ダークブルーの無表情の君
「なんじゃ……こりゃあ……」
刃の表情は強張っていた。
群がる学徒はまるで悪鬼の如く。それを捌くおばちゃんは釈迦如来のよう。開店してわずか10分。極東第一学園のパン屋はいつも通りの大盛況で、飛び交うパンは戦場の銃弾のように売れていく。
その光景を生で見つめて、刃は困惑していた。
知らなかったのだ。一般の学徒たちにとって、このパン屋の存在がどれだけありがたいものなのか。何十人もの学徒がこのパン屋に救われているのかを。
極東第一学園の食堂はコスパのいい日替わり定食で510バーツなのに対し、パン屋のパンは1個100バーツ。仕送りや稼ぎの少ない学徒にとって、破格の値段だと言えるだろう。そのため、昼休みのパン屋は戦場と化していた。
かくいう刃は南奈からスカウトされる際に1000万バーツを振り込まれており、金銭的には困っていない。ただ、美味しいと有名なパン屋のメロンパンがどれほどのものなのかを知りたかっただけなのに、まさか戦場へと赴く心持ちでいなければならなかったことを熟知していなかった。
少しメロンパンを諦めようか、と考えた刃だったが、口がメロンパンを欲しいている。わずかな隙間からメロンパンが売れ残っているのを目視で確認してしまったがゆえに諦めきれない。
「……っし。いっちょ行きますか!」
パンッ、と頬を強く叩いて鼓舞する。
覚悟を決めた刃は群衆へと潜り込む。山籠りで鍛えられたスタミナと、雑草や落下物から避けるため身につけた体の柔軟性と操作性を駆使して瞬く間にコーナーの前まで辿り着く。
しかし、再び刃は表情を強張らせる。
目に入ってきたのは3種類のメロンパンだった。
王道の黄色いメロンパン。
中にメロン果汁の入ったカスタードを詰め込んだ緑色のメロンパン。
白と黒のチョコチップが練り込まれたメロンパン。
事前情報ではメロンパンが美味しいとだけだった。まさか3種類もあるなんて、と刃は群衆に揉まれながら頭を捻らせる。
悩む時間はパンの総量が減る時間に比例する。続々と売り切れていくパンたち。その魔の手はメロンパンにまで至る。
チョコチップメロンパンの最後のひとつが学徒に取られた。チッ、と埋もれる舌打ちをして、刃は大胆な行動に出た。
ノーマルのメロンパンとカスタードメロンパンのふたつを手に取ったのだ。
「おばちゃん! このふたつ!」
「はいよ! ふたつで240バーツね!」
素早く学生証でタッチ決済を済ませると、刃は群衆から抜け出した。
本来であれば、もうちょっとゆっくり吟味したいところではあったが、とんでもない速さで消費されていくパンの残弾を見てしまっては難しい。
惜しくもチョコチップメロンパンを手に入れられなかった悔しさを胸に、手に入ったメロンパンたちを見つめて、ついガッツポーズをとってしまった。
感動もほどほどに姫野がフードコートで待っていることを思い出した刃は、ふたつのメロンパンを手に歩き始めようとする。その視線の端に小学生かと見間違えるほどの背の低い少女がいた。
透き通るような真っ白な肌。ダークブルーのツインテール。金の眠たそうな垂れ目。その幼くも完成された美に目を奪われていた。
少女はぴょんぴょんとその場で飛んでいる。その視線の先にはパン屋があった。どうやらパンを買いに来たようだが、刃と同じく群がる学徒たちを前にして目当てのパンが売れ残っているのかを確認しているようだった。
チラリ、と刃は隙間からパンの量を見る。少女が何を欲しているか知らないが、すでに手遅れだった。最後のパンを女子学徒が手に入れてしまった。商品が売り切れたことで群がっていた学徒たちは各々複雑な心境で散っていく。
視線を少女へと戻すと、少女は飛び跳ねることをやめ、わかりにくいが残念そうな表情をする。
これは……あれか。一旦、声をかけてみるべきか。
周りの学徒たちも少女に視線を奪われている。やっぱり、幼くても美は美なのだろう、と刃は考えたが、周りの学徒たちの目に映っているのは明らかな驚きだった。
何を思ったか、刃は少女に声をかけようと行動を起こす。
まだパンが売り切れたことを引きずっている少女はその場を動かずにいた。その少女の前に歩み寄って、声をかける。
「え……っと。メロンパンならあるぞ?」
刃は勝ち取ったふたつのメロンパンを少女の前に出す。
そのふたつのメロンパンを見て、少女は首を傾げた。
