第80話|地獄門をくぐる者たち
翌朝。
一晩かけて瘴気を抜き、焼けた喉を休め、装備を整え直した四人は、もう一度あの扉の前に立っていた。
昨日は越えなかった。
越えれば、戻れなくなると分かっていたからだ。
だから今日、越える。
手順を整えた上で、なお危険だと承知して。
地下十九階の奥に聳える巨大な石扉は、ただの扉ではなかった。
圧倒的な重量感。
その表面に刻まれた古代文字は、赤黒く脈動しながら、周囲の空気そのものをわずかに震わせている。
近づくだけで、皮膚の薄い場所から何かが滲み込んでくるような嫌な感覚があった。
「……古代結界文字……?」
オリーブが震える声を漏らした。
指先で文様をなぞりかけて、すぐに手を引く。
「魔族のものじゃない……これは、もっと深い……悪魔の系統……」
その先の言葉を、彼女は自分で飲み込んだ。
恐怖が喉を塞ぎ、息さえ細くなる。眼鏡の奥の瞳が揺れ、額には大粒の汗が浮かぶ。
ちゃたろ〜は答えない。
ただ一歩前へ出て、扉へ掌を当てた。
ざらり、とした抵抗感。
ただ冷たいだけではない。何百年も閉ざされてきたもの特有の、押し返してくる重みがある。
「……ッ」
静かに、しかし確実に力を込める。
押すたびに扉は低く呻き、長く閉ざされていた重さを掌と腕へ伝えてきた。
ぎ、ぎぎぎ……と石が軋む。
それは耳で聞く音というより、腕の骨から胸の奥へ響いてくる音だった。
やがて、迷宮全体を震わせるような低音が鳴る。
――ごごごぉぉん。
亀裂のように開いた隙間から吹き出してきたのは、瘴気とは質の違う熱気だった。
鉄の錆。
硫黄の焦げ臭さ。
そして、遠くに乾ききらない血の匂い。
全員が思わず半歩だけ後ずさる。
ララは両腕で自分の身体を抱きしめ、冗談ひとつ言えないまま口を噤んだ。
ルンナは剣の柄をさらに強く握りしめる。
オリーブは唇を噛み、揺れる視線を必死に前へ戻し続けていた。
これが、“地獄門”と呼ばれる所以だった。
◇
扉の奥に広がっていたのは、ドーム状の巨大空間だった。
岩盤は焦げつき、地面は赤黒く裂け、その割れ目から灼熱の蒸気が断続的に吹き上がっている。
空気そのものが歪んで見える。
吸い込むたび、肺の内側が焼けるように痛い。
そして――中央に、鎖の擦れる音だけが先にあった。
じゃらり。
重く、鈍い音。
次に、吐息。
ひとつ。
またひとつ。
さらに、もうひとつ。
三つの熱い呼気が、暗がりの中でずれて重なる。
やがて、瞳が開いた。
一つ。
二つ。
三つ。
濁った炎みたいな光が闇の中に並び、それが一斉にこちらを向いた瞬間、誰もが理解した。
そこにいたのは、三つの首を持つ巨獣――ケルベロスだった。
煤けた漆黒の体毛。
喉の奥から漏れる呼気は火薬のような硫黄臭を伴い、体を縛るはずの重い鎖は、すでに赤熱して今にも千切れそうに軋んでいる。
ララは声を失った。
唇だけがわななく。
「……なに、あれ……」
ルンナは低く一言だけ落とす。
「……ケルベロス」
オリーブは一歩前へ出かけて、すぐ止まった。
冷たい汗が背筋を伝う。
「待って……おかしい。あれ……普通じゃない……」
眼鏡が鼻先まで滑り落ちる。
震える手で縁を掴むが、指先にうまく力が入らない。
◇
その瞬間――空間が割れた。
咆哮。
三首同時の咆哮が轟き、空気の壁そのものが身体を打ち砕く。
床が裂け、岩が砕け、鼓膜が千切れそうな痛みが頭蓋へ突き刺さった。
「ひッ……!」
オリーブが膝をつき、眼鏡が床に転がった。
両耳を押さえても意味はない。
声そのものが、魂を揺さぶってくる。
「音障壁……張らなきゃ……でも……っ!」
