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第67話「支えるということ」

――昨夜。


 宿の隅は、ようやく人の気配が引き始めていた。

 客たちの笑い声も、階下で皿が触れ合う音も、もう遠い。廊下を歩く足音でさえ間が空き、建物全体が少しずつ夜の重さへ沈んでいく時間だった。


 灯りは蝋燭一本だけ。

 その小さな火が、生き物みたいにかすかに揺れ、橙色の光を壁へ投げかけている。揺れるたび、影は少し伸び、少し縮み、まるで部屋の中で息をしているようだった。


 その下で、ちゃたろ〜は黙々と石臼を回していた。


 肘を張らない。

 肩も上げない。

 一定の角度で、一定の力で、淡々と回す。


 動いているのは手だけに見える。だが実際には、背中から腰にかけての細かな筋肉まで、全部がこの作業へ参加していた。雑に力を入れれば粉が飛び、急げば葉が潰れすぎる。こういう地味な作業ほど、身体の使い方が露骨に出る。


 中に入っているのは、乾燥させた〈パラリス草〉だった。


 淡い灰緑色をした、どこにでも生えている安っぽい薬草。

 葉は細く、茎は脆い。乾燥しすぎると粉が舞い、その粉は喉へ張りついて、嫌な咳を誘う。

 だから、回す速度も乱してはいけなかった。


 ごり、ごり。


 石臼の低い音が、静かな夜の中へ鈍く響く。

 音は大きくない。けれど静けさの方が深いせいで、かえって遠くまで届いていきそうだった。


 理由は単純だった。


 昼間、仮面の鑑定士セフ=ユステから“麻痺耐性の魔核”を手渡されたからだ。


 「あなたには無駄かもしれないけど、ね」


 あの、嫌味とも助言ともつかない口ぶりが妙に引っかかっていた。

 笑っているのに距離を測ってくる声。押しつけではない。だが、こちらの癖や反応を最初から見抜いた上で言ってくる声。


(麻痺毒……最近の階層でちょくちょく出るしな)


 ちゃたろ〜は石臼を回しながら、半ば独り言みたいに考える。


 魔核の力を、最初から信じ切るつもりはない。

 信じ切った瞬間、失敗したときの落差が命取りになる。だが、手元でできる備えなら、やっておくに越したことはなかった。

 備えは派手でなくていい。効いたかどうかが曖昧でもいい。

 “やっておいた”という事実が、いざというときの判断を一歩だけ早くする。


 そういう、一歩のための作業だった。


 退屈しのぎと言ってしまえば、その通りでもある。

 退屈しのぎと呼べる程度に、心のどこかが落ち着いているとも言える。落ち着いていなければ、こういう地味な作業は続かない。


 粉になった草を、今度は小鍋へ移し、湯へ落とす。

 煮る。

 乾かす。

 瓶へ詰める。


 温度は目分量だった。

 沸騰させすぎれば香りが飛ぶ。弱すぎれば抽出が足りない。

 最適解など分からない。だが、“雑にしすぎない”ラインだけは守る。


 見た目は、ただの雑草くずだ。

 効く保証もない。

 売れば二束三文にもならないだろう。


 それでも、こういうものが時々、人を生かす。


 ちゃたろ〜は瓶の蓋を、きゅ、と短く音がするまで締めた。

 そのあと、もう一度だけ指先で締まり具合を確かめる。


(まぁ……暇つぶしにはなった)


 ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

 笑いではない。考えに区切りがついた時にだけ出る、微かな緩みだった。


 この時のちゃたろ〜は、まだ知らない。

 その気まぐれの延長みたいな準備が、翌日、確かに命の形を変えることを。


     ◇


 翌朝、ギルド前。


 陽はまだ斜めから差し込んでいて、石畳へ落ちた影が長い。

 空気そのものは冷たいままだったが、人の出入りだけはもう早く、朝の広場には急くような足音が絶えなかった。


 ちゃたろ〜は、新しい三人組に囲まれていた。


「昨日のパーティと違って、今日は俺たちと潜るってことでいいんだな?」


 大斧を肩へ担いだ若者が、念押しするように言った。

 背丈はある。筋肉もある。だが全体の雰囲気にはまだ粗さが残っていた。装備は新品に近く、刃の角も立ったままだ。“使っている”というより、“持っている”印象の方が強い。


