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第82話|揺れる心、揺れぬ盾

 あの夜から、一日が明けた。


 屋敷の朝は、驚くほど静かだった。

 窓から差し込む光はいつも通りのはずなのに、柔らかさの中にどこか遠慮がある。

 戦いの余韻と疲労が、空気ごと沈めているように思えた。


 床板の軋みさえ、音を立てるのをためらっている。

 湯気の立つ椀から上がる匂いも、薄い。

 ――昨日の熱と硫黄の匂いが、まだ鼻の奥に残っているせいだ。


 それでも、日常は否応なく戻ってくる。


 戻ってくる日常は、優しさじゃない。

 “続けるための形”だ。


 ちゃたろ〜は食堂の片隅で、静かに水を飲んでいた。

 顔色は普段と変わらない。肩の力も抜けている。

 ただ空腹を満たすために、淡々とパンを口へ運んでいる。


 噛む。

 飲み込む。

 息をする。


 その手順を一つずつ、確かめるように。


 しばらくして、戸口で足音が止まった。


 ララがふらふらと現れ、半分夢遊病者みたいな足取りで通り過ぎかけ――ちゃたろ〜の姿に気づいて、目をこすり、二度見した。


「……ちょ、パイセン。マジでなんで元気なの!?」


 声は大きい。

 だが、最後の母音が震えている。

 元気に見せようとして、元気になれない音だった。


 ちゃたろ〜は平然としたまま答える。


「腹が減ったからな」

「ずる……」


 ララは椅子に崩れ落ち、額を押さえた。

 肩が落ちる。手が落ちる。視線も落ちる。


「こっちは今朝も手が震えて……夢で三回もケルベロスに追いかけられたのに……」


 冗談めかしている。

 けれど、笑いは乾いていた。

 恐怖の残滓が、血肉にこびりついている。


 ちゃたろ〜は言葉を足さない。

 ここで「大丈夫」を置くと、それが“形”になる。

 形になった安心は、次に崩れたとき、倍の重さで落ちてくる。


 代わりに、ちゃたろ〜は水をもう一口飲んだ。


 飲む音は小さい。

 だが、その小ささが――「今日はまだ壊れていない」という事実になる。


     ◇


 やがて、ギルドの使いが現れた。


「全員に、ギルドからの呼び出しが届いています」


 迷宮都市では、深層から帰還したパーティには必ず聞き取りが行われる。

 形式的であっても、報告は義務だ。


 だが、今回はそれ以上の意味を持っていた。


 空気が一段、冷える。


「……俺が、元気すぎるから、か」


 ちゃたろ〜が小さく呟く。


 撤退そのものは責められることではない。

 誰もが命を賭けて挑み、誰もが無事に戻れただけでも十分に価値がある。


 だが――仲間が倒れ伏す中、ただ一人、普段通りの顔をしていた者がいた。


 その異質さが、ギルドの目に留まる。

 異質さは、噂になる。

 噂は、監視になる。

 監視は、次の“形”を呼ぶ。


 だからこそ、今日の呼び出しは“手順”だ。

 逃げないための手順。

 変に言い訳しないための手順。


     ◇


 翌日。ギルド本部の応接室。


 扉は厚く、床は硬い。

 外の喧噪が遠い代わりに、紙の匂いが濃い。

 報告という名の“成立”が、ここには最初から置いてある。


 ちゃたろ〜は椅子に座らず、壁際に立って待っていた。


 座れば、形が成立する。

 成立すれば、責任が乗る。

 責任が乗れば、“次の背中”が重くなる。


 扉が開く。


 入ってきたのは、仮面の鑑定士セフ=ユステだった。

 白銀の仮面。黒衣。

 歩幅は一定で、呼吸も一定。


 けれど、その一定が、ほんの一拍だけ揺れる。


 彼女は足を止め、しばし無言でちゃたろ〜を観察した。


 観察というより、測っている。

 体温。呼吸。目の焦点。立ち方。

 昨日を引きずっているか。引きずっていないか。


「……あなた、本当に……あの戦闘のあと?」

「驚いてる?」

「……ええ。かなり」


 苛立ちと安堵の混ざった声だった。

 苛立ちは“想定外”に対して。

