。
「その者は、わたくしの兄の仇なのです」