 隣には、風魔法を得意げに語るローブ姿の青年がいた。

 言葉の端々には自信があった。だが、その自信の内側に焦りが混じっている。焦りが混じるのは、たぶん自分でもその自信が崩れる時を知っているからだ。


 その後ろでは、小柄な回復職の少女が、杖を両手で握りしめたまま小声で呪文を繰り返している。

 唇は震え、まるで試験直前の学生みたいだった。息は浅く、声もほとんど出ていないのに、指先だけがひどく冷えていそうだった。


 ちゃたろ〜は黙って頷いた。

 それで十分だった。

 約束は、もう成立している。


 昨日の寄せ集めとは違う。

 この三人は友人同士らしい。息が合っているとは言い難いが、それでも互いを知っている分、空気はまだ軽かった。


 軽い空気は危険でもある。

 油断を生みやすいからだ。

 だが、恐怖で固まるよりは、まだましだった。


「三層まで行けたら、ギルドでドヤれるぜ」

「なー、俺たちイケてるよな?」


 不安と勢いが混じった声が広場に響く。

 笑いはある。だが、笑い方が少しだけ早い。

 ちゃたろ〜は何も言わず歩き出し、その背中を三人が慌てて追いかけた。


 歩幅は揃っていない。

 呼吸のタイミングも揃っていない。

 それでも、“ついてくる”だけなら今は十分だった。


     ◇


 地下三層。


 湿り気を帯びた空気が、肌へまとわりつく。

 袖口が少し重い。

 壁一面に青白い苔が光を放ち、その淡い光の下で、足元のぬめりが不気味に鈍く光っている。


 滑りやすい床は、転倒を誘う。

 転倒は、隊列を一瞬で崩す。


 その時、這いずる音がした。


 のそのそと尾を振りながら現れたのは、〈スティング・リザード〉の群れだった。鱗が苔の光を拾い、青白く鈍く反射する。毒棘は小さい。小さいからこそ、刺さってから気づく。


「いっけぇぇぇええ!」


 斧男が叫びながら突撃する。

 勢いだけで一体を両断するが、その脇から別のリザードが飛び出した。

 勢いが強いぶん足元は甘く、斧の振りが大きいぶん隙も大きい。


「うおっ!?」


 風魔法の青年が狙われ、慌てて杖を振る。

 だが詠唱が追いつかない。急いで出した声は、たいてい魔法の形を崩す。


 その前に、透明な壁が展開された。


 《プロテクトウォール》。


 不可視の膜が空間へ張られ、リザードの顎が障壁へ弾かれて、乾いた音が響く。


「お、おお……!? 今の、すげー!」


 賞賛めいた声が上がる。

 だが、それは一瞬だった。

 視線が散る。

 散った瞬間に、別の事故が起きる。


「きゃあああっ!」


 今度は回復職の少女が、尻尾で弾き飛ばされて床に転がった。

 転がる音は軽い。体重が軽いからだ。軽い転倒ほど、首を折りやすい。


 同時に、前衛の斧男の腕へ毒棘が刺さる。

 鮮血と一緒に、紫色の痣が一気に広がった。


 紫は速い。

 毒が速い。


 斧を握る指が、目に見えて緩んだ。

 痛みより先に、筋肉が言うことを聞かなくなり始めている。


「早くキュア! 今すぐ!」


 風魔法の青年が少女へ怒鳴る。

 怒鳴る声は、たいてい焦りの裏返しだ。


 だが少女は震え、詠唱を忘れ、杖を抱えたまま固まっていた。

 固まるのは“失敗しないため”の身体の反応だ。けれど迷宮では、それが最悪になる。


 ちゃたろ〜は小さく息を吐いた。

 諦めではない。頭を切り替える合図だった。


 前衛へ駆け寄り、掌をかざす。

 《キュア》。


 淡い光が腕を包み、毒の進行を断ち切る。

 傷そのものを塞ぐわけではない。だが、痺れと毒の流れを止めることはできる。まず悪化を止める。それが支援の仕事だった。


 その直後、背後に殺気が走った。


(まずい)


