表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/118

第70話「未踏に揺れる影」

 迷宮都市の朝は、いつもと変わらぬざわめきから始まる。


 夜明けの光が石畳を薄く撫でるころには、通りの端に影が増え、その影の数だけ音も増えていく。大通りでは露店の呼び込みが声を張り上げ、訓練場では若い冒険者たちが木剣を打ち鳴らし、鍛冶場の鉄槌は一定のリズムで火花を散らしていた。


 水桶が転がる音。

 荷車の車輪が軋む音。

 薬草を煮る匂いが風に混じり、その上から油と煤と汗の匂いが街を塗りつぶしていく。


 この街は、眠りから起きるのではない。

 ただ、欲と恐怖が交代するだけだ。


 夜に強いのは酒と闇の取引。

 朝に強いのは生存と準備。

 どちらも同じ重さで人を動かしている。


 その朝の喧噪に混じって、耳へ残る言葉があった。

 何度も繰り返される噂ほど、音の中で尖ってくる。尖った噂は、露店の呼び声より先に胸に刺さる。


「おい、聞いたか。未踏エリアの選定が始まったらしい」

「十層より下……二十階とか、もう層の定義すら曖昧なんだとよ」

「誰がそんなとこに行くんだ? 冗談じゃねえ。帰ってこれるわけねえだろ」


 言葉の端が震えていた。

 震えは怖がっている証拠で、同時に“信じている”証拠でもある。


 噂は、信じた瞬間に現実になる。

 現実になった噂は、今度は人を選別し始める。


 広場に立つちゃたろ〜の耳にも、その噂は自然と届いていた。

 群衆のささやきは、恐怖と好奇心の間で揺れている。未知への渇望と、死への予感。その両方が混ざった空気は、ただ騒がしいだけではない。


 空気が薄くなるわけではない。

 むしろ重くなる。


 誰かの喉が乾き、誰かの手が無意識に武器の柄へ触れる。

 そういう“重さ”が、街の朝に確かに混じっていた。


 ちゃたろ〜は掲示板の前に立ち、仮募集の紙片へ目を走らせながら、その囁きを意識の隅で拾っていた。

 拾うのは興味からではない。

 拾わなければ、背後から刺されるからだ。


 噂は刃物と同じで、届く距離がある。


(未踏……。十層より下、二十階層……か)


 心の中でだけ反芻する。

 言葉へしてしまうと、形になる。形になれば、選択肢になる。選択肢になった瞬間、人は“選ばされる”。


 だから、ちゃたろ〜はまだ口にしない。


 自分の歩みが、いずれそこへ向かうだろうことは分かっていた。

 それは予感というより、経験に近い。今までずっとそうだったからだ。


 安全な場所に留まる者は、やがて安全を失う。

 安全を守るには、危険を知っていなければならない。

 盾である以上、その理屈から逃げられない。


 だが今、それを選ばねばならない理由がどこまであるのか。

 “いつか”と“今”の間には、命の重さがある。

 その重さを秤に乗せるのが、彼の仕事だった。


 そこへ、別の声が背後から飛び込んでくる。


 噂は一本の川ではない。

 いくつもの支流があり、ときに合流して濁る。

 濁った噂ほど、目を逸らしにくい。


「最近、“闇パーティー”が荒れてるらしいぞ」

「またアクセサリーの狩りか。麻痺耐性や毒耐性を独占してるって噂だ」

「ギルドが黙認してるのも気になるよな」


 その単語に、ちゃたろ〜の眉がわずかに動いた。

 怒りではない。

 記憶が反応しただけだった。


 麻痺耐性。

 毒。

 あの日、自分の脚を奪った感覚。


 尾が腰へ当たった瞬間の、あの“びりびり”とした奪われ方。

 足が“動かない”のではない。“動かす許可が消える”ような感覚だった。

 そして――魔核が揺れた、あの一瞬。


(……やはり、無関係じゃない)


