7章 第76話 「顔合わせと決意」
迷宮都市カンブレーグ、西ギルド支部の会議室は、午後の光が差し込んでいるわりに、妙に冷えていた。
寒いというほどではない。
けれど、息を吸うたびに肌の内側がきゅっと縮むような、落ち着かない冷たさがある。
紙の匂いがした。
鉄の匂いがした。
その奥に、ごく薄く、戻ってこなかったものの匂いが混じっている。
長机を挟んで、四つの椅子。
そのうち三つには、すでに人が座っていた。
最後の一つ――ちゃたろ〜は、そこに腰を下ろさず、壁際に立ったままだった。
座れば、形が成立する。
誰が責任を持つのか。
誰が誰の背中を見るのか。
そういうものが、椅子に座った瞬間に少しずつ決まっていく。
(最初の一歩は、だいたい椅子だ)
ちゃたろ〜はそんなことを思いながら、机の向こうを見た。
「――これより、地下第九層への派遣任務。正式通達とする」
読み上げる声は平坦だった。
セフ=ユステ。
白銀の仮面。
黒衣。
立ち姿に無駄がなく、呼吸の深ささえ測られているように見える女。
仮面の奥の視線が、一度だけちゃたろ〜を撫でた。
笑ってはいない。
だが、どこかで“始まり”を見届けている気配だけはあった。
(この人は、始まる瞬間が好きなんだろうな)
終わりよりも。
壊れる瞬間よりも、その少し手前の“まだ選べる”ところを見ている。
そんな目だった。
「リーダー。アナライザー職・オリーブ」
「サブリーダー。ルーンナイト・ルンナ」
「補助役。スペルマスター・ララ」
「……そして、メイス盾・ちゃたろ〜」
名前が並ぶ。
それだけのことなのに、部屋の空気は少し重くなった。
“並べられた”という事実が、もう形だからだ。
「えっ、わ、わたしが……リーダー?」
オリーブの声が裏返りかける。
眼鏡を持ち上げ、かけ直し、また指先で触る。
落ち着かない手つきだった。けれど、視線だけは資料から逃げていない。
逃げたくても逃げられない。
だから先に数字へ飛び込む。
そういうタイプなのだろうと、ちゃたろ〜は思った。
ルンナは何も言わなかった。
机上の資料へ目を落としたまま、ただ視線だけを速く動かしている。
読むというより、呑み込んでいた。
責任を先に飲み込み、そのあとで静かになる人間の目だった。
そこへ、空気を割る声が飛び込んだ。
「パイセーン! これって最強メンツ確定じゃん?」
ララだった。
椅子の後ろから身を乗り出し、遠慮なくちゃたろ〜の背中へ軽く体重を預けてくる。
軽い。
だが、雑ではない。
こういう場で空気が固まりすぎると危ないと、たぶん体で知っている人間の軽さだった。
「……パイセン?」
オリーブが困惑した顔でまばたきをする。
ルンナの視線だけが一瞬ララへ滑り、すぐ資料へ戻った。
観測して、切る。
そういう目だ。
「初対面! でもこういう“寡黙で強そうな人”って、絶対ひとりはいるでしょ!」
「……邪魔はするな」
ちゃたろ〜は短く言った。
怒ったわけではない。
線を引いただけだ。
ララは肩をすくめる。
「オッケー、了解。じゃあパイセンは“倒す人”じゃなくて、“倒れない空気を作る人”ってことで」
軽い口調だった。
だが、言い換えとしては妙に正確だった。
オリーブが息を吸い、細く吐いた。
その呼吸だけで、場が少し落ち着く。
ちゃたろ〜はそこで、ようやく空いている椅子へ腰を下ろした。
座る。
成立する。
成立させたくない場面もある。
けれど、成立させないままでは始まらない時もある。
「……邪魔はしない。支援に徹する。俺の役割はそれだけだ」
言葉を削った宣言だった。
飾らない。
大きくも言わない。
それでも、削ったぶんだけ机の上へ重く落ちた。
セフが、仮面の奥でほんの少しだけ目を細めた気配がした。
観測者の目が、針を一本刺したような感覚だった。
◇
控室へ移ると、紙の匂いが濃くなる。
机の上には地図。
踏破記録。
崩落ログ。
遭遇例。
それから、赤字の注意書きがひとつ。
《第九層(十七~二十階相当)/十九階以降、情報欠損》
オリーブが資料を揃え、説明を始めた。
さっきまで震えていた声が、紙に触れた瞬間だけ芯を持つ。
怖いからこそ、情報へ逃げ込める人間の声だった。
「第九層は十七階相当から始まります。十七は物理耐性寄りのゴーレム帯。十八は魔法耐性寄りの下級悪魔帯」
