表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
77/114

第66話「沈黙の支援、届かぬままに」

 ギルドの大広間は、朝から人と声と気配で満ちていた。


 石床に響く鎧の軋み、革靴の硬い音、机を叩く拳、依頼書を奪い合う冒険者たちの怒鳴り声。汗と鉄と獣脂の匂いが混じり合い、湿った息が空気を重くしている。獣の皮を抱えた者、血の匂いをまとった者、目の奥に焦りを宿す者、何度も木札を触り直す者――誰もが、それぞれの理由で“次”を求めて動いていた。


 生き残るために。

 稼ぐために。

 名前を残すために。

 あるいは、残せるものがもうそれしかないから。


 その熱気の中で、ただひとり、動かない影があった。


 柱の陰に背を預け、視線もほとんど動かさず、壁だけを見ている。壁の石は古く、欠けた部分には煤が薄く残っていた。そこに視線を固定しているのは、何かを見ているというより、何かから目を逸らさないための姿勢に近い。


 ちゃたろ〜だった。


 昨日の疲労は、身体ではなく心の奥に沈んでいた。

 筋肉の張りでも、魔力の枯渇でもない。もっと別の、芯を内側から押し潰してくるような重さだ。


 「やった」とも、「勝った」とも言えない形で終わった夜の残りかす。

 誰かを守った感触だけが確かに残っているのに、その感触は誰の中にも残っていない。


 深く息を吸う。

 喧噪の匂いが肺へ入る。

 吐く。

 冷えた空気が喉に触れる。


 それだけのことを、ちゃたろ〜は何度か繰り返していた。


「まだ残っていたのね」


 軽やかで、それでいて冷たい声だった。


 気づけば隣に、仮面の鑑定士セフ=ユステが立っている。光を反射しない黒布の衣に、白銀の仮面。その姿はざわめく空気の中でひどく異質だった。異質なのに、誰も大きく気にしない。気にした瞬間に、自分が測られると知っているからだろう。


 セフは周囲を見回さない。

 人混みも、掲示板も、騒ぐ冒険者たちも見ない。

 最初から、ちゃたろ〜だけを見ていた。


「昨日のパーティ、仮組みではなく実質的には解散だったでしょう?

