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第81話|地獄門の内側で

 ――炎の壁の前で、全員が立ち尽くしていた。


 焦げつく岩盤が、足裏から熱を押し上げてくる。

 立っているだけで、体内の水分が順番に持っていかれる感覚がある。

 喉が乾くのに、息を吸うたび肺が焼ける。

 焼けるのに、空気は重い。


 視界を揺らす陽炎の向こうで、三つ首の巨獣〈ケルベロス〉が、ゆらりと鎖を鳴らした。


 赤黒い瞳が、じっとこちらを射抜いている。


 ――見ている。


 ただ前を見ているんじゃない。

 こちらの“順番”を見ている。


 誰が先に崩れるか。

 誰が先に遅れるか。

 誰が先に怖がるか。


 そこを、正確に嗅いでいる。


 ララの顔は蒼白だった。

 それでも唇を強く噛みしめ、震える手を無理やり掲げる。


「……っ、分かってる。火は効かない。でも……!」


 焦りは、分かっていても消えない。

 ケルベロスを前にした瞬間、何かを撃たなければ心が折れる。

 そういう場面だった。


 絞り出すように放たれた火球は、やはり黒い体毛へ呑み込まれた。


 弾かれるのではない。

 消されるのでもない。


 喰われる。


 赤黒い毛並みが一瞬だけ明るく脈打ち、巨獣の周囲の熱がさらに濃くなった。


「――っ!」


 ララの目が見開かれた、その瞬間。


 ケルベロスの一首が大きく咆哮した。


 爆音。

 衝撃。

 空気そのものが壁になって胸を殴りつけてくる。


 鼓膜が裂けそうな痛みが、頭蓋へ針みたいに突き刺さった。

 視界が揺れ、胃が裏返る。

 内臓が順番に剥がれていくような感覚。


「きゃあああっ!!」


 ララの身体が宙を舞い、岩盤へ叩きつけられる。

 骨が鳴る。息が抜ける。

 転がった先で、彼女は咳き込みながら必死に起き上がろうとする。


「ララさんっ!」


 オリーブが駆け寄ろうとした刹那、もう一つの首がぬるりと伸びた。


 重いはずの巨体が、音を殺して動く。

 音がない動きは、判断を遅らせる。

 遅れは、この場所では“裂け目”になる。


「《マジックシールド》っ!」


 青白い障壁が咄嗟に展開され、オリーブの身体を覆う。

 だが障壁ごと衝撃を受け、彼女も地面へ弾き飛ばされた。


「っ、うぅ……!」


 耳鳴りが止まらない。

 視界がぐらつく。

 それでも彼女は地面を掻くようにして眼鏡を探し、立ち上がろうとする。


 その前へ、ルンナが立った。


「……止める」


 血に濡れた剣を構え、全身の傷を顧みず、ケルベロスの眼前に立つ。


 その背が大きく見えた。

 頼もしいからじゃない。

 そこに、退路が全部乗っているからだ。


 ちゃたろ〜は迷わず前に出る。


 最優先は、ララとオリーブの回収。

 その次に、ルンナの位置を崩さないこと。


 盾は壁じゃない。

 壁にした瞬間、味方の逃げ道が死ぬ。

 だから盾は、“動ける形”を残すために置く。


「《プロテクトウォール》!」


 金色の障壁が展開され、ルンナと倒れた二人を覆う。

 覆うのは守るためだけじゃない。

 “次の一歩”のために、時間を買うためだ。


 だが、巨獣は止まらない。


 三つの首が揃って仰ぎ、空間そのものを震わせた。


「ガアアアアアアアアアア!!!」


 爆音が大地を叩き、心を削る。

 頭蓋が割れそうになる。

 内臓が震え、膝が折れそうになる。


 恐怖。

 幻惑。

 混乱。


 種類の違う削りが、一度に襲ってくる。


(……重なってる。順番じゃない。“同時”だ)