 安堵は“壊れていない”ことに対して。


 セフは机に資料を広げ、小さな器を取り出した。

 布で包まれていたそれを、丁寧に置く。

 置き方ひとつが、彼女の性格を表していた。無駄がない。


「この器。中の魔核が、うっすらと“揺れた”形跡がある」

「……揺れた」

「しかも火属性の耐性反応。あなたが“あの攻撃”を受けたとき、核が呼応したのだと思う」


 ちゃたろ〜は視線を器に落とす。


 器の縁は冷たい。

 けれど中心の気配は、温い。

 “温い”は、火の匂いだ。

 あのドームの熱と同じ質。


 同じ質なのに、こちらは暴れない。

 ――まだ、形になっていないからだ。


「……器を通して、核の力が宿るのか」

「仮説に過ぎない。でも、反応があったという事実は無視できないわ」


 セフの声が、少しだけ低くなる。

 低くなるのは、重要だからだ。

 重要な言葉ほど、彼女は抑える。


 沈黙が落ちた。


 その沈黙は問いじゃない。

 ちゃたろ〜が“自分で言うか”を待っている沈黙だった。


 セフは一息置き、仮面の奥から珍しく声を柔らかくした。


「あなたは――自分で気づいている? 心も、体も、普通じゃないくらい“強い”と」

「倒れるほどじゃなかった。ただ、それだけだ」


 言葉は短い。

 短いから、嘘が入らない。

 嘘が入らない代わりに、説明も入らない。


 セフは小さく息をついた。

 安堵にも似た吐息だった。


「……あなたが“そのまま”であること、それ自体が、皆にとって救いなのかもね」


 救い。

 その単語は危険だ。


 救いは形になる。

 形になった救いは、次に“利用される”。


 ちゃたろ〜は頷かない。否定もしない。

 ただ器に目を落としたまま、言葉を一つだけ置く。


「俺は、支える。倒れない形を作る。それだけだ」


 セフが、ほんの僅かに頷いた。

 観測者が、針を一本――“ここに刺せる”と決めた頷きだった。


     ◇


 同じころ、別室。


 オリーブは机の前で両手を強く組んでいた。

 組みすぎて、指先が白い。

 眼鏡にはまだひびが残っている。

 ひびの向こうの世界は、少しだけ歪んで見えた。


「昨日の戦闘、大変でしたね」


 ギルド職員の柔らかい声に、彼女はこわばった表情で答えた。


「……はい。わたし、バリアも……出しました。けど……頭が真っ白で、戦況を読むことも、指示を出すことも……なにもできなくて。ずっと悔しくて」


 声が震えていた。

 震えは、羞恥と恐怖と怒りが混じっている。

 怒りは自分へ向いている。


「あなたのバリアは、何度も皆を救いました。壊れなかったのは、その力が支えになったからです」


 オリーブの肩が、ほんの少しだけ下がる。

 下がるのは、緊張が抜けたからじゃない。

 “評価”が一つ、正しい位置に置かれたからだ。


「……そう言ってもらえると、少しだけ心が軽くなります」

「怖かったんですね」


 職員の言葉は刃じゃない。

 刃じゃないから、刺さる。


「……はい。ずっと、怖かったです。でも、終わった今も体がこわばって……」

「誰もが怖いんです。大切なのは、逃げなかったこと。そして今、自分の弱さを認められる、あなたの誠実さです」


 オリーブは少しだけ涙ぐむ。

 だが、泣かない。

 泣くと崩れる、と自分で分かっているからだ。


 彼女は顔を上げ、眼鏡を押し上げる。

 押し上げる動作が――自分を“戻す”手順になる。


「……もう一度、頑張りたいです」


 言葉は震える。

 けれど、その震えは“逃げたい”の震えじゃない。

 “戻りたい”の震えだ。


     ◇


 また別の部屋。


 ルンナは静かに報告書を書き込んでいた。

 筆圧は一定だ。

 一定なのに、線の端だけが僅かに揺れる。


 揺れは疲労。

 疲労を見せないために、彼は筆圧を一定にしている。


「ご無理なさらず。もし痛みがあるなら医務室へ――」


 職員の言葉を遮るように、ルンナは短く答えた。


「必要ない。問題ない」


 ぶっきらぼうな声。