 あれだけ火力不足なら、むしろ“よく持った”方だと思うけれど」


 柔らかい言い方だった。

 だが、柔らかい言葉ほど中身が硬い時がある。


「……俺が崩したわけじゃない」


 ちゃたろ〜の声は低い。

 言い訳にはしたくない。だが、誤解のまま放置するのも違う。その境目だけを押さえるような言い方だった。


「誰も責めていないわ。ただ、自覚があるかどうか。それが気になっただけ」


 自覚。

 つまり、お前は自分が何をしたか、本当に分かっているのか――という問いだ。


 ちゃたろ〜は答えず、壁を見たままでいた。

 返事をすれば会話になる。会話になれば立場が生まれる。立場が生まれれば、次にそこを利用される。


 セフは肩をすくめると、手元の小さな包みを差し出した。


 布に包まれた、硬いものだった。

 重さは小さい。だが、質量以上の“意味”をまとっている。


「持っていきなさい。麻痺耐性系の魔核よ。あなたには無駄かもしれないけれど」


 “無駄かもしれない”。


 言い切らない。

 効くとも言わない。

 判断だけを相手へ残す、あの鑑定士らしい言い方だった。


「使い方は?」


 ちゃたろ〜は視線を壁から外さずに聞いた。

 視線を外した瞬間、仮面の向こう側へ飲まれそうな気がしたからだ。


「知らないわ。光らないかもしれない。でも――光ったら、面白いかもしれない」


 仮面の奥で笑った気配がした。

 冗談めいているのに、その“面白さ”が誰のためのものかは決して言わない。


 そして去り際に、ふと振り返る。


「今日中に“都合のいい人”が現れるかもしれない。賢く使えば、選ばれずに済むかもね」


 意味深な言葉だけを残し、セフは人混みに溶けていった。

 消えたというより、最初からそこにいなかったみたいな消え方だった。


 ちゃたろ〜は包みを掌の中で転がした。

 布越しに角が当たる。冷たい硬さ。

 “道具”の感触は分かる。

 だが、“意図”の感触は分からない。分からないまま持たされるのが、一番厄介だった。


「おい、メイス盾だろ。ちょっと頼む」


 呼び止める声は、ざわめきの中にあって妙に直接的だった。


 振り向くと、若い冒険者が二人、慌ただしく駆け寄ってくる。背には大剣と槍。どちらも刃の手入れが浅い。その少し後ろから、小柄な少女が不安げに一歩遅れてついてきた。杖が身体の横で揺れ、歩幅も噛み合っていない。


「急ぎで第六層まで行く任務なんだ。火力は足りてる。だが支援がいない。……こいつは形式上“僧侶”だが、スキルはろくに覚えてねぇ」


 言い方は雑だったが、焦っているのは分かった。

 支援がいないパーティは、事故の形が単純になる。単純な事故は、そのまま死に直結する。


「えっと……回復は、まだ練習中で……」


 少女は小さく首を振った。

 声は細く、語尾が消えかけている。肩に掛けた荷物は、その小さな身体には明らかに重すぎた。装備の重さが、そのまま責任の重さに見える。


 ちゃたろ〜は一瞬だけ、セフの言葉を思い出した。


 “都合のいい人”。


 便利な人。

 使い捨てにされやすい人。


 だが、ここで断れば、誰かが死ぬ確率は確実に上がる。

 その確率を見て見ぬふりをするのは、ちゃたろ〜のやり方ではなかった。


「……俺でいいなら」


「助かる。報酬は折半でいいな?」


 それだけで話はまとまった。

 余計な握手も、誓いの言葉もない。

 そういう簡素さで結ばれる即席のパーティほど、たいてい危うい。


 ちゃたろ〜は木札を確かめ、通行証も確認する。

 生きて帰るための手続きは、こういう地味な確認から始まる。


     ◇


 迷宮内部は、湿り気を含んだ冷気で満ちていた。


 鎧の隙間から入り込む空気は冷たく、壁を這う苔の匂いが鼻へ残る。魔灯の明かりは頼りなく、光の届かない場所には暗がりが水たまりみたいに溜まっていた。奥の方からは低い唸り声が、姿より先に届いてくる。


