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第69話「風が名前を運ぶ」

 迷宮都市の朝は早い。


 夜明けとともに石畳の通りへ人影が差しはじめ、冒険者たちの足音や武具のきしみが、まだ冷たい空気を押しのけるように街の奥へ流れていく。

 店の戸が開く音。樽を転がす音。水を撒く音。

 そうした生活の音に混じって、革鎧の擦れる音や金属の鳴りが一定のリズムを刻み、街そのものが目を覚ましていくようだった。


 吐く息は白い。

 朝の冷えは肌へ薄く張りつく。

 それでも、その冷えの下にはもう人の熱がある。


 この街はいつもそうだ。

 夜が終わるより先に、欲と焦りが目を覚ます。


 ギルド掲示板の前に立つちゃたろ〜の姿は、そのざわめきの中でも不思議と静かだった。


 大きな盾とメイスを背負い、目だけで依頼の紙を追っている。

 視線は紙面を滑るのではなく、隙間を縫うように動いていた。依頼の内容だけを読んでいるのではない。書き方の癖、筆圧、張り替えの跡――そういう“誰が出したか”の匂いを拾おうとしている。


 紙の壁の前へ立つ者は多い。

 だが、紙から何かを“読み取る”者は少ない。

 ほとんどは、報酬と階層と日付だけを拾い、その残りを運へ投げている。


 運へ投げた分だけ、死は近づく。


「なあ、昨日の四層で戦ってたよな? あの支援……すげえな。見てたんだよ、遠目でさ」


 声は軽かった。

 だが、その軽さの奥には測る目がある。


 振り向いた先にいたのは、剣士風の中堅冒険者だった。

 年季の入った革鎧を着こなし、余計な装飾はない。瞳には経験を積んだ者だけが持つ冷静さが宿っていた。鎧は整いすぎておらず、ところどころに直した跡がある。

 手入れの痕は、だいたい仲間を失った回数と比例する。


 彼は、仲間を率いる者の匂いを持っていた。

 命令ではなく、相談の形で声をかける。そのやり方が、場を生かす人間のものだった。


「ちょうど一人抜けちまってな。俺たち、中堅の四人パーティー。前衛と魔術士と補助、それに弓。あと一人、ヒーラー系がほしい」


 言い方が正確だった。

 不足を“穴”としてではなく、“役割”として提示する。

 穴と言われた側は埋められるだけになるが、役割と言われた側には、まだ選ぶ余地が残る。


 ちゃたろ〜は掲示板から目を外さずに答えた。


「いい。今日だけなら」


 短い。

 条件を増やさない。


 条件を増やせば、そこから交渉が始まる。

 交渉が始まれば、責任の押し付け合いになる。

 責任の押し付け合いは、迷宮では致命傷だった。


 その背後から、わざと軽い調子の声がかぶさる。


「おっ、組むのかい? そいつ、麻痺毒でも動けたって噂だぜ?」


 例のおっさんだった。


 誰か別の冒険者へ語りかける体裁で、しかし確実に聞こえる声量を選んで通り過ぎていく。

 通り過ぎるのに、声だけは残す。

 残した声は、周囲の耳に引っかかり、勝手に尾ひれを増やして広がっていく。


 噂は便利だ。

 便利だからこそ、危険でもある。


 さらに、その影を追うように、仮面の女がすっと足を止めた。


「魔核、揺れたままだったりする? まあ、気にしないで。占いだから」


 仮面の下から響く声は、曖昧なようでいて鋭い。

 冗談の形をしているのに、芯だけは刺してくる。


 セフ=ユステは意味深な笑みだけを残し、ちゃたろ〜へ小さく手を振って消えた。

 姿が消えるのが妙に早い。人混みへ溶けるというより、最初からそこにいなかったみたいに、気配そのものが薄くなる。


 残るのは、わずかな違和感と、心へ刺さった棘のような言葉だけだった。


 揺れたまま。


 ――まだ終わっていない、と言われた気がした。


     ◇


 地下第五層。


 空気は肌へまとわりつくような湿り気を帯び、石床を踏むたびに靴底が粘つく音を立てる。水が溜まっているわけではない。湿気が、床そのものを濡らしていた。

 壁の苔は暗い光を吸い、時折、冷気と腐臭を吐き出す。


 腐臭は生き物の匂いではない。

 長く閉じられた場所そのものが吐く、古い息だった。


「ここ、昨日より魔物の反応が濃いな……」


 スペルマスターの男の呟きは、ひどく小さく、すぐ湿気へ飲まれた。

 小さい声は、この階層では正しい。大きな声は、敵へ位置を渡す。


(当然だ。階層が違う。ここからは“迷い”が濃くなる)


