第八十三話 志の食い違い
「小戴、お前は飯を食うのに困ったことなどないだろう」
今宵の寝床がない不安と対峙したことは? 寒さに凍える夜を過ごしたことは? その今日が明日も明後日もいつまでも続く絶望を知っているか。
矢継ぎ早に問われる言葉に返す答えがない。九品に生まれた文輝は十七年間、衣食住に何一つ困ることなどなかった。
それでも、市井のことは知っている。知っていると思っていた。
文輝が知っていた市井は岐崔の城下だけだ。岐崔の安寧が作られたものだとわかった時点で、その知識には不足がある。
この世界には文輝の知らないことの方が多い、ということを動乱を経てやっと知った。
遅すぎるのはわかっている。文輝の持論に照らせば、知ったのなら今から現実と理想との間にある隔たりを埋める努力をしなければならない。
文輝の顔に今、何が映っているのかを文輝自身が知ることは、今までは勿論、これからもない。向き合った相手だけがその答えを知っている。
だから。
文輝の表情から華軍が何を受け取ったのかは推して図ることしか出来ない。文輝の持論を通すのならば、それが最低条件だ。
自らの至らなさを知った文輝に、華軍が鋭い声を浴びせる。
「もう一度聞く。小戴、正しければ何をしても許されると思っているのか」
この世界の全てを善と悪の二つに分けて、少しでも悪の部分があれば反論をすることすら許さないのか。それが、本当に正しいことなのか。心の底からそう思っているのか。
何度も、華軍自身へすら確かめるように問いが重ねられる。
何かを答えなければならない。胸に去来した感情を口にしようとして、それが正しい答えなのか、と自問する。それもまた自己満足と知って、文輝は自らの小ささを知った。
「わかりません」
「わからないということはないだろう。お前のしたことだ。お前が、どう思っているのかぐらい、お前にもわかるだろう」
「本当に、わからないのです」
軍学舎の初科で習ったことの多くは偽りだったと知った。岐崔の外の世界は美しく整っていないことも知った。
文輝の世界を満たしていたことの多くが真実ではなかったと知って、それでもなお、持論を曲げずにいることが正しいのかどうかがわからない。
わからない、と答えるのが精一杯で真実なのに、華軍の声は追撃でもするように、曖昧な答えを許さない。
そして、また一つ、文輝は知った。
正論で人を詰るのは、無抵抗の相手を刃で斬りつけるのと何ら変わりがない。血は流れない。身体は何も失われない。それでも、感情は――心はひどく傷つけられる。正論を浴びせた相手が、自らの不徳を知りながら、それでも現実と折り合いをつけていたのなら、その程度はなおさら酷いだろう。
文輝が自らの信じた正しさを押し付けた二人の君主もまた、傷付いていたということをやっと知って、その罪深さの前で蹲ってしまいたい衝動に駆られる。
反論をしないのではない。出来ないと知っていながら、言葉を重ねた。自らが正しいと信じていたから出来た。文輝の振りかざした正論の中には人の感情が欠如していた。相手を思いやる気持ちが足りなかった。
後悔が少しずつ文輝の中に満ちてくる。
自らの思う正しさを、そのまま相手に求めるのは本当に正しいことだったのだろうか。
表情が曇っていたのだろう。華軍が語気を緩めた。
「小戴、これで最後だ。本当に、正しければ何をしても許されるのか。それはお前の言う悪と一体、何が違う」
何も変わらない。寧ろ、文輝が裁いた悪よりも性質が悪いとすら言える。
「信じるものが違っているだけ、なのでしょう」
「お前の十七年には全てが揃っているのか」
「いいえ。足りないものばかりでした」
若かっただとか、青かっただとか、言い訳は幾らでも出来る。その余地を許さずに一方的に詰った文輝がどれだけ人としての徳を欠いていたのかは、これ以上華軍に指摘されずともわかる。
何が九品だ。何が国官だ。何が理想だ。
文輝はその土台に立つことすら出来ていない。まず、人として不全だった。
そのことを、全てが終わった後に知っても何も出来ない。後悔をするのさえ自己満足だ。次に活かす機会すら与えられていないのだから、何も取り返すことなど出来ない。
あまりの不甲斐なさに囚われて、呆然と華軍を見た。
多分、今、姿が見えているのなら、文輝は泣き出しそうな顔をしているだろう。
華軍の眼差しから鋭さが消えないまま、声色が不意に優しさを帯びる。
「小戴、お前はお前がしたことの報いを受けるべきだ」
「永遠に巡るな、とでも仰りたいのですか」
今の文輝にはそれぐらいの罰しか思い浮かばない。
この暗闇の中を永遠に漂え、と言われたのだと受け取った。
その文輝を華軍は鼻先で嗤う。
「寝言は寝ているときだけにしろ。次の命など本当にあるのか、俺は信じていない」
「でも、華軍殿は確かに亡くなられたのに、こちらにおいでです」
「そうだな。魂という存在が本当にあったことには俺も驚いている」
あのとき。夕暮れの白帝廟で文輝の直刀は確かに華軍を刺し貫いた。その感覚をまだ忘れてはいない。
それでも、華軍は言う。




