停滞の時代
最初、人々は若返り技術を手放しで礼賛した。人類がついに身体的老化を克服したのだから、夢の実現だった。成長抑制因子の同時投与で、巨人化問題も解決した。病気は減少し、経験は蓄積され、人口曲線も安定した。……そして熟練者は引退しなくなった。
専門知識は継承ではなく保持されるようになった。文明は、加速すると期待されたが、二十年後――世界は静かに停滞していた。
地球低軌道整備ステーションで、秋元一樹は、古い推進モジュールの内部で部品の交換を行っていた。
「また規格が古い……」
彼は小さく舌打ちした。設計年は三十三年前。今でも現役。それが優秀なことは認めるが、イノベーションが起きていない。
若返りができる社会では、設計者たちが引退しない。結果として、古い思想が更新されなくなる。
新しい推進方式は何度も提案された。だが審査委員会には、五十年前に核融合航行システムを完成させた当人たちがまだ座っている。彼らは賢い。圧倒的に有能だ。そして誰より保守的だった。
「既存方式の信頼性を超える実証が不足している」
それが、あらゆる新技術への返答だった。
だから宇宙開発は進んでいるようで進んでいない。スペースシップは洗練される。効率も数%向上する。だが革新が起きない。人類はまだ太陽系に閉じ込められていた。
一樹はアダプターを使って新規格の部品に交換し、パネルを閉じた。彼は宇宙開発機構の若手エンジニアだ。若手といっても三十七歳。この時代では、まだ「子供」に近い。
「秋元」
通信が入った。
「例の提案、また保留だ」
一樹は苦笑した。
「だろうな」
「審査官、全員百歳超えだぞ」
「若いな」
「皮肉か?」
「現実だよ」
一樹は窓の外を見た。宇宙は広大だった。だが人類の精神は、少しずつ閉じているように思えた。
一方、地上。
近藤美冬は、心理適応センターでカルテを読んでいた。症例:長期寿命社会適応障害。最近、急増している症状だった。意欲低下、倦怠感、集中力・決断力の低下など、うつ病のサインに近かった。
原因は、個人個人調べなければならないが、急増しているのは、死が必然でなくなったことに無関係でないように思われた。
美冬は、ある哲学者が「生きる目的」を問われて答えた言葉を思い出す。
「その質問は、命が終わるから可能なのです。死が必然だったころ、人々は自分に与えられた時間を賭けて、不可能に挑戦した。彼ら、彼女らの気質が必ずしもリスク・ラバーのものでなくても、生きることは選択の連続だったし、それはギャンブルでもあった」
確かに、若者が持っている筈の、世界に対する好奇心、欲望、理想主義、もどかしさ、憧れ、存在に対する寛大さ、可能性を信じる心、が多くの人々から失われていた。
美冬は、窓の外を見た。都市は美しかった。完成されていた。最適化され、安定し、事故率は低く、資源循環も高度に管理されている。でも美冬にはこの社会が老いているように見えた。肉体ではなく、精神が。
一樹は地上へ戻った。そして美冬と一緒に昔と同じように歩いていた。
巨人化問題も、都市再設計も、既に落ち着いて久しい。世界は静かだった。静かすぎた。
「宇宙、どう?」と美冬。
「変わらない」
「それは良い意味?」
「悪い意味で」と一樹は言った。「技術的には前進している。でも全部既存路線の改善なんだ。ブレークスルーが起きない。起こさせない」
美冬は彼を見る。
「年長者たち?」
「うん」
一樹は少し笑う。
「いや、別に悪人じゃないんだよ。みんな超優秀だし」
「でも?」
「失敗したくないんだ」
その言葉に、美冬は静かに頷いた。
長く生きた人は、膨大な失敗例を目撃している。熱狂が破滅した歴史、理想主義が崩壊した歴史、危険な技術、暴走した経済。経験は、人を慎重にする。慎重さは文明を安定化させる。でも同時に――。
「未知への探求心を殺ぐ」と美冬が言った。
「そう。可能性に心躍らせない。限界を突破しようと思わない」
一樹は南の空を見て、赤道上から夜空に伸びている宇宙エレベーターをイメージした。そして思った。(人類は宇宙へ届いている。でも、まだ飛び込んではいない)
「最近さ」と一樹。
「うん?」
「火星外縁探査計画、また延期された」
「何回目?」
「六回目」
美冬は苦笑した。
「理由は?」
「費用対効果と安全性に課題」
「いつもの」
「いつもの」
二人はしばらく黙って歩いた。
そして美冬が言った。
「心理学的にはね、長寿化社会って、“未来の圧縮”を起こすの」
「圧縮?」
「普通、人間は有限性があるから選択するの。時間が足りないから」
一樹は聞いている。
「でも寿命の延長が可能になると、“いつかやればいい”になる」
「……そうか」
「人生の緊張感が減るの」
風が吹く。静かな都市。完成された社会。そして、どこか停止した文明。
「ねえ、一樹」
「ん?」
「あなた、どうして宇宙開発やってるの?」
一樹は少し考えた。それから笑った。
「たぶん、まだ知らない景色があると思ってるから」
美冬は彼を見る。
その答えは、この時代では少し珍しかった。合理的ではないし、効率的でもない。でも、人類がかつて宇宙へ向かった理由に近かった。
「そういう人、最近減ってる」と美冬。
「だろうな」
「でもゼロじゃない」
一樹は夜空を見た。遠い軌道上の光。完成に近づきすぎた社会で、まだ誰も行っていない場所や未知を求め続けることは、ある種の反逆だった。
「ねえ」と美冬。
「ん?」
「毬子さん今、月にいるの知ってた?」
「本当?知らなかった」
「そして、間もなく火星に移住するんだって」
「信じられない。火星は遠すぎるから、月にいるうちに話をしたいな」
「そうね。それじゃ、今度月とのリンクをアレンジするから、一緒に話しましょう」
「わー、楽しみ」
(続く)