 ちゃたろ〜はメイスを逆手に構え、盾の重みを腕へ馴染ませた。

 重みを嫌がらない。

 重みは、支えの約束だ。


 軽い盾は振り回せる。

 だが、軽い分だけ守れない。


 その視線の先で、闇の影がうごめいた。

 動きは速い。だが、獣の速さではない。“躊躇のない速さ”だった。


 次の瞬間、獣型と人型が混じり合ったような異形が三体、闇から飛び出してくる。

 骨の線は歪み、四肢の比率は狂い、そのうち一体は赤黒い瘴気をまとっていた。

 その存在だけで吐き気を誘う。


 瘴気は、目で見るものではなかった。

 喉の奥に触れるのだ。


(まずい。毒か)


 ちゃたろ〜は即座に《プロテクトウォール》を展開した。

 盾の前へ広がった光壁が仲間を押し返すように包み、その直後に飛び込んできた異形の爪を受け止める。


「後退。防御を優先して整列」


 命令は簡潔だった。

 理由は言わない。

 理由を言う時間があるなら、壁をもう一枚張るべきだからだ。


 剣士が反射的に前へ出ようとする。

 前へ出るのは前衛の本能だ。


 だが、ちゃたろ〜が首を横に振ると、彼は歯を噛んで下がった。


 引くのは怖い。

 引くのは弱さにも見える。

 それでも引けるのが、中堅の強さだ。


 一人が判断し、他が従う。

 それは支配ではない。

 “迷いを外へ捨てる”ための形だった。


 敵が突進する。

 ちゃたろ〜は盾をわずかに傾け、踏み込みの間合いを測る。


 傾ける角度は小さい。

 小さい角度ほど衝撃を流せる。

 衝撃を受け止めすぎれば腕が死ぬ。腕が死ねば支援が遅れる。支援が遅れれば、誰かが倒れる。


《頭にどーん》


 盾の一撃が異形の側頭部を打ち、鈍い音ではなく低い“圧”だけが走った。

 スタンが入り、一体が膝をつく。


 その動きは訓練の綺麗さではない。

 生き延びてきた者の身体へ刻まれた、生存の手順だった。


 守りの中で殴る。

 殴りの中で守る。

 どちらかへ偏った瞬間に崩れることを、ちゃたろ〜はもう知っている。


「削れ!」


 スペルマスターの詠唱が炸裂し、火球が闇を焼いた。

 炎が湿気を裂き、ほんの一瞬だけ視界が明るくなる。


 だが、もう一体が大きく口を開き、瘴気混じりの毒を吐き出した。

 吐くというより、撒く。

 床を這い、空気へ溶け、肺を狙う毒だ。


「うっ……!」


 ルーンナイトが咳き込み、膝を折った。

 膝を折るのは体力が切れたからではない。喉が焼けるように痛むと、呼吸そのものが先に折れるのだ。


 迷う暇はない。


《キュア》


 ちゃたろ〜の詠唱が終わると同時に、毒の痕は消えた。

 消えるのは症状だけだ。だが、恐怖は残る。

 残った恐怖に“次の行動”を渡さなければ、パーティはそのまま止まる。


「助かった……!」


 安堵の声。

 安堵はすぐ消える。消える前に、次へ繋がなければ意味がない。


 その背後で、弓手が転倒した。


 転倒はただのミスではない。

 背中を見せることだ。


 ちゃたろ〜は即座に《ヒールウインド》を展開し、仲間たちを光で包む。

 回復は、ただ戻すだけじゃない。

 “まだ動ける”を保証することでもある。


 さらに、迫る牙を遮るように《エイシェントグレイス》を発動。

 淡い光の盾が彼自身を守る。


 優しく見える光だった。

 だが、その目的は冷たい。


 自分が倒れれば、支援は止まる。

 止まれば、全員が倒れる。


(この一撃、来る)