 振り返る暇もなく、尾が腰へ直撃する。


 ――びりびり。


 神経を直接撫でられるような、嫌な震えだった。

 脚が動かない。

 動かそうとしているのに動かない感覚は、それだけで焦りを増幅させる。


 麻痺毒。


 半身を失ったみたいな感覚の中で、ちゃたろ〜は奥歯を噛みしめた。


 さっき、斧男へ《キュア》を通したばかりだ。

 再使用は、まだ間に合わない。


 今ここで無理に詠唱しても、魔力が噛み合わず、形になる前に潰れる。

 そうなれば、自分だけじゃない。後ろにいる全員の動きも止まる。


(……一拍、稼ぐ)


 ちゃたろ〜は荷物袋をまさぐった。

 指先の細かな感覚はもう薄い。だが、中の配置は覚えている。覚えている配置が、こういう時には命になる。


 触れたのは、小瓶。


 昨夜作ったばかりの〈パラリス草〉の粉末だった。


 口へ放り込む。

 強烈な苦味が舌を刺し、喉の奥が縮む。反射的に吐きそうになるのを、奥歯で押しとどめた。

 胃が焼けるみたいな感覚が走る。効く保証なんてない。だが、苦味と刺激が身体を無理やり現実へ引き戻してくる。


 脚の奥で広がりかけていた痺れが、ほんのわずかに鈍る。


 止まったわけではない。

 治ったわけでもない。


 ただ、進行が一瞬だけ“遅れた”。


(……足りる)


 その時、腰へ差した麻痺耐性の魔核が、かすかに震えた。


 震えは外側からではなく、内側から来る。

 淡い光が、ほんの一瞬だけ灯る。


 錯覚ではなかった。

 何かが、確かに応えた。


 ちゃたろ〜は呼吸を浅く整えた。

 焦るな。

 まだ動くな。

 ここで崩れたら終わる。


 斧男は、まだ立っている。

 風魔法の青年も、怯えながらだが前を見ている。

 少女は転倒したまま、息を呑んでこちらを見ていた。


 数秒。


 その数秒が、妙に長い。


 麻痺はまだ残っている。

 だが、身体の中で魔力が噛み合う感覚が戻ってくる。

 再使用の“線”が、ようやく繋がった。


「――《キュア》」


 低く、短く詠唱する。


 赤黒い痺れの筋が、自分の脚から剥がれるように消えていった。

 感覚が戻る。

 戻る感覚は、温度から始まる。冷えが引き、血の流れが脚へ帰ってくる。


 次の瞬間、ちゃたろ〜は立ち上がっていた。


 立つのには力が要る。

 だが、立てるなら次ができる。


 斧男が息を呑み、青年が叫ぶ。


「やべぇ! 囲まれてる!」


 三方向からリザードの群れ。

 少女はまだ立ち上がれず、斧男は痺れの残る腕で斧を握り直している。

 誰かが倒れ、誰かが止まり、誰かが焦る。


 崩壊の形が見えた。


 ちゃたろ〜は盾を振り上げる。


 ゴンッ!


