第83話|ちゃたろ〜会議
――地獄門の記憶と、朝の光。
ケルベロス戦。
あの、地獄門での死闘から、幾日かが過ぎた。
迷宮都市の外れにある、小さな仮宿。
木の匂いと湿った石の匂いが混ざる、古い建物だ。
そこに身を寄せて療養するのは、ちゃたろ〜、ララ、オリーブ、ルンナの四人。
表向きは全員無事。
――だが実際は、ちゃたろ〜を除いた三人の心身に、まだ色濃い疲労と苛立ちと、静かな痛みが残っていた。
朝起きると、胸の奥に“音”が残っている。
耳の奥に咆哮が残っている。
喉の奥に硫黄が残っている。
深く刻まれた敗北の傷。
それでも不思議と、朝になると皆が同じ食堂に顔を出していた。
いや、正確に言えば――「呼び出されて」いた。
細い廊下を歩き、木造の扉を開ける。
食堂に入ると、すでにテーブルの上には人数分の水と、素朴なパンの切れ端が静かに並んでいた。
部屋の空気はどこか張っていて、普段の騒がしさが嘘みたいだ。
水がある。
パンがある。
たったそれだけで、ここが“戦場ではない”と分かる。
だが、戦場でない場所ほど、戦場の記憶はよく戻る。
最初に現れたのはララだった。
髪をかき上げ、いつもより控えめな欠伸を必死に押し殺しながら、椅子に体を預ける。
「朝から……なんか、珍しくない?」
声は軽くしようとして軽くならない。
笑いも、いつもの角度に戻らない。
続いてオリーブとルンナが静かに席についた。
オリーブは眼鏡を直す回数が多い。直しても、焦点が合うまで時間がかかる。
ルンナは座ると同時に背筋が伸び、手が無意識に剣の位置を探す。
まだ“戻れていない”身体の動き。
そして――なぜか、隅の席に“例のおっさん”がいる。
湯気の立つ茶をすすり、ノートを開いて耳を澄ませていた。
誰も突っ込まない。
本人も妙に大人しい。
そこにいるだけで、空気が「記録」に寄る。
記録に寄る空気は、言葉を慎重にする。
テーブルの上には四人分の水と、香ばしく焼かれたパンの欠片。
質素だ。けれど、温もりのある朝食だ。
その向かい。
ちゃたろ〜は珍しく、ぴんと背筋を伸ばして座っていた。
明け方からひとりで準備していたのだろう。
テーブルを整え、三人が現れるのを静かに待っていた。
待つ、というより。
――“始める順番”を作っていた。
全員が席についた、その瞬間。
ちゃたろ〜は低く、静かな声で言い放った。
「ちゃたろ〜会議だ」
「……ちゃたろ〜会議!?」
突拍子もない宣言に、オリーブとララが同時に顔を上げた。
ルンナは眉ひとつ動かさない。
だが、空気が一段締まったのは分かる。
「……名前のセンスはともかく、議題は?」
ルンナが淡々と口を開く。
淡々としているのは、感情を切っているからじゃない。
感情を出すと、手順が崩れるからだ。
ちゃたろ〜は目線を全員に巡らせ、いつになく厳しい口調で告げる。
「ケルベロス戦の反省と、今後の対応策」
その言葉で、三人の背筋が自然と伸びた。
伸びるのは前向きだからじゃない。
“責任の形”が来たからだ。
「昨日の敗因を、冷静に整理する」
「はーい……」
ララが小さく手を挙げた。
目が泳いでいる。
泳ぐ目は、まだあの炎の壁を見ている。
「まず、あたしの炎魔法が、全然通らなかった。火が効かない相手に火の魔法で突っ込むとか、超ダサかった……。ホント……」
言い切ったあとに、喉が鳴る。
喉が鳴るのは悔しいからだ。
悔しさは、次に同じことを繰り返さないための燃料でもある。
「火は……火に強い」
ルンナがぽつりと呟いた。
当たり前のことを言う。
当たり前を言うことで、余計な言い訳を切る。
「えーい、分かってるよ! そこをどうにかするのが火力職の――」
「……意地、だろ?」
ちゃたろ〜が淡く補足した。
責めない。だが、外さない。
痛いところだけを、短く刺す。
ララはしばし沈黙し、苦笑いした。
「……あ、うん、そう。そうなんだけど、パイセンが言うとズルいっていうか……悔しい……」
悔しい、と言えた時点で、ララは少しだけ戻っている。
恐怖だけの人間は、悔しがれない。
オリーブが静かに記録ノートを開いた。
ページを繰る音が小さい。
その小ささが、今の彼女の集中の形だ。
「わたし、魔法障壁は張れたけど……混乱が来たとき、何も指示ができなかった。バリアもヒールもやったのに……分析も、できなかった……」
声がかすかに震える。
眼鏡が曇る。