「あなた……誰なの?」
「あ、っと。そうだよな。……俺は不知火刃。今日から学園に通うことになった編入生だ。よろしくな」
「そうなの。よろしくなの。それで……これはなんなの?」
状況をうまく飲み込めていない少女は首を傾げながら刃に問う。
刃としてはメロンパンふたつのうちどちらかならあげられるという意味だったのだが、初対面の——しかも異性からの言葉は少女にとって警戒心を持つ要因になった。
別段怒っているふうには見えなかった少女の発言に、刃は言葉足らずだったことを反省して、もう一度言葉にし直す。
「どっちかあげるよ。と言っても、メロンパンで良ければ……だけど」
「本当なの? ……見返りに何を要求するつもりなの……?」
「要求……って。別に何もいらないよ。それより欲しいか?」
「……不思議な人なの。桜もちょうどメロンパンを買いに来たの。だから、嬉しいの」
そう言ってノーマルのメロンパンを手に取る。
表情ではわかりにくいが、少女は喜んでいた。刃はその様子を見てよかったと胸を撫で下ろす。
年下と思われる少女に声をかけるなんて普段の刃ならまずやらない。今回はなぜかこの少女に目を惹かれ、声をかけてみたくなってしまったのだ。その理由まではわからないが、刃は少女に対してどこか同じ匂いを感じていた。
……と、姫野が待っていることを再度思い出した刃は急いでフードコートに向かおうとする。その裾を小さい手が掴んだ。
「うっ……。ど、どうした?」
「待って欲しいの。やっぱりただでもらうのはダメだと思うの。だから、えっちなお願い以外ならメロンパンに見合った代価を払いたいの」
えっちなお願い、って……。
世の中にはロリコンという言葉があることは知っているが、その良さがいまいちわからない刃にとって、えっちなお願いとやらが理解できなかった。
代価をどうするか要求されて、刃は返答に困った。
金銭面は有り余るほど手にしているし、レアアイテムを含むアイテム系も未使用のまま大量に保持している。かといって240バーツ程度の簡単な仕事を振れるほど、刃は都会に慣れていない。
困った末、刃は名案を思いつく。
「……じゃあ、こうしよう! 今は特にお願いしたいことがないから、一個貸しってことで! 何かお願いしたいことができたら君を呼ぶよ……えっと、名前なんだっけ?」
刃の名案はあまりにもお粗末だった。少女から見ても予想外のことで、クスッ、と可愛らしく笑う。
クイックイッ、と少女がしゃがめと手招きする。それに従って刃がしゃがむと、少女は学生証を取り出し、刃の映像型デバイスにそっとタッチした。
すると、刃の映像型デバイスが認証し、学徒データが映し出された。
「桜……ウォーターフィールド……」
「桜は桜なの。刃は気に入ったから覚えてあげるの。これでいつでも連絡できるの」
「そう……なのかあ……。ほんとにこの10年で変わったもんだなあ……」
「……? 刃は面白い人なの」
刃はゲームのこと以外に関してはこれといって突出しているものがない。そんな刃の何を以て気に入ったのか。刃にはわからない。だが、刃を見つめる瞳の奥が確かに揺れていた。
クスクス、とおかしそうに笑う少女——桜は、今度は刃の手を握った。
動揺した刃だが、これが握手だとわかると不思議に思った。
「メロンパンの代価を貸しひとつとして、桜・ウォーターフィールドは容認するの」
「あ、そういうこと……。メロンパンの代価を貸しひとつとして、不知火刃は容認する」
映像型デバイスが起動し、2人の間で契約が締結されたことを知らせる。これにより、桜と刃は正式に貸しひとつの関係になった。
普通ならこのようなことでここまでのことはしない。ただ、桜が刃を気に入ったというだけで執り行われた契約だ。
その事実を刃はまだ知らない。
契約を済ませて立ち去ろうとする桜に声をかける。
「そうだ。これから友達……というかパートナー? とご飯を食べるんだけど、一緒に来るか?」
「……本当に面白い人なの。桜と一緒にご飯を食べようとする人なんて見たことないの」
もしかして、いじめられてるのか……?
「もしよかったら、だけど。どうだ?」
「行くの。刃と一緒なら面白そうなの」
トテトテ、と桜が刃の横につく。刃もうまく誘えたと内心で喜んでおり、2人は姫野の待つフードコートへと向かうのだった。




