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「如風伝」それは、風のように  作者: 稲瀬
第十六章 帰還
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第八十二話 正しさの尺度

 死者に再びまみえることは出来ない。

 だから、これは夢か幻か、文輝ぶんきの願望だ。死してなお、何かを望むことがあるのだ、と思うと不思議なものだった。

 それでも。生きることが叶わないのなら、せめて尋ねておきたいことがある。


小戴しょうたい、そう身構えるな。俺は何もお前を殺しに来たわけではない」

「既に命のないものを再び殺めることが出来る、と思わない程度には俺にも学があります」

「死ねば巡る。幾度巡れば終わりになるかはわからんが、その流れから弾き出されれば終わりは二度と来ない」

「『礼経らいきょう』ですか」


 「礼経」というのは所謂「五書ごしょ」の一つで礼儀、作法を通して宗教観を著わしたものだ。葬儀についての作法を示した段に、死者を送る心構えとして華軍かぐんが先に言ったようなことが記されている。武官にはあまり縁がない内容であり、文輝は知識として理解しているが、信じているのかと問われると返答に困る。

 その、一般論を説いた本人も別段信じている風ではなかったから、世間話なのだと判断した。


「華軍殿、自ら命を投げ捨てたものも、巡ることはあるのですか」

「さてな。俺は、次に期待して命を捨てたわけではない。巡れずとも後悔もない」


 ただ、生きているというだけでつらかった。その気持ちから離れたかった。それだけだと華軍は訥々と語る。その途中で、手の込んだ自殺に文輝を巻き込んだことを詫びられる。

 謝罪の言葉が聞きたかったのではない。

 意図せず、同じような境遇に陥ったことに同情をしてほしいわけでもない。

 ただ。


「俺が十年早く生まれていれば、何かが変わりましたか」


 岐崔ぎさいで起きた動乱をただ見ているしか出来なかった。もっと早くに華軍や戦務長せんむちょうと出会えていれば結果が変わったかもしれない。もっと穏やかな解決策があったかもしれない。

 そう思うと言葉が口から零れた。他意はない。仮定を積み重ねても結論は変わらないし、失ったものは戻らない。知っていたが、文輝がそれを思い出したのはありもしない耳朶で自らの声を聞いた後だった。

 文輝の短慮を聞いた華軍は複雑な表情を見せる。


「お前は何も変わらないんだな」


 文輝が華軍に初めて出会ったのは十七の春だ。警邏隊けいらたい戦務班せんむはんに配属になって、そのときに通信士つうしんしとして紹介されたのが華軍だった。利発そうな風貌とやや寡黙なところが釣り合っていて、二十代で岐崔の通信士を務めているの英才だけのことはある、と勝手に納得した。勝手に納得して、その日以来、文輝は寡黙な華軍の言葉を引き出そうとあれこれ話しかけた。文輝が一人で語ることの方が多かったが、それでも必要最低限の相槌は返ってきたのだから、会話は成立していた。今でもそれは疑っていない。

 国の未来、国官のあるべき姿、九品きゅうほんとして背負う重み。女官にょかんたちが用意する昼食の好悪、日々色を変える天候や風の表情。

 会話の一つひとつを覚えているわけではない。それでも、数えきれないほどの言葉を交わした。

 その全てが偽りだったとは思いたくない。

 それでも。

 華軍は文輝と同じものを見ても、同じようには感じていなかったことを知ってしまった。

 悲哀と憐憫と侮蔑と憤怒を矛盾なく孕んだ華軍の声色が語る。文輝の浅慮な問いが、また一度、華軍を傷付けてしまった。


「小戴、お前はいつもそうだ」

「何のことでしょうか」

「自覚がない、というのが最も残酷な罪であることをお前は知らない。正しさがそんなに大切か」


 身を切るような切実さを帯びた声が文輝に届く。何を問われているのか上手く咀嚼出来ない。

 正しさとは不変のものだ。十七年間、そうであると信じて文輝は生きてきた。

 物事は多面的な要素を持っているが、正否だけは変わることがない。

 だから、正しくあるように自戒することを自身に強いている。そうしているのは、文輝だけではない。九品に生まれたのなら等しくそうあるように教育される。


「無知が罪であるのなら、それは俺の不徳です。正しさを守ることとは矛盾していない、と思うのですが違うのですか」

「ならばお前に聞こう。正しければ誰かを傷付けてもいいのか。正しさというのは人の思いよりも大切なものか」


 突然に提示された命題の証明に戸惑う。正しくあるべきだと育てられた。偽りだらけの「五書」を真剣に信じてきた。その価値が揺らいでも、文輝の中には正否の基準だけが寸分違わずに残っている。

 だから、正しいことと誤っていることとの線引きは行われて当然だ。

 人の思い、というのが何を指すのかは判然としないが、正しいものは報われ、誤りは正されるべきだ。


「不正を肯定する感情などない、と俺は思います」


 華軍の双眸が文輝を射る。そのあまりにも鋭い輝きに文輝は息を呑んだ。それぐらい、華軍は真剣に文輝と対峙していた。

 辛辣な言葉が、戸惑う文輝を更に襲う。


「ではお前は飢えた貧しい子どもに『金がないのは自らの不徳。それを受け入れ、飢えたまま死ね』と言えるのだな?」

「いいえ。そのようなことは言いません」

「では何とする」

「感情の好悪に拘らなければ、日銭を稼ぐ方法がある筈です。それをしないで、飢えるのはただの怠惰ではないのですか」

「怠惰、か。やはりお前は何もわかっていない」


 何もわかっていない、と頭ごなしに否定されるつらさをわかっていないのは華軍の方だ。そう反論したかったが、華軍の眼差しがそれを許さない。否定されて、悔しい思いをしているのは文輝の方なのに、華軍の方がずっと傷付いた顔をしている。

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