 無関係でいてくれれば楽だ。

 だが、楽な方へ逃げるとあとで必ず代償を払う。

 この街は、代償の取り立てが早い。


 静かな気配が、すぐ傍へ立った。


 ざわめきの中でも、静かなものは目立つ。

 目立つ静けさは、刃とよく似ている。


「おはようございます」


 振り返らずとも分かる。

 仮面の鑑定士、セフ=ユステだった。


 彼女は群衆のざわめきから切り離されたみたいに、白衣の裾をすっと揺らして現れた。布は揺れるのに、足音が薄い。人の動きなのに、人の気配が少ない。

 それが彼女の怖さだった。


 気配は淡い。

 だが、その“意図”だけは異様に濃い。


「昨日のあなたを見て、思い出したの」


 唐突に落ちる声。

 仮面の奥から覗く視線は、無機質でありながら何かを測っている。


 測っているのは強さではない。

 壊れ方だ。

 どこで折れるのか。折れても進むのか。

 彼女はそういう尺度で人を見る。


「未踏エリアには……“面白いもの”がある」


 その一言に、ちゃたろ〜の視線が鋭く動いた。

 “面白い”という言い方が軽すぎる。

 軽すぎる言葉は、たいてい血を含んでいる。


「未踏なのに、なぜ面白いものがあると知ってる」


 声は低い。

 問いは短い。

 短い問いほど、逃げ道を減らす。


「ただの占いよ。ふふ……」


 仮面の下で口元が笑った気配がした。

 笑いは柔らかい。だが、柔らかいものほど硬いものを包み込める。


「当たるかどうかは、あなたが確かめればいい」


 ふざけているようでいて、どこか確信めいた響きがあった。

 確信があるのに断言しない。

 断言しないから、責任だけがこちらへ移ってくる。


 セフは、そこで声の温度をわずかに下げた。


「実績を積めば、選定の目にも映るかもしれない」


 “選定の目”。


 つまり、誰かが“未踏へ行く者”を選んでいるということだ。

 選ばれるのは光栄ではない。

 使われることに近い。


「……闇パーティーを潰すことが、“実績”ってわけか」


 ちゃたろ〜の言葉は、問いというより確かめだった。

 相手が何を望んでいるのか、その輪郭だけでも掴まなければならない。輪郭のない期待ほど、人を壊すからだ。


「そうとも言えるし、そうでないとも言える」


 セフは淡々と答えた。

 逃げているのに、逃げた気配を見せない。

 それが彼女の言葉だった。


「選ぶのは、あなた。私はただ、“境界者”がどう歩むのか見てみたいだけ」


 挑発ではない。

 ただの観察者の興味。


 それが逆に、逃げ場を塞いでくる。


 興味は倫理より軽い。

 軽いからこそ危険だ。

 興味で人を押す者は、その先で相手が壊れても止まらない。


 ちゃたろ〜は返さなかった。

 返せば言葉が増える。言葉が増えれば形ができる。形ができれば取引になる。

 取引になれば、彼女の思う壺だった。


 セフが去ったあとも、広間のざわめきは続く。

 だが、彼女の言葉だけは噂より重く残った。


「六層でまた死者が出たらしい」

「闇パーティーの縄張りだ」

「ギルドも手を出せないって話だぜ」


 噂は川の流れみたいに広がり、ちゃたろ〜の耳を洗っていく。

 洗っても落ちない。むしろ残る。

 残ったものが、次の判断を鈍らせる。


 ちゃたろ〜は深く息を吐いた。

 白い息が目の前でほどけていく。その消え方を見て、消える速さを測る。

 迷いも、同じように消えてくれればいい。

 だが迷いは、息よりずっと粘る。


(実績が必要、か……)


 未踏に向かう選定のため。

 闇パーティーの影を払うため。


 セフの言葉に従うわけではない。

 だが、放置できるほど甘い話でもなかった。


 放置すれば、街が勝手に歪む。

 歪んだ街は、必ず迷宮の入口まで歪ませる。

 入口が歪めば、そこで死ぬのは“普通の冒険者”だ。


 それを見過ごすのは、盾の仕事じゃない。


     ◇


 その夜、宿の一室。


 昼間の喧噪が嘘みたいに静かだった。

 壁の薄い宿だから、隣の寝息や、誰かの咳、誰かの寝言まで微かに聞こえてくる。

 そういう音が、都市の“生き残り”を支えているようにも思えた。


 ちゃたろ〜は盾を磨き、メイスを手に取り、腰の魔核を指先で確かめる。


 触れた温度は一定だった。

 温度が一定なものほど、反応は分かりにくい。

 分かりにくいものは信じにくい。


 だが、彼は信じるのではなく、確かめる。


 あの時、確かに揺れた。

 麻痺毒に侵された瞬間、何かが応えた。


 偶然か、必然かはまだ分からない。

 だが、器であるならば――器は、ただ持っているだけでは意味がない。

 器は、満たされて初めて器になる。


 満たすのは、血か。

 魔力か。

 意志か。


 そのどれでもあり得るから、逆に怖い。


「……仕方ないな」


 小さく呟く。

 声は誰にも届かない。


 仕方ない、という言葉は諦めではなかった。

 諦めは止まる。

 これは進むための整理だ。


 迷いを言葉で削り、手順に落とすための呟き。


 だが、実際には迷いはかなり削ぎ落とされていた。

 残っているのは、必要な順番だけだった。


 闇を砕く実績を積むために。

 未踏へ進む者として名を刻むために。


 名を刻むのは誇りのためじゃない。

 名が刻まれれば、選定の目が動く。

 目が動けば、こちらからも動かせる。

 動かせるなら、守れる範囲が広がる。


 盾を掲げ、彼はまた歩き出す。

 迷宮の奥、未踏の影の中へ。


 影はまだ遠い。

 だが、もう揺れている。


 揺れているなら、いつか形になる。

 形になる前に、こちらが先に“支え”を作らなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