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第79話|地下19階の血路

 ――瘴気は、ただそこにあるだけで敵だった。

 目に見えないのに、触れられる。

 喉の奥に砂を置き、舌の裏を苦くし、肺の奥へ冷たい膜を張る。

 吸えば吸うほど、息が“自分のもの”じゃなくなる。

 吐けば吐くほど、身体の外へ熱が抜けていく。


 歩く。


 歩く、という動作ひとつが削られる。

 膝が上がらない。足裏が遅れる。指先が冷える。

 歩幅が乱れれば、乱れた者から落ちる。


 だから、最初に決める。


 この階は、気合いより先に――順番が命になる。


「……前、切る」


 低い声。


 ルンナの剣が青白い光を帯びた瞬間、空間の揺れがわずかに止まる。

 瘴気の中で、彼の呼吸だけが“速くならない”。


 速くならない、というより。


 速くならせない――自分の身体を、そういう形に固定している。


「お前は、後ろを守れ」

「……ああ」


 ちゃたろ〜の返事も短い。

 短いが、そこで役割が固定される。


 ――前に出る者。背を守る者。


 言葉が少ないほど、手順が増える。

 手順が増えるほど、事故が減る。


 オリーブが眼鏡を押さえた。

 指先が震えて、フレームが僅かに鳴る。

 ララが杖を握り直した。握り直す音さえ、瘴気に吸われて小さい。


 二人とも、まだ震えている。

 だが、震えても“位置”を崩さない。


(崩した瞬間に、瘴気は勝つ)


 ちゃたろ〜は盾の角度を、ほんの数度だけ変えた。


 受けるためじゃない。

 “逃げ道を作らない”角度。

 後衛の足が滑ったとき、倒れ込む先を塞がない角度。

 押し返すとき、味方の肩がぶつからない角度。


 ――崩れた瞬間に、戻せる角度。


 闇の底から、アンデッドが蠢き出す。

 干からびた骨が擦れる音。

 腐肉が、石の上に粘る音。

 鎧の隙間を抜けてくる冷気。


 そして、眼がないのに――こちらを見ている気配。


 群れは、無秩序じゃない。

 距離がある。間合いがある。

 前を囮にして、横から“仕事”をする並び。


 瘴気の濃度が、彼らの足元だけ少し深い。

 同じ階の空気なのに、そこだけ“沈んでいる”。


「……っ、これ、やば」


 ララの声は軽くしようとして、軽くならない。

 軽くならない声が出た時点で、この階の温度が分かる。


 オリーブは膝をつきかけた。

 眼鏡が頬までずり落ちる。

 視界が歪む。判断が遅れる。


 遅れた判断は、次の刃になる。


 この階は、遅れを“傷”で返してこない。

 遅れを“帰り道”で返してくる。


 ちゃたろ〜は迷わず片手を掲げた。


《セイクリッドキュア》


 眩い光が、波紋になって広がる。

 瘴気の膜が、いちどだけ剥がれる。

 肺の奥へ冷たい空気が入る。

 呼吸が“戻る”。


 戻るだけ。回復ではない。

 だが、戻るだけで人は立てる。


 ララが目を見開いた。

 オリーブの瞳に焦点が戻る。

 呼吸が整う音が、二つ並んで、やっと「四人」になる。


「今の……ちゃたろ〜さんの……」

「状態異常解除。範囲だ」


 短い説明。

 でも、それで十分。


 “今ここで何が成立したか”が分かる。


 ルンナが一歩踏み込んだ。

 刃が骨を断つ。

 骨は折れるのに、倒れない。


 倒れない個体ほど、後ろを狙う。

 倒れないまま、距離だけ詰めてくる。


 