曇りは涙じゃない。
息が乱れて、体温が上がって、レンズが追いつかないだけだ。
ルンナが簡潔に指摘する。
「全体の連携が崩れた。咆哮が来た瞬間、全員が止まった」
静かな言葉。
だが、この一文で全員の体が硬くなる。
止まった瞬間を、皆が思い出したからだ。
オリーブが小さく首を垂れる。
「……わたしのせいで」
「違う」
ちゃたろ〜は即座に否定した。
声音に責める気配も、苛立ちもない。
“責任の押し付け”を切る、手順の声。
「敵が強すぎた。それだけの話。誰かの責任じゃない」
淡々とした断言。
三人の肩が、少しだけ緩む。
緩むのは救われたからじゃない。
“次に進める形”が置かれたからだ。
ちゃたろ〜は水を一口飲んだ。
喉が鳴る。
その音だけで、場が現実に戻る。
「……俺は、もう一度行く」
「えっ?」
「ソロで、ケルベロスに挑む」
三人の視線が一斉にちゃたろ〜へ集まる。
集まる視線は、驚きと恐怖と怒りの混合だ。
怒りは止めたいからだ。止めたいのは失いたくないからだ。
「まっ――また無茶言い出した!」
「根拠はある」
「それ、本当に根拠なの!? 無茶の間違いじゃなくて!?」
ララが前のめりになる。
声が大きい。
大きいのは、怖いからだ。
ちゃたろ〜は揺れない。
揺れると、これが“勢い”になる。
勢いで行く戦いは、戻れない。
「火耐性の魔核がある。俺ひとりなら、ブレスは耐えられる」
「……ま、まあ、確かに昨日のブレス、パイセンだけは平気そうだった……」
「《エイシェントグレイス》は単体支援。俺のためだけに使えば、効果は最大になる」
「でもっ、でもでも、物理攻撃もヤバかったよ!? 斬っても潰されるレベルだったのに……!」
「それも含めて、“盾”として受けきれるかを試す」
静かな、けれど一切揺らぎのない宣言だった。
ちゃたろ〜の瞳には、ただ一点の意志が宿っている。
「……俺が示す。ソロで立ち向かえる可能性を。そして、“あのブレス”が脅威ではないことを、証明する」
「……マジで、パイセン。命懸けすぎ……」
「お前たちが傷つかないためだ。誰かが先に踏み込まなきゃ、証明はできない」
その言葉で、ララの喉が詰まった。
言葉が出ない。
出ないのは反論がないからじゃない。
反論が、全部“優しさ”にぶつかって折れるからだ。
沈黙。
パンが冷えていく。
水が温くなる。
その変化が、時間の現実を示す。
そして、静かに手が挙がった。
「……わたし、観察します」
オリーブだった。
意外そうな表情で、ちゃたろ〜が視線を向ける。
「ちゃたろ〜さんがどう動くのか、見ておきたい。支援もしません、口も出しません。ただ、記録だけ。わたし……それなら、できると思うから」
彼女の声はまだ震える。
でも、逃げる震えではない。
“役割を持つ震え”だ。
ちゃたろ〜はしばらく彼女を見て、やがて静かに頷いた。
「好きにしろ。ただし、動くな。口も出すな」
「はいっ」
素直な返事。
返事の速さが、覚悟の形になる。
そのやり取りを見ていたララとルンナが、ほとんど同時に肩をすくめた。
「……二人とも、本当に……ぶっ壊れてる……」
「違う。たぶん、違う世界の住人なんだよ」
ルンナがぽつりと返した。
皮肉じゃない。
本当にそう見えている声だ。
ちゃたろ〜は笑わない。
笑うと軽くなる。
軽くなると、ここで決めた手順が薄くなる。
「――決めるぞ」
ちゃたろ〜が言う。
「俺が前に出る。オリーブは観測のみ。ララとルンナは出ない。ここまでは確定」
言葉で形を作る。
形を作るのは、縛るためじゃない。
崩れないためだ。
テーブルの上のパンが、ゆっくりと冷えていく。
冷えるパンは現実だ。
現実は、怖さを少しだけ薄くする。
窓辺を太陽が照らし出す。
光が床に線を引く。
線は、ここから先の距離を測る。
四人はそれぞれの思いを胸に、立ち上がった。
ちゃたろ〜とオリーブは無言のまま歩き出す。
地下へ――地獄の門へ。
オリーブはノートを胸に抱え、
ちゃたろ〜は、ただ前を見据えている。
ララは戸口で立ち止まり、声にならない息を吐いた。
そして、小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「……負けっぱなしじゃ、終われない」
その言葉は届かない。
だが、胸の中で手順になる。
夜が明ける。
新たな一歩が、また始まろうとしていた。




