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第77話 「地下17階攻略戦 ―音なき階層で」

 第九層、その入口にあたる十七階相当区画へ足を踏み入れた瞬間、世界から「音」がひとつ剥ぎ取られた。


 比喩ではない。


 靴底は石床を確かに踏んでいる。

 呼吸もしている。

 鎧も布も、ちゃんと身体に触れている。


 なのに、それらが生むはずの余韻だけが、耳へ届く前にどこかへ吸われていく。


 石壁に囲まれた通路。

 湿った空気が肌に貼りつく。

 吐いた息すら、喉の奥で重く沈んだまま広がらない。


 生者の存在を拒むような沈黙だった。


 沈黙が、ただ場にあるのではない。

 支配者として、最初からそこに立っている。


「……耳が、詰まるみたい」


 ララの声は、声の形のままでは届かなかった。

 けれど、“詰まる”という感覚だけは遅れて胸に刺さる。


「視界も悪いし……これ、本当に迷宮……?」


 オリーブが眼鏡を押し上げる。

 レンズが曇っていた。

 湿気のせいだけじゃない。

 息が焦ると、世界は簡単に曇る。


 ルンナは何も言わなかった。


 喋らない、というより、喋る必要のない目をしている。

 前方の闇。

 左右の壁。

 仲間の呼吸の乱れ。

 その全部を、言葉にする前に一度呑み込んでいた。


 ちゃたろ〜は声より先に、手を使った。


 壁へ掌を添える。

 石の冷たさ。

 指先へまとわりつく湿り。

 足裏へ返ってくる、ごく微かな震動。


 音がないぶん、この階層は手触りで語ってくる。


(……遮断が濃い)


