バグテクスチャ
考えたこともなかった。刃にとって”アンダーワールド”とは未クリアの巨大コンテンツのひとつであり、クリアすることを諦めたコンテンツでもあったからだ。いざ、こうして”アンダーワールド”がなんなのかを考えると、不思議と刃は言葉を詰まらせた。
姫野は怒っていない。ただ、自分に無い才能を持っている刃が、これまで頭角を現さなかったことが不愉快なのだ。姫野にとって”アンダーワールド”は生活の基盤であり、絶対に負けられない戦争だった。
2人の”アンダーワールド”における価値観の齟齬が気まずい空気を作り出していた。
考えた末、刃はひとつの答えを導き出す。
「……俺にとっての”アンダーワールド”は……きっと、世界中、誰とでもみんなで遊べるオンラインゲームなんだと思う」
「それがあんたの答え? ……拍子抜けもいいところだわ」
姫野は腕を組んでそっぽを向いてしまう。
怒らせてしまったのだろう、と刃は少し落ち込んだ。けれど、今の発言を撤回するつもりは一切なかった。ゲーム開発者の考えは刃にはわからないが、多分同じ気持ちで”アンダーワールド”を作ったのだろうと確信していた。でなければ、わざわざ個人間のレートを作る必要はないし、グランドダンジョンなんてコンテンツを作った理由がわからないからだ。
どうしてみんな、勝ち負けだけで物を見てるんだ……。
南奈然り、姫野然り。10年前はまだマシだった。みんな勝った負けたで一騒ぎしすぎている。もちろん、刃だって負ければ悔しいし、勝ったら嬉しい。しかし、それで一喜一憂するほどのものではない。ましてや国が一喜一憂するなんて馬鹿らしいとさえ、刃は思っていた。
”アンダーワールド”は根本からしてゲームだ。そこにさまざまな国や企業が参加しているというだけで、ゲーム以上のものになるはずがない。
とはいえ、この空気で高い料理を食べるというのは避けたかった刃は代わりに質問する。
「姫野は”アンダーワールド”を楽しいとは思わないのか?」
ピクッ、と指が動く。
かつてはそうであったかもしれない。遠い記憶の彼方に姫野は”アンダーワールド”を楽しんでいた幼子を思い出す。今では純粋な目で”アンダーワールド”を見ることすらできなくなってしまった自身を思って、小さく息を吐く。
「……思わないわ」
絞り出した一言だった。
それを聞いた刃は、確かに姫野が”アンダーワールド”をプレイしている時に笑っている表情を見せたことがないのを思い出す。
なんとなく寂しい、と刃は思った。
ファーストドリンクのジンジャエールの泡を通して、変わってしまった世界を見つめる。
南奈の言う通り、刃の知る10年前とは何もかもが変わってしまったのだろう。それは人の考えも含めて……。
よし、と刃は姫野に向き直る。
「決めた。勝つよ、姫野。俺は君に勝つ」
「……はあ? 何を言って——」
「勝って……俺が姫野に”アンダーワールド”の楽しさを教えてやる。プライドの高い姫野のことだ。レートの低い俺に負けたままじゃいられないだろ? そしたら、もっと必死になって”アンダーワールド”をプレイするだろうし、その過程で絶対に楽しさがわかる。おお、今日の俺、冴えてるう!」
ガッツポーズをして、自画自賛をする刃。姫野は意味がわからなかった。
刃が姫野に勝ったのはまぐれではない。姫野の油断と刃の卓越されたプレイスキルによるものだ。だが、2度の敗北は考えられない。なぜなら、姫野はもう刃の強さを知っている。知った上での勝負なら、手加減なんてしないし、徹底的に弱いところを突くつもりだった。
そんな算段をつけている姫野に対して、刃は勝利宣言を行った。これがどれだけ姫野の闘争心に火をつけたことだろう。
姫野は立ち上がり、刃を指差して叫ぶ。
「あんたねえ! このアタシがあんたに2度も負けるわけがないでしょ!? 夢を見るのも大概にしなさいよ!」
「さあ? それはどうかな?」
「は、はあ? 何言ってんのよ……」
刃は空に文字を書くように指を動かす。
「この1ヶ月間に行われる試験は5つ。どれも点数無制限のものだ。と言っても、俺の学力なんてたかが知れてる。取れて合計600点だな。試験での点数はレートにそのまま追加されるって聞いたから、今の俺のレートと合わせて1100。試験勉強以外の時間を全てアイテム採掘エリアの攻略に使えば、おおよそ500レートは上昇する。これで1600。レート上昇によってステータスを振り分けたとして、ざっと見3倍のステータスになる。そこに編入の条件として南奈から無理やり渡されたレア装備を加えれば——」