 同時は、手順を殺す。

 手順が死ねば、全員が散る。


 ちゃたろ〜は即座に詠唱を投げた。


「《セイクリッドキュア》!!」


 白い光が炸裂し、波紋のように全員を包み込む。


 耳の奥に貼りついた不快が、一度だけ剥がれる。

 視界の滲みが戻り、心臓の跳ね方が整う。


 戻る。


 回復じゃない。

 立てる状態へ戻す。


「……頭が、はっきりした……」

「うぅ……なんか、楽になった……」


 ララもオリーブも膝をつきながら立ち上がり、再び前を見据える。

 前を見ること自体が、ここでは戦闘だった。


 だが、ルンナがそこで膝をつく。


 剣を杖みたいにして身体を支え、荒い呼吸を吐く。

 肩が上下し、指がわずかに震える。


 恐怖じゃない。

 消耗だ。

 削られた結果の、正直な反応だ。


「ルンナ――」


 ちゃたろ〜は間を置かず、次の詠唱へ繋ぐ。


 状態が戻っても、体力が戻らなければ立てない。


「《ヒールウインド》!」


 淡い緑光の風が吹き抜け、全員を包み込む。

 裂けた傷が塞がり、筋肉の攣りが緩み、呼吸の引っかかりが少し取れる。


 派手ではない。

 だが、派手じゃない回復が次の一歩を成立させる。


 ルンナが短く息を吸って言った。


「……助かる」


 短い言葉。

 だがそこには、飾りのない信頼が沈んでいた。


 信頼は言葉にしすぎると弱点になる。

 だから短く、だから強い。


 それでも、ケルベロスは止まらない。


 三つの首がうねり、地面が赤熱する。

 亀裂が光を孕み、熱が“予告”として先に届く。


 ちゃたろ〜は即座に判断する。


 ここで必要なのは、攻撃の種類を増やすことじゃない。

 派手に打ち返すことでもない。

 必要なのは、崩れない順番だ。


「ララ、次のブレス来る。下がれ」

「えっ……!」


《エイシェントグレイス》


 淡い光がララを包む。


 次の瞬間、煉獄のブレスが吐き出された。

 炎が津波のように押し寄せる。

 熱が視界を白くする。

 肺が焼ける。皮膚が焼ける。


 だが、削られ方が“死”へ届く手前で止まる。


「っ……熱い……でも、大丈夫っ!」


 ララは歯を食いしばって耐え抜いた。

 防護がなければ、一瞬で消えていた。


 消えていたら、言葉も、順番も、戻れない。


 ちゃたろ〜はルンナへ視線を刺す。


「水属性――お前自身にだけ。剣に乗せられるか」

「……できる。剣に」


 青白い光がルンナの剣に灯る。

 彼は踏み込み、渾身の斬撃を叩き込んだ。


 刃がケルベロスの肩を裂く。


 ――裂いた、はずだった。


 だが黒いオーラが傷口を覆う。

 血が流れない。

 肉が開いた感触だけを残して、巨体はびくともしない。


 通っているのに、結果がない。


 次の瞬間、別の首が身を捻り、ルンナの肩を深く抉った。


「ぐっ……!」


 赤い線が走り、痛みが遅れて噴き上がる。


 ララの別属性の魔法も、今度は届ききらない。

 熱気と圧に押し負け、狙いがぶれる。


「嘘でしょ……! 化け物すぎる……!」


 ララの声が震える。

 絶望が背へ重くのしかかる。

 重くなった背は、足を遅らせる。


 遅れは死――より先に、崩れだ。


 ちゃたろ〜はそこで結論を出した。


(……今は勝てない。続ければ全滅する)


 勝てない戦闘を続けるのは勇気じゃない。

 手順の放棄だ。

 放棄した手順は、取り戻せない。


「――引くぞ!」


「でも――!」


 ララが言いかける。

 だが、ちゃたろ〜の声が鋼みたいに落ちた。


「全員、生き残る」


 静かな断言。

 命令ではない。

 この場で成立させるべき、唯一の形だった。


 誰も、何も言い返せなかった。

 言い返す余裕があるなら、逃げる足へ回すべきだからだ。


 オリーブは震える手で、割れた眼鏡を拾い上げる。

 ひびの入ったレンズ越しに、ケルベロスの毛が赤黒く揺れるのを見た。


「わ、わたし……あの毛の輝き……たぶん、反射……吸収……」

「オリーブ、今は無理するな」


 短い言葉。

 慰めじゃない。

 “今は戻る手順を優先する”という指示だった。


 オリーブは唇を噛んで頷く。


「……ごめんなさい」

「謝るな。退路を確保する」


 謝罪は形になる。

 形になった罪悪感は、次に足を止める。

 ここで必要なのは、足を止めない形だ。


「《プロテクトウォール》!」


 ちゃたろ〜が再び障壁を展開する。

 金色の壁が炎を遮り、その隙に全員が退却へ動き出した。


 ルンナは前を切る。

 勝つためじゃない。

 追撃を成立させないために。


 ちゃたろ〜は後ろを守る。

 受けるためじゃない。

 戻りの線を折らせないために。


 ララは走る。

 走りながら息を殺す。

 声を出せば、喉が焼ける。

 喉が焼ければ、次の詠唱が死ぬ。


 オリーブは眼鏡を押さえ、転ばないように足元を数える。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 ――手順。


 今必要なのは、迷わない数だった。


 ケルベロスの三首はなおも咆哮を上げ、煉獄の火を吐き続ける。

 灼熱、血、硫黄、恐怖。


 全てを背に受けながら、四人は必死に出口を目指した。


 やっと扉の外へ飛び出した時、全員の身体から一気に力が抜け落ちた。


 膝をつき、荒い息を吐く。

 息を吐くたび、肺の奥に焼けた感覚が戻ってくる。

 戻ってきた痛みは、生きている証拠だった。


「……全員、生きてるな」


 ちゃたろ〜の問いに、


「……うん……」

「生きてる……」

「……なんとか」


 それぞれがかすかに応えた。


 言葉は少ない。

 少ないままでいい。

 ここで多く語ると、気持ちが形になって崩れる。


     ◇


 その夜。

 拠点の仮眠所。


 皆は泥のように眠り込んでいた。

 だが、ちゃたろ〜だけは瞳を閉じなかった。


 胸元の器――魔核が、かすかに震えていた。

 赤い火の粒みたいに、脈動するように揺らめいている。


(……揺れてる。まさか……)


 ちゃたろ〜は誰にも見せず、そっと掌で覆い、蓋を閉じる。


 今ここで頼れば、次に頼る癖ができる。

 癖は手順になる。

 手順になった依存は、いつか折れる。


(矜持に、敬意を。だが――必ず、もう一度挑む)


 支援者として。

 盾として。

 今度こそ仲間を守り抜くために。


 灯りの少ない部屋で、ちゃたろ〜は小さく呟いた。


「……届かなくていい。やることは変わらない」


 声は誰にも届かない。

 だが、盾の位置だけが、少しだけ変わった。


 地獄門は、待っている。


 次は――門の前じゃない。

 手順の根元で、折る。

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