 巨腕が振り下ろされる。


 轟音とともに衝撃が全身を叩いた。

 盾の縁が鳴り、骨が震え、内臓まで揺さぶられる。肺から空気が押し出されそうになりながらも、ちゃたろ〜は耐えた。


 膝は揺れる。

 だが、倒れはしない。


 倒れないために、重心を前へ置く。

 退けば押し切られる。押し切られれば、壁が崩れる。


「まだ耐えられる」


 低く呟き、メイスを握り直した。

 気合いではない。

 “次の手順を確定する”ための動作だった。


 その背中へ、仲間たちの視線が集まる。


 信頼は言葉で作られない。

 こういう瞬間の背中だけが、信頼の形になる。


 やがて、三体目の魔物――明らかに強化された個体が前へ出た。

 瘴気の密度が違う。

 視界が暗くなるのではない。色そのものが鈍る。


 魔法は弾かれ、物理も通らない。

 刃は滑り、衝撃は吸われる。

 まるで岩を殴っているようだった。


 絶望が広がりかけた、その瞬間。


「これ、やばいぞ!」


 誰かの悲鳴を遮るように、ちゃたろ〜が一歩踏み込む。


 一歩は短い。

 だが、短い一歩ほど覚悟は重い。


《エンドオブフェイス》


 迷宮の闇を断ち割るような赤い閃光が走り、異形の核を粉砕した。


 赤い鎖は音を立てない。

 音がないのが、逆に怖い。

 怖いほど、確実に“終わらせる”。


 断末魔すら許されず、魔物は崩れ落ちた。

 崩れ落ちる音だけが、遅れてやって来る。


 訪れた静寂は、仲間たちの鼓動さえ聞こえそうなほど濃かった。


     ◇


 帰還後、ギルドの一角。


 石壁の陰。往来の端。

 目立たない場所ほど、人はやっと呼吸を戻せる。


 剣士が深く息を吐き、汗を拭いながら言った。


「……本当に助かった。また組みたい、マジで」


 真っ直ぐな言葉だった。

 真っ直ぐな言葉は、社交辞令では出てこない。

 そして真っ直ぐな言葉ほど、言う側には勇気が要る。


 感謝を言うのは、借りを認めることだからだ。


 ちゃたろ〜は短く「そうか」と返すだけだった。

 目はもう掲示板へ戻り、視線は次へ向いている。


 未来へ向くのは余裕ではない。

 一つの戦闘で満足した瞬間、次の戦闘で死ぬ。

 満足は現場では毒だった。


 その背後で、おっさんが囁く。


「そろそろ、あのメイス盾……名前出回るぜ」


 まだ広くは知られていない。

 だが、その支援と一閃は確かに、人の記憶へ刻まれ始めていた。


 刻まれた記憶は、やがて噂になる。

 噂は味方にも敵にもなる。

 たいていは、敵になる方が早い。


 掲示板を見上げるちゃたろ〜の目当ては、麻痺耐性アクセサリーの情報だった。


 “耐性”という言葉は軽い。

 だが、現場では耐性は命の差になる。


 過去の戦闘で麻痺に倒れ、仲間を危険へ晒した記憶が、彼を動かしていた。

 自分が倒れるのはいい。

 だが、自分が倒れたせいで誰かが倒れるのは違う。


 その違いが、彼の中でいつも線を引く。


(器がなければ意味はないが、揺れたなら、いずれ応えるかも)


