一
いつか見た青い月が覗いている。それも二つ。なぜ月が二つもあるのだろう。
よく見ると、紫がかった青色をしている。森の奥にある泉のそばで見上げた、群青の月。そして泉に映るもう一つの月。緑がとりまく世界で、蒼く輝く月。
「――お山がふうっと息を吹きかけて、月を青くするんだよ」
優しい声がよみがえる。懐かしい気持ちが沸き起こり、次に痛みが襲った。
呻きながら重いまぶたを開くと、茜色の空が広がっていた。気が付けば、草むらに横たわっている。しばらくぼうっと何も考えずに、夕焼けの中で滑空する鳥を眺めていた。
全身をズキズキと疼く痛みが、顔に張り付く髪が、先ほどの悪夢のような出来事が夢ではなかったのだと思い知らせる。濡れ鼠のまま横たわっていたせいか、地面が湿っていて気持ちが悪い。乾いた場所を求めて、鉛のように重い身体をよじる。
傍らに人影があった。
「目が覚めたか」
知らない男の声だ。眩しさに目を細めたユキを、男は少し首を傾けて見下ろす。背後で輝く夕日が、その素顔を影の中に隠している。後ろで一つに束ねた男の髪が風にそよぐ。その人影は、声を聞かなければ女と見まごうばかりの、ほっそりとした姿をしていた。
男が近づいてきて、痛みと疲労で思い通りに動けないユキを助け起こし、自身も隣に腰を下ろす。
「まさに濡れ衣だな」
抑揚のない声。冗談を言って笑わそうというわけではないようだ。しかし、しかし。
ユキにとっては人生二度目の死にそうな思いをしたというのに、もっと気の利いた慰め、例えば「怖かったな、もう大丈夫だぞ」といった優しい言葉をかけてくれてもよいのではないか。
小さな不服を覚えたおかげで、思考力が回復してきた。今、この男は「濡れ衣」と言った。つまり、ユキに咎のないことを知っていたのだ。だから、水責めの刑にあっているユキを救い出してくれたのだ。
隣に座る男の顔をそっと覗き込む。こちらを見返すまなざしに見覚えがあった。確か二度、この瞳に出会っている。一度目は郷屋敷の渡り廊下で。二度目は郷巡りの姫御輿のそばで。
「へ、あれ、姫様……え、でも男……」
「残念ながら、俺は姫様ではない。俺は姫に仕える剣だ」
そう言うと、男は視線を外して前を向いた。姫に仕える剣、それはつまり、姫君ただ一人を守るために存在する、剣役。
――あぁ、知らねえのか? 姫をお守りするお役目のことさ。刀守の中から選ばれる、最も優れた剣豪だけが登りつめることのできる最高の地位だ
いつかの平七の話が思い起こされる。まだ何の波乱もなかった時の記憶だ。
――いいか、剣役ってのは誉れ高き男のことだ。姫の数だけ剣役がいる、ってえことはだ、今は一人しかいねえんだ。刀守の中で最強の男たあ、一体どんな猛者なんだか
その猛者が、目の前にいる。
「風仁……?」
「いかにも」
しかし当人は、“猛者”という言葉が似合わないような優男だ。
「ジン殿?」
「仁親だ。仁に親しむと書いて、仁親。……読み書きはできるか」
「は、はい、わかります」
「そうか」
「あの、助けていただき、ありがとうございました」
「ああ」
それきり会話が途絶え、二人の周りを静寂が取り巻いた。