 鋼鉄の縁がリザードの頭を叩き、衝撃波が走る。

 《スタン》。

 目に見えないはずの衝撃が、魔物の動きが止まることで逆に“見える”。


「……止まった?」

「今の、盾でやったのか……?」


 呆然とする二人をよそに、ちゃたろ〜は黙々と立ち回った。


 派手な声は出さない。

 命令もしない。


 命令は遅れる。

 声は乱れる。

 乱れは事故を呼ぶ。


 だから、配置で示す。


 壁を張り、斧男が立て直す隙を作る。

 少女の前へ立ち、リザードの爪を受け流す。

 受け流すたびに、盾の縁が小さく鳴る。その金属音は、場合によっては味方を落ち着かせる。

 その裏で、被弾した青年へ小さな《ヒール》を挟み込む。


 “挟み込む”感覚が大事だった。

 大きな回復は目立つ。小さな回復は流れを壊さない。


 支援は、誰の目にも派手には映らない。

 だが、ひとつでも欠ければ、パーティはその場で崩れていた。


 壁がなければ噛まれる。

 隙がなければ斧は振れない。

 回復がなければ、恐怖が先に勝つ。


 それが「支える」ということだった。


     ◇


 三層の中盤で、ちゃたろ〜は撤退を判断した。


 判断は早い方がいい。

 撤退は、遅いほど死人が出る。


 息を切らしながら、それでも全員が生きて帰還した。

 生きて帰れたという事実が、逆に膝を震えさせる。戦闘中は震えない。終わってから震える。


「……まぁ、悪くはなかったな。あのメイス盾」


 斧男が、ぼそりと漏らした。

 ぶっきらぼうな声だったが、視線だけは一度、真っ直ぐ向いていた。


 他の二人も無言で頷く。

 言葉にした途端に崩れそうな何かを、頷きだけで済ませるような頷きだった。


 ちゃたろ〜は何も言わなかった。


 感謝の言葉はない。

 派手な称賛もない。


 それでも、確かに守った。

 確かに生かした。


 生かしたという感触は、相手の声ではなく、自分の身体に残った疲労で分かる。


 ギルドの片隅へ腰を下ろす。

 誰の目にも止まりにくい、陰の場所だった。


 背中を壁へ預けると、石の冷たさが鎧越しに伝わる。

 冷たさは落ち着きを呼ぶ。熱は焦りを呼ぶ。


 そして、その陰からは、見ている者がいた。


 書架の影。

 仮面の鑑定士セフ=ユステ。


 人の流れから少し外れた場所で、紙と記録の匂いが濃いところに立ち、仮面の奥でわずかに口元を緩める。


「……気づかれないくらいで、ちょうどいいわね。

 そういう支援も、“境界者”には必要なのよ」


 囁きは誰の耳にも届かない。

 だが視線は、確かに届く。


 評価ではない。

 観測だ。


 観測されることは、次の介入へ繋がる可能性がある。

 ちゃたろ〜はそれを知らないまま、指先で掌を軽く揉んだ。


 痺れの名残。

 盾へ受けた衝撃の名残。


 名残があるということは、今日が現実だったという証拠でもあった。


     ◇


 夜。


 宿の小部屋。

 昼間の湿気がまだ床に残っている。

 鎧は椅子の背に掛けられ、盾は壁へ立てかけられていた。革紐は汗を吸って少し湿り、金具にはまた細かな傷が増えている。


 “今日生きた”痕だった。


 ちゃたろ〜は魔核を掌へ載せた。


 光は灯らない。

 ただ、かすかな温もりだけが残っている。


 温もりは錯覚かもしれない。

 だが錯覚でもいい。

 感じたことが、次の判断を作る。


 脚には、まだ微かな違和感が残っていた。

 完全には抜け切らない、麻痺毒の名残だ。


 太腿を指で軽く叩き、反応を確かめる。


 ……問題ない。


 今日の戦闘が脳裏をよぎる。

 少女の悲鳴。

 斧男の腕の紫。

 青年の焦った声。

 背中へ走った、あの嫌な一瞬。


 ひとつでも遅れていたら、誰かが死んでいた。


 ちゃたろ〜は、静かに呟く。


「……届かなくてもいい。やることは変わらない」


 独り言みたいに言って、魔核を袋へ戻した。

 紐を結び、その結び目を指で押さえる。

 それから木札へも一度触れる。擦れた縁が指へ引っかかり、“ここにいる”という感触が戻った。


 そして、通行証を握り直す。


 次の迷宮へ向かう準備を始める。

 準備は派手ではない。だが、派手ではない準備が、生き残りを作る。


 それは誰に知られることもない、支援の夜だった。

 それでも確かに、その小さな積み重ねが、やがて境界を越える力になろうとしていた。

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