 脳裏へ、セフの声がふと浮かぶ。

 曖昧で、それでいて無視できない重みを持つ声だった。


 曖昧だから刺さる。

 断言なら反論できる。

 曖昧な言葉は、反論の先を奪う。


「おーい、今日も朝から真面目だな?」


 振り向くと、例のおっさんがにやにやと手を振っていた。

 手を振るだけで、人の輪が少し割れる。

 この街で情報屋は、好かれていなくても必要とされる。


「珍しく空いてるから、今日はおまけ付きで話してやるよ。……聞いたか? この都市じゃ“未踏層”の選定が始まってるらしいぜ。ギルドの上層がな」


「未踏層?」


 ちゃたろ〜の声は低いままだった。

 低い声は感情を見せない。

 感情を見せないのは、情報を値切られないためでもある。


「ああ、地下十層より下。地下二十階とかなんとか。もう何がいるか分かんねぇから、“層”の定義すら怪しいってな。……ま、普通の奴には関係ねぇ話だが」


 普通の奴。


 その言い方が、逆に“普通じゃない者”を選別する。


 ちゃたろ〜は黙って耳を傾けた。

 黙っているのは興味がないからではない。余計な反応は、余計な噂を呼ぶ。


「最近のギルド、階層ごとの難易度とか推薦レベルとか気にしてるだろ? でも実際はジョブや戦術で全然変わる。要するに、紙の上の“中堅”“上級”なんてのは、現場の汗を知らねぇ指標だってことよ」


「わかってる」


 即答だった。


 わかっているからこそ、腹が立つ。

 だが怒りは出さない。怒りを見せれば、おっさんはもっと面白がる。


「ほう、さすが。……じゃあもう一つ。あんたの魔核、ちょっとずつ揺れてるらしいじゃねぇか。占い師のあの子が言ってた」


「意味は?」


「さあな。でも“器”が必要なんだとよ。……俺が聞けたのはそこまでだ。セフさんが、それ以上は漏らしてくれなかった」


 ちゃたろ〜は短く頷き、そのまま掲示板を離れた。

 動きが早い。

 余計な言葉が増える前に切るためだ。


     ◇


 ギルドの裏手。


 光の届きにくい通路。

 表の喧噪が、壁一枚を挟んだだけで鈍る場所。


 セフ=ユステは静かに魔核を見つめていた。

 ちゃたろ〜へ託したそれは、彼の気配に反応するように、今も微かに震えている。


 震えは小さい。

 小さい震えほど、意志が濃い。


「揺れただけじゃ意味はない。……けれど、“器”を持たぬ者が、それでも進むなら――」


 彼女は目を閉じた。


 閉じた瞼の裏に、過去の例が浮かぶ。

 器のない者は、たいてい途中で壊れる。

 壊れるから、器が必要になる。

 必要なのに、器は簡単には与えられない。


 その矛盾を、彼女はよく知っている。


 その耳へ、冒険者たちのざわめきが届いた。


「また一人、六層で消えたらしい」

「最近……頻度が高すぎる」

「やっぱり闇パーティーか……?」

「でもギルドは何も言わねぇんだろ?」


 セフの瞳が細くなる。


 それは怒りの顔ではない。

 “数”を数える顔だった。


 数を数える者は、感情より先に計算する。


 視線の先には、黙々と装備を点検するちゃたろ〜の背中があった。


「――少し、早いかしらね」


 呟きは軽い。

 だが、軽いほど怖い。

 軽い言葉で人を動かせる者ほど、たいてい危険だ。


 カウンター席の奥で、おっさんが苦笑した。

 酒の匂いと木の匂いが混じるその場所だけは、表より少しだけ人間臭い。


「珍しいな、セフさんが迷うなんて」


「黙ってて。あなたが“悪魔の生まれ変わり”とか言いふらすからでしょう?」


「事実とは言ってねぇよ。噂ってのは風みたいなもんさ。都合のいいところにしか流れない」


「……ふふ。なら、もう少し都合よく吹いてもらおうかしら。その方が面白い」


 セフは歩き去る。

 歩幅は一定で、背筋も崩れない。


 崩れない背中ほど、たいてい何かを隠している。


 その背を見送りながら、おっさんはぽつりと呟いた。


「さて……そろそろ、あいつの名前が広まってもいい頃合いかね」


 ギルドの空気が、わずかにざわついた。


 嵐の前の気配――というより、すでに誰かが風を呼び込んだあとのざわめきに近いのかもしれない。


 風は見えない。

 だが、見えないものほど街を動かす。


 そしてその中心に、今日も静かな背中があった。


 盾を背負い、必要なことだけを積み重ねる背中。

 誰に見えなくても、崩れないために。

 崩れないことで、誰かを支えるために。

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