三
最初は、郷屋敷からほど近い夜越村を訪れた。郷屋敷に納める野菜や果物を栽培している主要な農村で、外回りで何度か訪れたことがあるため、列をなす郷民の中に見知った顔がちらほら見える。顔なじみのじいさんが、畑のわきで孫娘を連れて立っていた。孫娘は、そのもみじのような手を一生懸命伸ばし、ユキの背後を指さしている。
ちらっと右後ろを見やると、薄布を重ねた帳越しに姫君の存在を感じる。人々が自分の方を注目し、囁きあい、喜びの涙を流す姿を見るにつけ、すぐ後ろに姫君がいるという実感が沸々と色濃くなってゆく。
次に訪れたのは、緑の田園広がる三夏村だ。村人たちは田植えの手を止め、歓喜の声を上げる。茶屋の店先では、郷娘たちがぽうっと口をあけ、姫御輿へ憧れのまなざしを向けている。給仕をしている藤模様の小紋を着たきれいな娘も、頬を染めて列を見つめていた。
姫君の近くに侍るということは、それだけ人々の注目が集まる場所にいるというわけで、大勢の視線を受けて緊張の極みに達していたユキは、郷巡りが終わるまで身がもつのだろうかと心配になってきた。
街道にでて、やっと人々の注目から解放された。村々を巡るうちに、緊張感も少しずつほぐれてきた。そこで初めて、隣を歩く平七の顔が強張っていることに気が付く。
「あれ、アニキどうしたんでさ」
小声でそっと話しかけるも、聞こえているのかいないのか、表情は硬いままだ。
流石のアニキでも緊張しているのか、はたまた真面目くさったよそいきの表情を作っているのか。ここは、お役目に集中していると前向きに捉えておこう。
何の反応も示さない相手に話し続けるわけにもいかず、好き勝手に考えることにした。
思えば、初めて出会ったあの晩の平七も、今日のような顔つきだったような気がする。忘れもしない、新月の夜。転んで立ち上がれずいたところ、見回り番の平七がユキを見つけてくれた。
視線を前方に戻す。太陽の光が照りつける街道。脇に積まれた石が目に入った。郷守たちによって均された道をゆっくり歩きながら、ユキの意識は違う道を駆けていた。
雨上がりのぬかるみ。絡みつく木の枝、転がる小石、突き出す木の根。生まれて初めて死を覚悟したあの晩の記憶が一気によみがえる。
村は焼かれ、母と別れ、賊に追われ……森の中を無我夢中で駆け抜け、倒れた。身も心も疲れ切っていた。頬に触れた、地面の温度を思い出す。濡れた大地は、ユキの体温を奪っていった。
つらい過去を思い出した反動か、現のユキの身体もまた熱を失い始めた。冷汗が背中を伝う。やけに冴えた頭の中を、ふと何かが掠めた。
小さな、小さな違和感だった。
倒れたきり動かない身体。足もとから差し込む光。振り返れば、その光が照らす月の紋章。郷守の装束を身にまとい、少し険しい表情でのぞき込む平七の姿を、その右手の明かりが浮かび上がらせていた。不安で心がいっぱいだった、あの時――。
「……あの時、どうして後ろから現れたんだ……?」
ふと頭に浮かんだ疑問がぽろっと口からこぼれ出た、と同時に平七の方へ目線が動く。ユキの視線を避けるように身をねじり、腰元に腕が伸びる。その一瞬の動作が、やけにゆっくり見えた。まるで水の中にいるかのように、まわりの音が消え、時の進みがやたら遅く感じた。
冷たい川の中に飛び込んだ時のような、寒気がぞわっと全身を襲う。
周囲の音が急流のように押し寄せ、ユキははっと我に返った。刀の柄に手をかける姿が目に映る。
「……っ何やってるんだアニキ!!」
考えるより先に身体が動いていた。鞘から抜かれた剣が、太陽の光を反射してユキの目を焼く。ユキは、眩しさに目を細めながらも、姫御輿の方へ踏み出す背に手を伸ばし、刀を持つ腕を両手で掴む。
一瞬怯みを見せるも、体格も力も平七の方が上だ。掴まれた手を振り払おうと、平七が腕を大きく振り動かす。ユキも全身で抵抗し、腕の動きに合わせてぶんぶん揺り動かされる。
「邪魔するな」
ドカッとみぞおちを蹴られ、思わず手を放してしまった。痛みを感じているひまはない。今、姫御輿と平七の間を隔てるものは何もない。
「やめろぉぉ!」
伸ばした手が空を掻く。叫びも虚しく、姫御輿に近づく平七。すると突然、姫御輿の帳が勢いよく捲れ上がり、中から何かが飛び出してきた。
一陣の風が吹きすさび、瞬きのような速さで何かが閃いた。目の前の平七が、斬りかからんとする体制のまま倒れこんだ。
何が起こったのか理解できなかった。姫御輿から出てきた<何か>は、足元から砂けむりをあげてユキの前に立っている。それは一人の人間だった。
あっけにとられていたのも束の間、その人物が姫装束を着ていることに気が付いた。
「ひめさま……?」
頭をすっぽりと覆う長布を片手で無造作に脱ぎ捨てた姿は、しかし、まぎれもなく男だった。