詠唱を始めようとしたが、言葉が喉で絡まり、魔力の流れが乱れて術が崩れる。
「無理……こんなの、耐えられない……」
ララも顔を歪めていた。
普段の軽口は影を潜め、詠唱の構えを取りながらも膝が笑って震えている。
ちゃたろ〜は前へ出て、ララを庇う位置へ入った。
「下がれ、ララ」
「う、うん!」
必死に一歩引くララ。
その隙に、ちゃたろ〜はルンナへ短く告げる。
「鎧に水属性を付与しろ」
「……ああ」
ルンナは即座に魔力を込めた。
剣に青い光が宿り、鎧の表面に薄い水の膜が張りつく。
全員が息を詰める。
ケルベロスの三首が、一斉に大きく口を開いた。
地面の亀裂から赤熱した魔力が吹き上がり、空間そのものが灼けて揺らぐ。
「――来るぞ!」
ちゃたろ〜の声と同時に、煉獄の火炎が吐き出された。
三条の、赤黒いブレス。
別々の角度から交差し、ドーム全体を覆い尽くす。
岩盤は瞬時に熔け、空気は爆発音を伴って燃え上がった。
《プロテクトウォール》
ちゃたろ〜の張った光壁が前衛を覆う。
だが、炎はあまりに重い。
ただ熱いのではない。叩き潰すような質量を持って、壁そのものを押し込んでくる。
「ッ……くそ……重い!」
熱がじりじりと皮膚を焦がす。
水付与を施したルンナの鎧さえ、赤く染まりながらきしみ始めた。
そのとき、オリーブが叫ぶ。
「わ、わたしが……! バリア、張ります……っ!」
震える声で、それでも詠唱を通す。
《マジックバリア》
青い光が全員を包み、二重の障壁となって重なる。
炎はなおも激しい。だが、確かに熱量が一段落ちた。
「これで……少しは……!」
「助かる……!」
ララが短く叫ぶ。
ちゃたろ〜も一瞬だけ振り返る。
「維持できるか」
「少し、なら……がんばります……!」
オリーブの声は掠れていたが、その目はもう震えていなかった。
◇
炎の壁を抜けるには、誰かが道を作らなければならない。
ちゃたろ〜は前を見たまま言う。
「俺が道を作る。通すぞ」
その声は低い。
だが、揺らがない。
ルンナが頷く。
ララは唇を噛みながら杖を握り直した。
「燃やしてやるっ!――《ファイアボルト!》!」
ララの火炎の矢が、一直線にケルベロスの黒毛を貫く――はずだった。
だが、焔は逆流した。
「えっ――!?」
ケルベロスの体毛が炎を呑み込み、逆に赤黒い火花となって弾き返す。
熱波が襲いかかり、ララは腕で顔を庇った。
「うそ、火まで餌!?」
「火属性は通らない! むしろ相手の熱が増す!」
オリーブが叫ぶ。
その分析に、ララが即座に噛みつく。
「じゃあ変える! 変えればいいんでしょ!」
だが、その間にも別の首が炎を吐き返す。
「まだ……だ!」
ちゃたろ〜がメイスを掲げた。
《エイシェントグレイス》
淡い光がララを包み、返ってきた熱の衝撃を減殺する。
ルンナは水の鎧で耐え、オリーブはちゃたろ〜の影へ半歩潜る。
戦場は、灼熱と轟音と咆哮の坩堝になっていた。
汗は蒸気となって消え、呼吸のたびに喉が焼ける。
全員が限界の手前まで押し込まれ、それでも立ち続けている。
――これが、“地獄門”。
瘴気を越え、咆哮に耐え、煉獄の火を抜けた者だけが、その奥へ進むことを許される。
迷宮がそう定めた、最初の選別。
ちゃたろ〜は盾を少し下げ、炎の流れを見た。
どこに穴ができる。
どこなら一歩入れる。
どこで止めれば、後ろが通る。
それを測る。
ケルベロスの三つの瞳が、冷たい炎を宿してこちらを見下ろしていた。
命を試す者だけが持つ目だ。
そして四人もまた、その門の前で、もう逃げるだけの位置にはいなかった。




