第3話 初めまして
(エヴラール……ッ)
待ち望んだ、かつての婚約者との再会にオレリアの鼓動が跳ねる。
自分だけが持ち合わせた、彼とのかつての幸福な記憶が彼女の脳裏を過る。
目頭が熱くなり、涙で瞳が潤むのを何とか堪え、オレリアは深呼吸をした。
エントランスまで出て、その中央へ歩みを進めていたエヴラールはやがて、絵画の前に立つオレリアの視線に気付いて目を瞬かせた。
それから小さく会釈をする。
積極的に声を掛けるでもない、最低限の挨拶。
それが、彼にとって『前回』の記憶がない事の証明となった。
(やっぱり、彼は覚えていないのね。……分かっていた事ではあるけれど)
他人として向けられた挨拶に、オレリアの胸は締め付けられる。
しかし息苦しさに耐えながらも彼女はエヴラールへ深くお辞儀をした。
「こんばんは。パーティーは大盛況ですね」
「こんばんは。そうですね」
どちらかが声を掛ければ、軽い世間話を交わすのが社交界でのマナー。
それに従い、エヴラールはオレリアの前で足を止めて微笑んだ。
「恥ずかしながら、私は少し人に酔ってしまって。ここで少し休憩をしていたのですが」
貴方を先回りすべく急いで走って来た……等とは言える訳もなく。
オレリアは若干の後ろめたさを感じつつ、白々しい嘘を並べた。
また、彼女のその言葉を聞いたエヴラールはほっとしたように胸を撫で下ろしてから、頷きを返す。
「俺もです。よかった、同じような人がいて」
「ふふ。公爵家の嫡子とも在ろうお方ですと、きっと私などよりもお忙しいでしょう?」
「……俺の事をご存じで? すみません、どこかでご挨拶した事が……」
オレリアがエヴラールの正体を知っていると仄めかす発言をしたのは、何も彼女の失言ではない。
互いを知人として認識するようになったのはこの日が初めてだったが、『前回』のオレリアもまた、こうして言葉を交わす前からエヴラールの事は知っており、同様の話題を振った。
故に、これは寧ろ『前回』の会話内容に沿った発言といえる。
一方のエヴラールは初対面という前提で話していた手前、オレリアを顔を覚えていない令嬢として失礼に扱ってしまったのではという懸念を抱いたようであった。
彼は顔を強張らせ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいえ。一方的に存じ上げていただけです。この国ではスヴェストルの名を知らない者の方が少ないですから」
「そうでしたか、よかった」
「もしかしたら父はご挨拶に上がられた事があるかもしれませんが」
「お父上が? 失礼ですが、家名を伺っても……いや、失敬。順序というものがありましたね」
エヴラールは咳払いを一つしてから、バツが悪そうに苦笑する。
そしてオレリアを真っ直ぐと見据えて問い掛けた。
「初めまして。貴女の名をお伺い出来ますか?」
――初めまして。
何もおかしなところはない。
ただの初対面の挨拶だ。
しかしそれを彼の口から聞いた途端、オレリアの胸を鋭い痛みが走った。
彼が何も知らない事などわかり切っていたというのに、悲しみは理性的な考えを無視して膨らみ上がる。
(いけない。彼を驚かせてしまう)
視界が滲みだしたオレリアは慌てて目を閉じ、カーテシーと共に頭を深く下げる。
その口元には何とか微笑みを貼り付けることが出来た。
「オレリア・ド・エルディーです。……初めまして」
「エルディー……ああ、もしや、エルディー侯爵のご息女で?」
「はい。本当はパーティーでお見かけした際に、何度かご挨拶をと思った事はあるのですが……エヴラール、様にはいつも多くの方が集まっていましたので、控えさせていただいておりました」
「ああ、なるほど」
慣れない敬称を付けて愛する人を呼べば、またもやオレリアの胸は痛む。
こっそりと深呼吸を繰り返し、何とか気持ちを落ち着けてからオレリアはエヴラールに向き直った。
会話が途切れ、オレリアが顔を上げた頃。
エヴラールの視線は二人の前に飾られた絵画へと向けられていた。
「クアムルーメか」
「はい。とても好きな花で」
「奇遇ですね。俺も好きですよ。花弁の色や形は美しいし、何より――」
「――空や海の広さを彷彿とさせるから」
クアムルーメについて語るエヴラールの声が、オレリアの記憶に残る言葉と重なる。
穏やかで心地よい、その声に耳を傾けていたオレリアは意図せずして彼の言葉に続くように呟いてしまう。
それは『前回』のエヴラールから、何度も聞かされた話だったのだ。
エヴラールの声は途切れ、彼は驚いたように双眸を見開く。
(しまった……っ)
出てしまった言葉をなかったようにしまい込む事は出来ない。
オレリアは内心で大きく焦りながらも笑顔を取り繕いながら、自分の発言を誤魔化す方向に話の舵を切る。
「ほ、ほら、空も海も、果てしない程広いじゃないですか。何の障害もなく、のびのびとしているというか。そういうところが私は好きで……。だから、もしかしたらエヴラール様もそうなのではないかと……」
聊か早口になってしまったのは、彼女の心理を考えれば致し方のない事だったといえるだろう。
オレリアが空や海を好いているのは真実だ。
しかしそう思うようになったのは、エヴラールからそれらの良さを聞かされた為。
彼の話や、好きなものについて語る時の輝くような笑顔を見るのが好きだったからだった。
真実を織り交ぜつつ誤魔化した言葉は、エヴラールへ不信感を与えずに済んだのか。
そんな不安に苛まれながらオレリアはエヴラールの顔色を窺う。
緑の瞳はオレリアを映したまま何度か瞬きをする。
「っ、ふ……ははっ」
そして僅かに間が空いてから、彼はおかしそうに吹き出して笑ったのだった。