「来たぞ!」


 大剣使いが飛び込み、最初の一体を両断する。

 その斬撃が決まった瞬間、影の中から分裂体が飛び出してきた。


 切ったはずなのに増える。

 倒したはずなのに足音が増える。


 そういう敵は、人の焦りをよく誘う。


「二体目!? 援護、早く!」


 槍兵の声が跳ねた。

 声が跳ねると視線が散る。視線が散ると、足元が甘くなる。


 ちゃたろ〜は即座に《プロテクトウォール》を展開した。

 不可視の壁が少女の前に立ち上がり、突進してきた魔獣を弾き返す。弾かれた時の乾いた音だけが、そこに壁があった証拠になった。


「え……?」


 少女は壁の存在に気づいていない。

 何が起きたのか理解できず、ただ怯えたまま立ち尽くしている。


 怯えること自体は悪くない。

 だが、動けないことは危険だった。

 それでも、それは未熟さより先に“経験不足の恐怖”なのだと、ちゃたろ〜には分かる。


 群れが押し寄せる。


 毒を浴びた槍兵へ《キュア》。

 裂傷を負った大剣使いへ《ヒール》。

 少女には《エイシェントグレイス》。


 支援は、寸分の狂いもなく届いていた。

 届いている。届いているのに、“届いたように見えない”。


 見えない支援は評価されにくい。

 評価されない支援は、次へ回されにくい。

 それが普通だ。


「おい、攻撃が薄いぞ!」


 前衛の怒声が飛ぶ。

 怒鳴るのは、状況が苦しい証拠だった。


 苦しくなるほど支援は忙しくなる。

 忙しくなるほど、支援は見えなくなる。


 ちゃたろ〜は盾を振り上げる。


「——《頭にどーん》!」


 鈍い衝撃が走り、分裂体の動きが止まる。

 止まる――ほんの一瞬。

 その一瞬のために、支援は全てを費やす。


 隙へ、大剣使いの一撃が叩き込まれ、数体がまとめて崩れた。


 “隙”を作るのが支援の仕事。

 倒すのは火力の仕事。


 役割が分かれているからパーティは回る。


 だが、奥からさらに巨大な分裂体が現れた。


 魔法も斬撃も弾き返す異常個体。

 硬いというより、攻撃そのものが“通っていない”感触だった。


 通らない戦いは、長引く。

 長引いた戦いは、事故を呼ぶ。


「こいつは無理だ、撤退だ!」


 叫びと同時に隊列がほどける。

 ほどけた隊列は、もう隊列ではない。


 仲間がばらけ、少女が転倒した。

 軽い音だった。軽い音ほど、首を折る危険が近い。


 魔獣が殺到する。

 誰も助けられない距離だった。

 いや、助けられない距離が生まれた時点で、撤退はもう遅かった。


 ちゃたろ〜は、静かに詠唱する。


「——《エンドオブフェイス》」


 赤い鎖が、無音のまま巨大な胴を縛り砕いた。


 断末魔すらない。

 巨大なものが崩れる時ほど、音は不思議と小さい。

 “終わった”と理解するまで、半拍遅れる。


 誰も、その瞬間を見ていなかった。


 偶然ではない。

 皆、生き延びるために出口の方向を見ていた。

 人は、死にかけた時ほど前ではなく出口を見る。


 ちゃたろ〜は倒れた少女の腕を引き起こし、そのまま背中を押して走らせた。

 言葉はない。

 言葉を出すより先に、身体が動く。


 それが彼の支援だった。


     ◇


 帰還後の控室は、妙に静かだった。


 外の喧噪が遠い。

 この部屋だけ空気が少し冷えているように感じる。

 鎧を外す音さえ、どこかためらいを含んでいた。


「……まあ、悪くはなかったな。やられずに済んだし」


 大剣使いが言う。

 褒めるでも責めるでもなく、現実だけを置くような言い方だった。


 現実だけが残る時、人はそれ以上をうまく語れなくなる。


「メイス盾って意外と動けるんだな、へぇ」


 槍兵が笑う。

 その軽さで空気を保とうとしているのが分かった。


 “危なかった”と言ってしまえば、誰かの責任になる。

 責任になれば、次が組みにくくなる。


 少女は一度口を開きかけ、それから閉じた。

 視線を伏せ、荷物を抱え直す。

 抱え直す手が少し震えている。


 怯えは残っている。

 それでも、生きていた。


 ちゃたろ〜は短く頷くだけだった。

 評価されなくても、守ったことは変わらない。


 “分かってほしい”を口にした瞬間、支援は要求になる。

 要求になった支援は、次に値切られる。


     ◇


 その夜。


 宿の小部屋には、昼間の湿気がまだ床へ残っていた。

 盾の縁が壁に触れるたび、小さく硬い音が鳴る。鎧は椅子にかけられ、革紐は汗を吸って少し湿っている。金具には、昨日よりまた細かな傷が増えていた。


 生き残った日の装備は、いつも静かに重い。


 ちゃたろ〜は机の上の小さな魔核を手に取った。

 石みたいに冷たいはずなのに、掌へ微かな温もりが残る。


 錯覚かもしれない。

 だが錯覚でも、感じたことが事実になる時がある。

 戦闘では、いつだって感覚の差が勝ち負けを分けるからだ。


 光はない。

 ただ、掌の中にわずかな温もりだけがある。


 ――それで十分だ。


 誰も気づかなくても。

 届かなくても。

 守ることが自分の仕事だと、ただそれだけを知っている。


 知っているから、明日も同じように動ける。


 ちゃたろ〜は通行証を握り直し、木札へも触れて確かめ、それから盾を磨いた。

 磨くのは見栄のためではない。


 傷の位置を覚えるため。

 次に受ける衝撃を想像するため。

 準備のため。


 そうして、次の迷宮へ備えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