 だがその手は、わずかに震えていた。


 震えを見せないために、握りを強くする。

 強く握ると、また痛む。

 痛むと、さらに強く握る。


 ――矜持の悪循環。


「皆の盾となり、最後まで踏みとどまった。あなたがいなければ、撤退も難しかったでしょう」


 その言葉に、ルンナの瞳が一瞬揺れる。

 揺れるのは嬉しいからじゃない。

 気が緩むのが怖いからだ。


「……そう言われると、気が緩むな」

「人は強さと同じだけ、脆さも持っています。ご自分も、時にはいたわってください」


 ルンナは短くうなずき、席を立った。


 背中には、痛みと矜持の両方が滲んでいる。

 滲むものを、言葉で拭おうとはしない。

 それが彼の“止まらない手順”だった。


     ◇


 最後の面談。


 なぜか、ちゃたろ〜が面談官の席に座っていた。


 座っている時点で、これは“形式”ではない。

 形式の皮を被った、現場の手順だ。


「え、なにこれ? なんでパイセンが……」


 ララは椅子の上で落ち着かずに身を揺らす。

 揺れるのは元気だからじゃない。

 じっとすると、昨日の音と熱が戻るからだ。


「それが報告内容?」

 ちゃたろ〜が机越しにじっと見る。


 視線は責めない。

 逃げ道を作るための視線だった。


「……いや、その……昨日のこと思い出すと、頭が……」

「当たり前だ。怖かったんだろ」


 ララが目を見開く。

 “怖い”を許された顔になる。

 許されると、やっと言葉が出る。


「……うん。マジで。心臓、ずっと喉にあった」


 ちゃたろ〜は頷かない。

 頷くと慰めになる。

 慰めは甘えになる。甘えは手順を崩す。


 代わりに、ちゃたろ〜は“次に繋がる形”だけを置く。


「お前の魔法は、無駄弾が多い。狙いとタイミングを変えれば、通る」

「……まじ? 昨日なんて詠唱も頭もグルグルで、あの炎の前じゃどうしろってんだって……!」

「才能はある。火力職として通用する。やり方次第だ」


 ララはぽかんとして、それからやっと小さく笑った。

 笑いは軽口じゃない。

 胸の内側の硬さが、一枚だけ剥がれた笑いだ。


「……ほんと変な人。でもさ、パイセンにそう言われると、ちょっと自信出てくる。……うん、ありがと」


 面談の終わり、ララは小声で呟いた。


「……次はマジで勝つから。見ててよね」


 ちゃたろ〜はただ「うん」と頷いた。

 肯定だけを渡す。

 理由は渡さない。

 理由を渡すと、次に縛りになるからだ。


     ◇


 その夜。


 ちゃたろ〜は机に器を置き、じっと眺めていた。

 わずかに火の気配を帯びた魔核。

 昨日より温い。

 温いのに、暴れない。


「あれに、反応したのか……」


 核が揺れたとき、自分は何を思っていたのか。


 耐えること。

 守ること。

 倒れない形を作ること。


 そこへ力が応えようとしていたのかもしれない。

 力が応えたのではなく、自分の“手順”へ器が寄ってきた――そんな感覚だった。


「……宿る、か」


 静かな呟き。


 まだ形はない。

 だが確かに、“芽”が生まれつつある。


 芽は急がない。

 急げば折れる。

 折れた芽は、二度と戻らない。


 だから、温存する。

 ここで頼らない。


 ちゃたろ〜は器に掌を置いた。


 冷たい縁。

 温い中心。


 その温度差が、これからの戦いの“距離”になる気がした。


(次は、門の前で崩れない)


 崩れないために勝つのではない。

 勝つために、手順を整える。


 彼は小さく息を吸い、吐いた。

 硫黄と鉄と血の匂いが、少しだけ薄くなる。


 灯りの少ない部屋で、ちゃたろ〜は小さく呟く。


「……揺れてもいい。折れなければ、進める」


 声は誰にも届かない。

 だが、盾の位置だけが、ほんの少しだけ変わった。


 揺れる心と、揺れぬ盾。


 その両方を抱えて、次の手順が始まる。

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