人差し指をぐるっと円を描くように回して。
「いい感じに、姫野に追いつける。なかなかいい案だろ?」
馬鹿らしい。実に馬鹿らしい。理論上……どころか空想上の考えだ。現実味を帯びている絶妙なラインで話を作っていることは評価できるが、あまりに突拍子もない。そも試験で言えば、姫野も受けるものであるし、加えて言えば姫野は優秀な問題児と呼ばれるくらいには勉強ができる。点数での勝負なら姫野に分があるとなぜ思えなかったのか。
しかし。子供のように目を輝かせている刃を見て、姫野はこいつなら本当にやってしまうかもしれない、と思ってしまった。学長と関係を持っていて、高レートの姫野に怖けず、他人に合わせるかと思えばマイペースで、果ては極東第一学園の1位とすぐに仲良くなってしまう。そんな刃なら、机上の空論ももしかしたら理論に変えてしまえるかもしれない、と考えた。
そこまで考えて姫野は思わず笑ってしまう。
「あはは。そんなことができるのはきっと”黒塗り”くらいね」
「へ!?」
「知らない? 10年前、突然現れて日本対アメリカの20区画を賭けた戦いをわずか5分で強制終了させたプレイヤーよ。映像が乱れてよく見えなかったけど、大砲よりさらに大きい銃身でとんでもない範囲を真っ黒のバグテクスチャに変えちゃったの。それで付けられた渾名が”黒塗り”。……ほんとに知らないわけ?」
「へ、へえー……し、知らない、な、なあ……」
あからさまに目を泳がせる刃。そんな刃の挙動に気が付かない姫野はジンジャエールを一口飲んで揺れる水面を見つめながら想いに耽る。
そうだ。アタシはあの瞬間、確かに”アンダーワールド”を楽しそうだと思った。それがきっかけで、アタシは強くなろうと思ったんだった。
彼方に置いてきた思いを拾い上げ、懐かしさに浸る。
戻れるのならば、戻りたいと切に思う。けれど、そんなことは許されない。姫野は名家の誇りと、何より日本の明日を任された若者であることを理解している。ただのゲームだと楽しめるような立場ではないのだ。
スッ、と刃の方を見て、能天気に生きられたらどれだけ楽だろうか。などと考える。
色々と考えたが、姫野はとりあえず、この場は楽しく過ごそうと刃に話しかける。
「ねえ、あんたはどんなやつだと思う?」
「え? な、何が?」
「”黒塗り”よ。ネットだといろんな説が噂されてるけど、あんたはどう思う?」
「……どう思うかより、ネットでどんな噂が広まってるのか、すごく知りたいんだけど。……いいや! やっぱり知りたくない! 言わないで!」
「……やっぱりあんたってどっか変よね。なんで”黒塗り”の話で顔を真っ赤にするわけ?」
ジト目で刃を見つめる姫野。刃は”黒塗り”という単語を聞いて羞恥心が激しく燃え上がったために顔を赤くしていた。
”黒塗り”という言葉は刃にとってこの世でもっとも聞きたくない言葉のひとつだった。例えるならば黒歴史のようなもの。言葉を聞いただけで体のあちこちがむず痒くなる。
不思議そうに刃を見つめていると、豪華な料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。まずはコースの前菜でございます」
運ばれてきた料理を見て、話は一時中断される。
とかく別の話をしたい刃は、待ってましたと言わんばかりに話を振る。
「と、とりあえずその話は一旦置いておいて、料理を食べながら別の話をしようぜ!」
「はあ? 別に”黒塗り”——」
「別の! 話をしようぜ!?」
全く、何をそんなに焦っているだろう。
疑問は解消されないが、仮初めとはいえ新しいパートナーが嫌がる話をするのは良くない、と思った姫野は注文通りの別の話をし始める。
こうして、2人の夜はなんだかんだで楽しいものとなった。
ただ一点。刃は寮に帰ってから”黒塗り”について調べると……。
政府直属のエリート美女が正体ではないか。日本のピンチに颯爽と駆けつけるイケメンだと思う。いや、実家暮らしの太ったゲーム中毒者だ。などといった根も歯もないスレッドを見つけて、1人で悶え苦しんでいた。
「——違う。違う! ……違うんだあ!!」
最後には泣き崩れるようにベッドに横たわり、眠れない夜を過ごす羽目になった。