 音だけじゃない。

 魔力の流れまで、どこか鈍い。


 スキルが使えないわけではない。

 だが、届き方が変わる。

 発動の“あと”に残る感覚が薄く、だからこそ手順が少し狂いやすい。


 その時だった。


 通路の先で、壁の影が膨れ上がる。


 ゴーレム、二体。


 漆黒の石を削り出した巨躯。

 拳は丸太みたいに太く、目孔の奥で揺れる赤い灯が、湿気の中でぼうっと滲んで見えた。


 そしてその背後。

 紫の魔法陣を浮かべた下級悪魔が三体。


 声はない。

 だが、耳鳴りみたいな圧だけがこちらへ流れ込んでくる。


 ララが息を呑み、それをそのまま叫びへ変えた。


「来るよ!」


 薄い。

 でも“来る”だけは薄くならない。


 ルンナが最前列へ出る。

 無言のまま剣を抜く。

 刃が湿った空気を切る気配だけが、唯一、耳の奥へ残った。


「後衛、下がって!」


 オリーブの声は震えていた。

 けれど、震えたまま成立していた。


 責任を背負った声は、震えても消えない。


 ちゃたろ〜は一歩前に出る。

 盾を掲げ、三人を背の後ろへ収めた。


 オリーブが資料板を握ったまま、早口で言う。


「ゴーレム、物理耐性高いです! 悪魔は……反射、あります!」

「属性は?」

「火は危険、たぶん反射寄り!」

「了解!」


 ララが勢いよく詠唱した。


「《フレイムバースト!》」


 火球が悪魔へ飛ぶ。

 だが瞬時に紫の障壁が立ち、炎は跳ね返された。


「うわっ、マジか!」


 熱が通路を赤く染める。

 反射した火は壁を舐め、遅れて熱だけがこちらへ来た。


 悪魔たちが、嘲笑みたいに低く唸る。


「火はだめ」

 ちゃたろ〜が即断した。

「水か雷に変えろ」

「了解、雷でいく!」


 同時に、ちゃたろ〜の盾から淡金の光が広がる。


《プロテクトウォール》


 見えない壁が、仲間の前に一線を引いた。


 沈黙の階層で、その壁だけが妙にはっきり輪郭を持つ。


 次の瞬間、ゴーレムの一体がルンナへ拳を振り下ろした。


 剣で受ける。

 金属音は潰れ、衝撃だけが残る。


 足元の石床がきしみ、ルンナの肩が沈んだ。


「ッ……!」


 迷う間はない。


《ヒール》


 緑光がルンナの腕を包む。

 裂けた皮膚が塞がる。


 だが、まだ足りない。

 傷は閉じても、姿勢が戻りきっていない。


《ヒールウインド》


 二度目の光で、沈みかけた肩の角度を戻す。


 オリーブがそこで、はっと息を吸った。

 “まだ立てる”と分かった時の呼吸だった。


 ララが杖を振り上げる。


「《ライトニング・フォース!》!」


 青白い稲妻が悪魔へ走る。

 紫の障壁が火花を散らしてひび割れ、そのまま一体へ直撃した。


 悪魔の口が開く。

 悲鳴そのものは聞こえない。

 だが、悲鳴の形だけが空中で歪む。


 その一方で、もう一体のゴーレムが距離を詰めてきた。


 拳がルンナの肩を掠め、血が飛ぶ。


「っ……まだ動ける」


 小さい声だった。

 それでも折れていない。


《ヒール》


 ちゃたろ〜は間を置かない。

 回復の間隔が空くほど、前衛の“立てる線”が細くなる。


「パイセン! 後ろ、もう一体来てる!」


 ララの声が刺さった。


 振り返るより早く、足裏の震動がそれを伝えている。

 第二のゴーレムが通路を塞ぐように後衛側へ寄ってきていた。


 オリーブの顔が青ざめる。


 ちゃたろ〜は背中の角度だけで二人を下がらせ、盾を引き寄せた。


「ララ、オリーブ、下がれ」


 ゴーレムの拳が振り下ろされる。

 盾へ直撃。


 骨ごと軋む衝撃が全身を貫いた。


「ぐっ……!」


 膝が沈む。

 だが倒れない。

 倒れれば、後ろの二人が潰れる。


「……すご……」


 ララの声が漏れる。


 驚きと安心が混ざった声だった。

 こういう声は危ない。

 一瞬、足を止めさせるからだ。


「見るな。動け」


 ちゃたろ〜は目線を切らずに言った。


 ララの体が反射で動く。

 オリーブもはっとして資料板をめくる。


「悪魔、雷が通ります! 火だけ反射寄り、たぶん確定!」

「“たぶん”で十分! 道がある!」


 ララがすぐ詠唱へ戻った。


「《ライトニング・フォース!》!」


 二発目の雷が障壁の裂け目へ入り込み、悪魔の一体を痙攣させて崩す。


 オリーブがそこへ重ねるように叫んだ。


「残り二体! 左が詠唱、右が防御薄い!」


 その声で、ララの狙いが迷わなくなる。

 さっきまで“なんとなく怖い”だった闇へ、ちゃんと順番が生まれた。


(いい)


