第八十四話 原初の過ち
「俺はもう手遅れだが、お前はまだ間に合う。それに」
「それに?」
「俺はお前に生きて、苦しんで、悩ませる復讐を望んでいる。その身でお前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え」
だから、お前はもうここにいてはならない。
言って華軍が一歩、二歩と文輝に近づいてくる。
そして、華軍の手が文輝の胸をとん、と押した。身体が後ろに傾いたと思ったら、どこか高い所から落ちるような感覚が生まれ、華軍があっという間に遠ざかる。
待ってほしい。
まだ話していたい。文輝の何が至らなくて、何をどう直すべきなのかを尋ねたい。
そう思うのに華軍の姿は闇の中に消えた。
そして。
「華軍殿!」
地面に叩きつけられる感覚と共に文輝は華軍の名を呼ぶ。視界が明るさを取り戻す。ただ白かっただけの世界が、不意に焦点が合うように実像を結ぶ。見たことのない天井が視界に映った。
ここはどこだろう。
四方を見渡そうと首を動かす。先ほどまでとは違い、思うように視界が回らない。難儀しながらも、文輝は横を向いた。
白い布が敷かれた寝台の上に横たわっている、と気付くと同時に、視界に流れるような黒髪が映る。黒髪越しに白んでいく空が見えて、朝焼けだ、とぼんやり思った。黒髪の持ち主は文輝が横たわる寝台に突っ伏して眠りの中にいる。誰だろう、と思うと黒髪が床に流れ落ちた。
そして。
「首夏?」
薄っすらと開いた榛色の双眸が文輝の視線と交錯する。「暮春」と呼んだつもりが声にはならなかった。それでも、文輝がそこにいることを見て取った晶矢の榛色がこれ以上ないほど見開かれて、そして弾かれたように彼女が部屋を飛び出していく。視界の片隅に美しく弧を描く平服の袖が焼き付いた。ぱたぱたと軽い足音が廊下に出て、あっという間に遠ざかり、そして音の数を増して戻って来る。
「文輝殿!」
「文輝、目が覚めたんだな!」
晶矢に先んじて長兄の妻である玉英医師と次兄が部屋に飛び込んできた。
玉英は持参した道具で、手際よく文輝の診察を始める。呼吸、脈拍、心音。それらが整っていることを確認して、彼女は寝台に投げ出された文輝の右手を握った。人の体温に触れて、その温かさに懐かしさを感じる。握られた右手を、文輝もまた握り返した。
「大義姉上」
唇を動かすと、今度は掠れながらも音が出る。それを聞いた玉英が文輝の右手をそっと解く。そして、彼女は後ろに控えていた次兄に「もう大丈夫ですよ」と言って立ち位置を入れ替える。文輝の枕元に立った次兄は顔中を安堵に染めて、そして、一切の遠慮なく、文輝の頬を平手打ちした。乾いた破裂音が部屋中に響く。文輝は衝撃やら、痛みやらで何が起きているのかよくわからない。晶矢が慌てて次兄の名を呼んだ。それでも、次兄は穏やかな顔のまま静かに檄している。将軍位を持つ武官の平手打ちが痛くない筈がない。口の中に鈍い味が広がっている。その痛みを必死に堪えたのは何も分別があったからではない。表情一つ変えずに激怒している次兄を見るのが初めてで、言葉では表せないほど怖かった。
「文輝、お前は自分が何をしたのかわかっているな?」
平静そのものの声が聞こえて、文輝は自らの失態を振り返る。国主と宰相に対して礼を失した行動を取った。それが九品、戴家の公式見解になるが構わないかと問われて、次兄が責任を請け負ってくれた。請け負ってくれたのをいいことに、文輝は思う通りにした。
正しいと思うことをしたが、それは文輝の独善だったと闇の中で華軍に諭された。
だから、戴家に迷惑がかかったのだ、と察する。
どれだけの影響があったのだろう。
次兄がこれだけ怒っているのだから、相当のものだ。もしかしたら、家名断絶ぐらいの罰が下ったのかもしれない。
返答を待っている次兄に、恐る恐る、文輝は答えた。
「独善で、国のあるじたる方に無礼をはたらきました」
「違う」
平坦に否定される。次兄が答えをくれる様子はない。痛みを噛み締めながら次の答えを紡ぐ。
「武官見習いの領分を超えた言動をいたしました」
「それも違う」
「では、大義姉上のお立場を考えておりませんでした」
「文輝殿、それも違います」
自分の立場などどうということもない、という答えが玉英から返る。では何だ。これ以上答えは思いつかない。苦しくなって口を噤む。次兄がすっと右手を上げた。もう一度平手打ちを受ける、と思い瞼を強く閉じる。
だが、痛みはやって来ることなく、温もりが文輝を抱え込んだ。
文輝の肩口が不意に湿度を帯びる。冷徹な将軍の顔を捨てた次兄の目元から次から次へと涙が零れている。潤んだ声が、文輝の耳に正解を伝えた。
「この馬鹿弟! どうして自分から死ににいくような真似をしたんだ! 義姉上がどんなお気持ちでお前の治療をしたと思ってるんだ! ふた月もお前が目を覚まさなくて、母上がどれほど苦しまれたと思っている!」
「小兄上、俺は」
「正しさの為に命を棄てて、その結果は誰が引き受けるんだ! 人を助ける為にお前が死んて、それで誰かが救われるのか!」
俺はそんな正しさはいらない。涙声が訴える。




