【外伝】 仮面と牛丼と、言わない約束
迷宮都市カンブレーグでは、噂はだいたい三つの場所から広がる。
迷宮の入口。
ギルドの掲示板前。
それから、屋台通りだ。
屋台通りの噂は軽い。
軽いが、意外と深く刺さる。
酒と飯と疲労の匂いが混ざった場所で交わされる言葉は、人の腹に近いぶん、妙に忘れられない。
その日も、ギルドの昼下がりはそんな軽い空気に満ちていた。
◇
昼下がりのギルドは、少しだけ眠い。
朝の募集がひと段落し、昼の報告もまだ本格的には始まっていない。掲示板の前の人だかりは薄くなり、受付嬢たちも束の間だけ紙を揃える手を緩めている。
誰かが椅子を引く音。
誰かが机に突っ伏す音。
遠くで帳簿をめくる乾いた音。
忙しいわけじゃない。
暇と言い切るほどでもない。
そういう、中途半端な時間だ。
ちゃたろ〜は壁際の長椅子に腰を下ろし、ぼんやりと広間を眺めていた。
視界の端に、白いものが入る。
セフ=ユステ。
仮面の鑑定官。
変なクイズを出してくる女。
怖いのか、優しいのか、試しているのか、ただ眺めているだけなのか、最後までよく分からない人。
今日も、ただそこにいた。
背筋を伸ばし、無駄のない姿勢で座り、何をしているでもなく、ただ静かに広間を見ている。
それだけなのに、周囲の空気が少しだけ“整って”しまうのが、この女の変なところだった。
ちゃたろ〜はしばらく眺めてから、なんとなく口を開いた。
「なあ、牛丼って知ってる?」
自分で言ってから、何を聞いてるんだ俺は、と思う。
セフも一瞬だけ黙った。
「……ふうん」
それだけだった。
知っているのか、知らないのか。
興味があるのか、ないのか。
さっぱり分からない。
だが、その絶妙に情報量のない返事へ割って入るように、別の声が飛び込んできた。
「牛丼か! いい趣味してんな!」
例のおっさんだった。
情報屋。
しゃべり担当。
軽そうに見えて、妙にいろんなものを見ている男。
おっさんは勝手に椅子を引いて座ると、指を一本立てた。
「いいか坊主。屋台通りの“牛丼屋イチヤマ”は神だ」
「また始まったな」
「始まるとも。牛丼ってのはな、単なる安飯じゃねぇ。帰ってきた奴にだけ許される確認作業みてぇなもんだ」
そこからのおっさんは、ひたすら熱かった。
肉の煮込み方。
玉ねぎの柔らかさ。
汁の甘さと濃さの兼ね合い。
米の粒立ち。
卵の温度。
紅生姜を入れるタイミング。
「並盛、卵付きが鉄板だ」
「卵は最初から全部混ぜるな。途中だ」
「米が立ってる店は信用できる」
「汁は多すぎても少なすぎてもだめだ」
長い。
とにかく長い。
ちゃたろ〜は途中から半分聞き流していたが、横のセフは微動だにしなかった。
聞いているのか、聞いていないのか、やっぱり分からない。
だが、おっさんの熱弁がひと段落しかけたころ。
「……牛丼」
小さな声が落ちた。
セフだった。
おっさんとちゃたろ〜は同時にそちらを見る。
セフは相変わらず正面を向いたまま、何でもない顔で続けた。
「情報としては、理解した」
おっさんの口元が、にやりと持ち上がる。
「ほう?」
「何」
「いやぁ、別に?」
ちゃたろ〜はその時、なんとなく思った。
あ、これたぶん、行くな。
◇
ギルドの片隅で茶を啜りながら、おっさんもまた同じことを思っていた。
セフ=ユステ。
おっさんが半ば本気で『悪魔の生まれ変わり』と呼んでいる女。
地下深層帰りの噂を背負い、今では仮面の鑑定官として平然とギルドに座っている、訳の分からない存在。
あの女が、牛丼という単語へわずかでも反応した。
それだけで、十分おもしろい。
(行くかもしれんな)
そう思いながら茶をすすった。
別に尾けるつもりはない。
情報屋は好奇心で動くが、同時に“踏み越えちゃいけない線”も知っている。
……たぶん。
◇
夕方、屋台通り。
人の匂いと、飯の匂いと、疲労の匂いでできた通りだ。
焼き串の煙、煮込みの湯気、酒の匂い、笑い声。
迷宮帰りの連中が、ようやく“生きてる側”へ戻ってくる場所でもある。
ちゃたろ〜は、たまたまそこを歩いていた。
主目的は通り抜けだ。
半分くらいは飯を考えていたかもしれないが、それはそれとして。
その時、見覚えのある後ろ姿が視界を横切った。
白い仮面。
黒い衣。
背筋の伸びた歩き方。
セフだった。
彼女は迷いなく、屋台通りの一角にある牛丼屋イチヤマへ入っていった。
ちゃたろ〜はその場で止まった。
いや、止まるだろ。
昼間に牛丼の話をしていた仮面の鑑定官が、数時間後に牛丼屋へ消えていくんだぞ。
止まる。
そして、たぶん見てしまう。
一方その頃。
通りの反対側を歩いていたおっさんもまた、同じものを見ていた。
(おいおいおいおい)
だが声には出さない。
情報屋は、ここで騒いだら負けだ。
二人は別々の位置から、ほぼ同時に気配を殺した。
片や樽の陰。
片や屋台の暖簾の端。
誰に教わったわけでもないのに、こういう時だけは息が合う。