 ちゃたろ〜はそう思った。

 怖がっていてもいい。

 だが、怖さを順番へ変えられるなら戦える。


 そのとき、残る悪魔が詠唱を終える。


 紫黒の魔法陣が膨らみ、闇の衝撃波が通路を塗り潰した。


「全員、防御!」


 オリーブの声と、ちゃたろ〜の詠唱がほぼ同時だった。


《プロテクトウォール》


 闇が覆い、見えない壁がきしむ。

 音はない。

 だが、重みだけが両腕を潰すみたいに返ってくる。


 膝が沈む。

 盾が重い。

 息が浅くなる。


「……まだ、いける」


 自分に言った言葉だった。

 だが、後ろの三人にも渡る。


 オリーブが震える手でポーション瓶を抜き、ララへ投げる。

 ララは取り損ねかけ、慌てて掴む。


 小さな失敗。

 こういう階層は、そういうものから殺しに来る。


 だが、落とさなかった。


「パイセン、今だ!」


 ララの声が刺さる。


 ちゃたろ〜は短く詠唱した。


《ホーリーボール》


 淡い光球が生まれ、一直線に悪魔の胸を貫く。


 爆ぜるのは音ではない。

 聖属性の圧が、存在の輪郭だけを剥がす。


 悪魔は塵へ還った。


「……っ、すご」


 ララの声が今度はちゃんと届く。

 驚きで、ルンナすら一瞬だけ動きを止めた。


「聖属性は悪魔へ通る」

 ちゃたろ〜は淡々と言った。

「反射があっても、相手は選ぶ」


 言い終わる前に、ララが理解した顔で頷く。


「了解! じゃあ私、障壁割る! パイセンは核抜きお願い!」

「任せる」


 短いやり取りだった。

 だが、さっきまでより噛み合っている。


 ララの雷が残る悪魔の障壁を砕く。

 オリーブが指差す。


「右! いま防御が薄い!」


 ホーリーボール。

 悪魔、消滅。


 残るはゴーレム二体。


 ここからはルンナの間合いだった。


 ルンナが深く踏み込み、剣を低く走らせる。

 膝裏。

 軸。

 巨体の支点だけを正確に断つ。


「右、揺れた!」

 オリーブが叫ぶ。


 ララの火球が、今度は悪魔ではなくゴーレムの関節部へ叩き込まれる。

 反射はない。

 石の割れる気配だけが返る。


 ちゃたろ〜は最後の重さを引き受ける。


《頭にどーん》


 盾の縁がゴーレムの頭部へ叩き込まれた。


 鈍い轟きは聞こえない。

 だが、瓦礫が崩れる“気配”が確かに伝わる。


 一体が沈む。

 もう一体も、ルンナの追撃で軸を崩し、最後にちゃたろ〜の一撃で倒れた。


 通路が、ようやく広くなる。


 沈黙。


 それまで戦闘を支配していた無音が、今は逆に現実を戻してくる。


 誰もすぐには喋らなかった。

 ただ、自分がまだ立っていることを、それぞれ別の場所で確かめていた。


 やがて、ちゃたろ〜が低く言う。


「……全員、生きてるな」


 その一言で、世界が一段だけ現実へ戻った。


 ララはそこでようやく大きく息を吐き、ぺたりと壁にもたれた。

 オリーブは曇った眼鏡を外して拭いながら、目尻を少し赤くしている。

 ルンナは剣を鞘へ納め、短く言った。


「……支援、ありがとう」


 ちゃたろ〜は返さず、小さく頷く。


 返事を増やすと、油断が増える。

 今はまだ、それでいい。


     ◇


 壁際で短い休憩を取る。


 ララが床へ座り込み、ちゃたろ〜を見上げた。


「パイセン……やっぱ強いわ」

「ねえ、本当にヴィリス師匠に会ったことあるの?」


 ちゃたろ〜は少しだけ視線を落とした。


「昔、一度だけ」


「やっぱ!」

 ララが胸を張る。

「わたし、あの人の弟子なんだ」


 誇らしげだった。

 でも、言い方に嫌味がない。

 事実として言っているだけで、それが逆に本物っぽい。


「え……“東の賢者”の……?」


 オリーブが驚きで眼鏡を落としかける。

 慌てて拾い、頬を赤くした。


「そんなすごい人の弟子が……なぜこんな任務に……」

「推薦されたから! 辺境伯とか師匠とか、偉い人が“行け”って」

「心臓に悪いです……」


 オリーブは苦笑した。

 でも、その目には少しだけ光が戻っている。


 情報がある。

 それだけで怖さは分解できる。


 ちゃたろ〜は静かに言った。


「知識は武器になる。無駄じゃない」


 オリーブは一瞬きょとんとして、それから強く頷いた。


 言葉が届く。

 それだけで、次の階層へ進む足は少し軽くなる。


     ◇


 短い休憩のあと、ララが自分の鞄を持ち上げて、すぐに顔をしかめた。


「……うわ。まだ重い」


 言いながら、彼女は一度だけちゃたろ〜を見る。

 前みたいに軽口を叩くより先に、“どうすればいいか”を考えている顔だった。


 ちゃたろ〜は無言で手を出した。

 ララも今度は素直に鞄を渡す。


 中身を開く。

 触媒、補助具、予備札、替えの小袋。

 戦闘後で配置が少し崩れていた。


 ちゃたろ〜は必要なものを取り出しやすい位置へ戻し、重心だけを整えて返す。


 ララが持ち直して、目を瞬く。


「……あ、さっきより全然いい」

「崩れてた」

「うん。戦ったあと、自分でも分かんなくなってた」

「次からは上に詰めるな。取り出す時に全部死ぬ」

「はい、先生」


 その返事に、オリーブが小さく笑った。

 ルンナは何も言わなかったが、ララの鞄の持ち方を一度だけ見て、それで十分だと判断したように視線を前へ戻した。 再編は短く済ませた。 


 ちゃたろ〜は三人を見て、心の中だけで思う。


(……悪くない)


 完璧じゃない。

 噛み合っているともまだ言い切れない。

 それでも、崩れない。


 崩れないなら、先へ行ける。


     ◇


 通路の奥。

 さらに深い沈黙へ続く階段が口を開けている。


 オリーブが資料板を抱え直す。

 ララが杖を回して握り直す。

 ルンナは鞘の位置を確かめる。

 ちゃたろ〜は盾を持ち上げた。


「ここからが本番だ」


 低い声。

 だが、はっきりしている。


「よーし、今度こそ華麗に行く!」

 ララが元気よく言う。

「……華麗かどうかは、あとで判断します」

 オリーブが真面目に返す。

「そこ、今つっこむとこ!?」

 ララが言い、ルンナがわずかに肩を揺らした。


 ほんの少しだけ、空気が軽くなる。


 ちゃたろ〜はそれを確認して、先頭へ出た。


 歩幅はまだ揃わない。

 呼吸も、役割の理解も、噛み合わせも、完全ではない。


 それでもいい。


 揃わないまま、揃える手順は始まっている。


 四人の足音は、相変わらずこの階層に吸われていった。

 だが、不揃いなその沈黙の中にも、もうさっきまでとは違う形が生まれ始めていた。

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