 アンデッドが四方から迫る。

 前へ来る。

 横へ回る。

 後ろへ伸びる。


 同時に、空気が一段重くなる。

 瘴気の沈みが、さらに深くなる。


 ララが震える手で杖を構え、声を張った。


「《ファイアボルト》《ファイアボルト》《ファイアボルト》……連弾!」


 赤い矢が連続して走り、左側の群れを焼く。

 黒焦げの臭気が瘴気と混ざり、さらに重くのしかかる。


 焼けるのに、止まらない。


 ルンナが前へ。

 剣が走る。


 だが、その足がわずかにふらついた。


 ――瘴気の消耗。毒の残滓。


 身体が重い。腕が遅い。

 遅い刃は、刺される。


 槍が、脇腹を狙って迫る。

 狙いは深くない。

 深く刺さないほうが“長く削れる”。


 この階は、殺しより先に――削りを選ぶ。


「っ……」


 ちゃたろ〜の詠唱が重なる。

 声は大きくしない。

 大きくすれば、支援が「見える」。


《エイシェントグレイス》


 緑の光がルンナを包む。

 槍の軌道が、ほんの指一本分だけ逸れる。

 浅い傷で済む。

 ルンナの足が戻る。


 戻った足で、彼は逆に踏み込み、槍の持ち手を断つ。

 持ち手が落ちる音は、瘴気に吸われて小さい。


 だが、“手順が崩れた”感触は大きい。

 命令の列が、一瞬だけ乱れる。


「今の……助かった」

「……そっちは任せた」


 言葉は少ない。

 けれど互いに、次の一手が見えている。


 この階で、見えていること自体が強さだ。


 右後方。死角から一体。

 歩く音がない。

 骨が擦れる音もない。


 だからこそ、危ない。


 オリーブが息を呑む。

 ララの詠唱が半拍遅れる。


 半拍で、人は死ぬ。

 半拍で、帰還の形が崩れる。


 ――だが、ちゃたろ〜はもう捉えていた。


 振り返らない。

 振り返れば前の圧が抜ける。

 抜ければ、ルンナが一歩遅れる。

 一歩遅れれば、刃が通る。


 だから、背中のまま殺す。


 背中のまま《ホーリーボール》


 小さく収束された聖なる光弾が空を裂き、アンデッドの頭蓋を一撃で撃ち抜く。

 敵は声もなく崩れ落ちた。


 崩れ落ちる音と一緒に、瘴気がひとつ散る。


 「……一撃?」  

 「なにそれズルい!」  

 「聖属性特攻……ですね」


 ララとオリーブが思わず同時に呟く。

 ちゃたろ〜は返さず、メイスを下ろして進行方向を見据える。


「……進むぞ」


 進む。

 止まると、この階は“勝った顔”をする。

 勝った顔をした階は、次にもっと奪いに来る。


 やがて、瘴気がわずかに薄れた。


 薄れたから安心ではない。

 薄れるのは、たいてい“入口”ではなく“扉”の前だ。

 逃げ道を見せて、人を寄せる。

 寄せたところで、閉じる。


 高い天井。

 重厚な石扉。

 彫刻の溝に、乾いた黒い粉が詰まっている。


 粉は、瘴気の残骸じゃない。

 “人が死んで擦れた粉”だ。

 戻れなかった者の、最後の摩耗。


 ――未踏の門。


 その前に立った瞬間、全員が感じた。


 ルンナの足取りが遅れている。

 呼吸が荒い。肩が上下している。

 剣を握る指が、ほんのわずか震える。


 震えは恐怖じゃない。

 消耗だ。

 削られた結果の、正直な反応だ。


 ララが振り返りかける。


「ねえ、ルンナ……あんた、もしかして――」

「……進め」


 それだけ。

 それ以上を言わない。

 言えば“弱った”形になる。

 形になった弱さは、次に首輪に変わる。


 この階は、弱さを情報として回収する。


 ララは口を閉じた。

 オリーブも視線を落とした。

 ちゃたろ〜も前を向いた。


 ――仲間の矜持を守るために。

 守ることが、戦闘の一部だから。


 オリーブが震える手で眼鏡をかけ直し、扉に近づく。


「扉……開けますね」


 指先が石に触れた瞬間、オリーブは眉をひそめた。

 石が冷たい。

 冷たいのに、奥から“熱”が漏れている。


(向こうは……生きてる)


 熱は、敵の体温じゃない。

 “待っている”という現象の熱だ。

 扉の向こうが、この階と別の呼吸をしている。


 ちゃたろ〜が、そこで決める。


 決めるのは、勇気じゃない。

 手順だ。戻るための、最短の順番。


「今日は……引くぞ」


 低い声。

 命令じゃない。

 けれど、これが一番“正しい手順”だ。


 オリーブの肩が震え、そこに安堵が滲む。

 その安堵は、恥じゃない。

 生き残るための“正しい反応”だ。


「……ありがとう、ちゃたろ〜さん」


 短い言葉。

 でも、確かに届く。

 支援が見えなくても、支えられていると分かる瞬間がある。


 それが、絆の証――ではなく。


 この階で絆を言葉にした瞬間、絆が「弱点」として記録される。

 だから、短く。

 短いまま、胸に沈める。


 パーティは誰も多くを語らないまま、ゆっくりと扉を背にした。


 背にした瞬間。


 扉の向こうから――

 ほんの一度だけ、爪が石を撫でるような音がした。


 聞こえたのは、ちゃたろ〜だけだった。

 瘴気の中で、耳に残る音だけが異様に澄む。


(……待ってる)


 未踏は、待っている。

 だが、今日じゃない。


 ――その夜。

 野営地。

 寝息の合間に、時折咳払い。衣擦れ。

 瘴気は、身体に残る。傷より残る。心より先に残る。


 ちゃたろ〜は静かに起き上がった。

 薪の爆ぜる音に合わせて、呼吸を整える。

 誰の眠りも割らない速度で、手順だけを動かす。


 詠唱を紡ぐ。


《ヒール》――一度。

 間をおいて、二度目。

 さらに、三度目。


 回復は派手じゃない。

 ただ、呼吸の引っかかりが少し取れる。

 肩の上下が、少しだけ小さくなる。

 それだけ。

 それだけで、次の日の一歩が変わる。


 ルンナが、眠りの中で剣の柄を握り直した。

 ララが、夢の中で杖を抱えた。

 オリーブが、眼鏡を探すように指を動かした。


 誰も起きない。

 誰も知らない。

 それでいい。


 知られない支援が、一番強い。

 “俺がやった”が残らない支援が、次の戦闘を軽くする。

 軽くするのは気持ちじゃない。手順だ。


 ちゃたろ〜は腰の魔核に指を当てた。

 温い。

 昨日より温い。

 揺れは、まだ大きくない。

 答えも、まだ来ない。


(温存する。ここで頼らない)


 器が真価を発揮するのは、危機の中だ。

 危機が“成立”した瞬間だ。

 今は違う。

 今は、手順で勝つ。

 手順で戻る。

 手順で――首輪を切る。


 彼は盾を磨いた。

 メイスの握りを確かめた。


 ――次は。

 追いかけない。

 逃がさない。

 扉の前じゃなく、手順の根元で折る。


 灯りのない部屋で、ちゃたろ〜は小さく呟いた。


「……届かなくていい。やることは変わらない」


 声は誰にも届かない。

 だが、盾の位置だけが、少しだけ変わった。

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