◇
店の中で、セフはカウンターの端へ静かに腰を下ろした。
丸椅子に座っているだけなのに、妙に様になっている。
この女、雑多な店でも空気を一段整えてしまうのかと、店主が一瞬だけ固まった。
「……並盛。卵も」
小さな声だった。
だが、その一言はやけに綺麗に響いた。
店主は二秒ほど停止したあと、はっとしたように牛丼を作り始めた。
やがて、湯気の立つ丼と卵の小鉢が出てくる。
セフはそこで、ほんの少しだけ仮面をずらした。
外すのではない。
必要なぶんだけ、静かにずらす。
その所作が妙に丁寧で、妙に色っぽい。
ちゃたろ〜は思った。
(なんで牛丼でそんな空気になるんだ)
おっさんは思った。
(おいおい、本当に来やがった)
セフは何も思っていない顔で、卵を割る。
黄身を落とす。
醤油をほんの少しだけ垂らす。
箸を取る。
いちいち綺麗だ。
牛丼屋でやる動きじゃない。
もっと雑でいいはずなのに、この人がやると全部儀式みたいになる。
そして、一口目。
セフは小さく息を吐き、牛丼を口へ運んだ。
……うまそうに、食った。
仮面の下だから全部は見えない。
だが、それでも分かった。
口元のわずかな緩み。
肩の力の抜け方。
次の一口へ行くまでの一瞬の静けさ。
ああ、この人、好きなんだな。
そう思わせるには十分だった。
ちゃたろ〜は、ちょっと感動していた。
セフにもこんな顔があるんだな、と。
おっさんは、かなり感動していた。
悪魔の生まれ変わりが牛丼で頬を緩めているという事実に。
そして、その感動が口へ出た。
「お、おい……セフ……?」
やってしまったのは、おっさんの方だった。
セフの箸がぴたりと止まる。
仮面が、すっとそちらを向いた。
その視線だけで、おっさんの背筋が冷えた。
「言ったら……鑑定、しない」
低い声。
だが最後だけ、妙に柔らかい。
怖い。
なのに少しだけ生々しい。
それが余計に怖い。
おっさんは、その瞬間に理解した。
これは見なかったことにするやつだ、と。
ちゃたろ〜も同じことを思っていた。
ただし、彼は樽の陰で固まったまま何も言わなかった。
牛丼は最後まで静かに食べられた。
仮面の下の小さな満足だけを残して。
◇
翌日。
ギルドの一角。
喧噪から少し外れた通路で、ちゃたろ〜はセフとすれ違った。
セフは通り過ぎかけて、ほんの少しだけ歩幅を緩める。
仮面越しに、じっと見られた。
昨日のことは、たぶん向こうも気づいている。
ちゃたろ〜は考えるより先に口を開いていた。
「言わない」
それだけだった。
セフが止まる。
仮面の奥で、目が細くなったのが分かった。
呆れたのか、測っているのか、少しだけ安心したのかは分からない。
「……何を」
低い声。
だが、いつもより少しだけ柔らかい。
ちゃたろ〜は肩をすくめた。
「牛丼」
「並盛」
「卵も」
数秒の沈黙。
それからセフは、小さく息を吐いた。
「そう」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
彼女はそのまま歩き出す。
ちゃたろ〜もそれ以上は何も言わない。
別に口止めされたわけじゃない。
約束したわけでもない。
けれど、たぶんあれで足りた。
黙ってる、って約束。
少し歩いたところで、セフが足を止めずにぽつりと言った。
「……あそこの牛丼は、悪くなかった」
ちゃたろ〜は少しだけ口元を緩めた。
「そうかよ」
「ええ」
「また行くのか」
「必要があれば」
「牛丼に必要ってあるのか」
「あるんじゃない?」
そこで会話は終わった。
終わったのに、なぜか少しだけ空気が軽くなっていた。
◇
その少し後、おっさんが二人を見つけた時には、もう何もかも終わったあとの空気だった。
「……お前ら、なんかあった?」
と聞きたくなったが、聞かなかった。
情報商人ってのは、喋るだけが能じゃない。
語らない価値ってやつもある。
おっさんは胸の内でだけ呟く。
(誰だって、知られたくない顔の一つや二つある)
仮面の鑑定官なら、なおさらだ。
結局、その日のうちに牛丼の件は誰にも広まらなかった。
おっさんも黙った。
ちゃたろ〜も黙った。
セフは最初から何も言っていない。
けれど、あの三人のあいだにだけ、小さな了解が一つ残った。
仮面の下で牛丼を食う顔は、たぶん誰にも見せなくていい。
見たとしても、言わなくていい。
それでいいのだと、妙に納得できてしまった。
その日からしばらく、ちゃたろ〜は牛丼屋の前を通るたび、ほんの少しだけ店の中を確認する癖がついた。
おっさんはおっさんで、屋台通りに行くときだけ少しだけ身なりを整えるようになった。
セフがまた来るかどうかは分からない。
でも、もし次にあの白い仮面が牛丼屋の暖簾をくぐったとしても、たぶん二人とも騒がない。
ただ、少しだけ背筋を伸ばして、
それから心の中でこう思うだけだ。
――ああ、やっぱり似合うな。
仮面の下の、牛丼と笑みが。