「十九からは……記録が途切れていて、推測しかありません」
早い。
だが、速さに無理がない。
怖さを言葉へ変換している。
ルンナが短く言った。
「十九からは、戻りの手順が崩れる」
説明ではない。
断言だった。
誰かが実際に崩れたのを見たことがある人間の声だ。
その一言だけで、控室の温度が少し下がった。
「うわ。嫌なやつ」
ララが言う。
いつもより半音だけ低い。
軽口に見えて、軽口じゃない。
空気を和らげるために喋る人間ほど、本当に嫌な時だけ声が沈む。
オリーブが、眼鏡の奥から恐る恐るちゃたろ〜を見た。
「ちゃたろ〜さんは……その、どういう支援が……?」
ちゃたろ〜は少しだけ考えた。
職の価値を語るつもりはない。
説明しすぎると、期待を作る。
期待は、崩れた時に首へ回る。
だから必要なことだけ置く。
「盾は“壁”じゃない」
「成立のための位置だ」
「防御補助、回復、状態異常解除。持久戦を成立させる」
それだけ言って黙る。
オリーブは小さく頷いた。
理解した、というより、“頼ることを覚える”ための頷きだった。
「要するにさ!」
ララが指を一本立てる。
「ピンチの時、いないと困る人! いると“何も起きなかったことにできる人”!」
その言い方は、少しだけ痛かった。
でも、間違ってはいない。
ちゃたろ〜は否定しなかった。
否定した瞬間に、それは“評価”になってしまうからだ。
オリーブが、そこで少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だが、その一瞬の笑みが、“この場はまだ崩れていない”という余白になった。
◇
出発前の準備に入ると、空気はまた張る。
オリーブはチェックリストを噛むように確認していた。
装備、魔導具、帰還札、応急処置具、地図、補助灯。
一項目ごとに確認して、確認したことを確認して、それでもまだ不安そうに指が動く。
ルンナは剣を研いでいた。
音がしない。
いや、正確には鳴っているはずなのに、鳴らさないようにしている。
こういう人は戦闘でもたぶん無駄に音を立てない。
ララは荷物が多かった。
魔法具、触媒、替えの布、記録札、よく分からない飾りのついた小袋。
「うわぁ重っ……パイセン、助けて~」
ちゃたろ〜は何も言わず、鞄を受け取った。
開ける。
中を見る。
重心を整える。
いらないものを外す。
いるものを取りやすい位置へ移す。
紐の長さを揃えて締め直す。
やっていることは地味だ。
だが、こういうところで“崩れない”を作るのが、彼の仕事だった。
ララが目を丸くする。
「えっ、なにこれ。急に私の荷物が“信頼できる荷物”になった」
「……変な言い方だな」
「でもほんと! さっきまで“私を裏切りそうな荷物”だったもん!」
「それはお前の詰め方が悪い」
「反論できない~」
オリーブが、そのやり取りを見てふっと息を漏らした。
笑ったのを隠しきれなかった感じだった。
ルンナだけが無言のまま、ほんの少しだけ口元を緩めている。
たぶん本人は緩めたつもりもないのだろう。
その小さな崩れ方を見て、ちゃたろ〜は少しだけ思った。
(悪くない)
まだ揃ってはいない。
でも、揃わないまま前へ出ることを覚えれば、たぶん戦える。
◇
扉の前に、セフが立っていた。
白銀の仮面。
黒衣。
送り出すには、あまりにも冷たい見た目なのに、その立ち方だけは妙に静かだった。
「では――“最初の三歩”を踏み出しなさい」
セフの声が落ちる。
重い扉が軋み、外の空気が流れ込んでくる。
武具の匂い。
汗の匂い。
石の冷え。
その全部の奥に、また“戻ってこなかったもの”の気配が混じっている。
オリーブが喉を鳴らす。
ララが一度だけ深呼吸する。
ルンナは無言のまま剣の位置を確かめた。
ちゃたろ〜は、先頭へ立つ。
前に出たいからじゃない。
崩れた時、最初に“成立”を作り直す役が必要だからだ。
「行くぞ」
低く、短い声。
それだけだった。
だが、その声は四人の胸へ同じ深さで沈んだ。
ここから始まる。
歩幅はまだ揃わない。
呼吸も、視線も、たぶん役割の理解も、まだ少しずつずれている。
それでもいい。
揃っていないまま、揃える手順は始められる。
西ギルド支部の廊下へ足音が重なる。
その音はまだ不揃いだったが、不揃いなまま前へ進んでいくには、十分な数だった。




