第66話「沈黙の支援、届かぬままに」
ギルドの大広間は、朝から人と声と気配で満ちていた。
石床に響く鎧の軋み、革靴の硬い音、机を叩く拳、依頼書を奪い合う冒険者たちの怒鳴り声。汗と鉄と獣脂の匂いが混じり合い、湿った息が空気を重くしている。獣の皮を抱えた者、血の匂いをまとった者、目の奥に焦りを宿す者、何度も木札を触り直す者――誰もが、それぞれの理由で“次”を求めて動いていた。
生き残るために。
稼ぐために。
名前を残すために。
あるいは、残せるものがもうそれしかないから。
その熱気の中で、ただひとり、動かない影があった。
柱の陰に背を預け、視線もほとんど動かさず、壁だけを見ている。壁の石は古く、欠けた部分には煤が薄く残っていた。そこに視線を固定しているのは、何かを見ているというより、何かから目を逸らさないための姿勢に近い。
ちゃたろ〜だった。
昨日の疲労は、身体ではなく心の奥に沈んでいた。
筋肉の張りでも、魔力の枯渇でもない。もっと別の、芯を内側から押し潰してくるような重さだ。
「やった」とも、「勝った」とも言えない形で終わった夜の残りかす。
誰かを守った感触だけが確かに残っているのに、その感触は誰の中にも残っていない。
深く息を吸う。
喧噪の匂いが肺へ入る。
吐く。
冷えた空気が喉に触れる。
それだけのことを、ちゃたろ〜は何度か繰り返していた。
「まだ残っていたのね」
軽やかで、それでいて冷たい声だった。
気づけば隣に、仮面の鑑定士セフ=ユステが立っている。光を反射しない黒布の衣に、白銀の仮面。その姿はざわめく空気の中でひどく異質だった。異質なのに、誰も大きく気にしない。気にした瞬間に、自分が測られると知っているからだろう。
セフは周囲を見回さない。
人混みも、掲示板も、騒ぐ冒険者たちも見ない。
最初から、ちゃたろ〜だけを見ていた。
「昨日のパーティ、仮組みではなく実質的には解散だったでしょう?
あれだけ火力不足なら、むしろ“よく持った”方だと思うけれど」
柔らかい言い方だった。
だが、柔らかい言葉ほど中身が硬い時がある。
「……俺が崩したわけじゃない」
ちゃたろ〜の声は低い。
言い訳にはしたくない。だが、誤解のまま放置するのも違う。その境目だけを押さえるような言い方だった。
「誰も責めていないわ。ただ、自覚があるかどうか。それが気になっただけ」
自覚。
つまり、お前は自分が何をしたか、本当に分かっているのか――という問いだ。
ちゃたろ〜は答えず、壁を見たままでいた。
返事をすれば会話になる。会話になれば立場が生まれる。立場が生まれれば、次にそこを利用される。
セフは肩をすくめると、手元の小さな包みを差し出した。
布に包まれた、硬いものだった。
重さは小さい。だが、質量以上の“意味”をまとっている。
「持っていきなさい。麻痺耐性系の魔核よ。あなたには無駄かもしれないけれど」
“無駄かもしれない”。
言い切らない。
効くとも言わない。
判断だけを相手へ残す、あの鑑定士らしい言い方だった。
「使い方は?」
ちゃたろ〜は視線を壁から外さずに聞いた。
視線を外した瞬間、仮面の向こう側へ飲まれそうな気がしたからだ。
「知らないわ。光らないかもしれない。でも――光ったら、面白いかもしれない」
仮面の奥で笑った気配がした。
冗談めいているのに、その“面白さ”が誰のためのものかは決して言わない。
そして去り際に、ふと振り返る。
「今日中に“都合のいい人”が現れるかもしれない。賢く使えば、選ばれずに済むかもね」
意味深な言葉だけを残し、セフは人混みに溶けていった。
消えたというより、最初からそこにいなかったみたいな消え方だった。
ちゃたろ〜は包みを掌の中で転がした。
布越しに角が当たる。冷たい硬さ。
“道具”の感触は分かる。
だが、“意図”の感触は分からない。分からないまま持たされるのが、一番厄介だった。
「おい、メイス盾だろ。ちょっと頼む」
呼び止める声は、ざわめきの中にあって妙に直接的だった。
振り向くと、若い冒険者が二人、慌ただしく駆け寄ってくる。背には大剣と槍。どちらも刃の手入れが浅い。その少し後ろから、小柄な少女が不安げに一歩遅れてついてきた。杖が身体の横で揺れ、歩幅も噛み合っていない。
「急ぎで第六層まで行く任務なんだ。火力は足りてる。だが支援がいない。……こいつは形式上“僧侶”だが、スキルはろくに覚えてねぇ」
言い方は雑だったが、焦っているのは分かった。
支援がいないパーティは、事故の形が単純になる。単純な事故は、そのまま死に直結する。
「えっと……回復は、まだ練習中で……」
少女は小さく首を振った。
声は細く、語尾が消えかけている。肩に掛けた荷物は、その小さな身体には明らかに重すぎた。装備の重さが、そのまま責任の重さに見える。
ちゃたろ〜は一瞬だけ、セフの言葉を思い出した。
“都合のいい人”。
便利な人。
使い捨てにされやすい人。
だが、ここで断れば、誰かが死ぬ確率は確実に上がる。
その確率を見て見ぬふりをするのは、ちゃたろ〜のやり方ではなかった。
「……俺でいいなら」
「助かる。報酬は折半でいいな?」
それだけで話はまとまった。
余計な握手も、誓いの言葉もない。
そういう簡素さで結ばれる即席のパーティほど、たいてい危うい。
ちゃたろ〜は木札を確かめ、通行証も確認する。
生きて帰るための手続きは、こういう地味な確認から始まる。
◇
迷宮内部は、湿り気を含んだ冷気で満ちていた。
鎧の隙間から入り込む空気は冷たく、壁を這う苔の匂いが鼻へ残る。魔灯の明かりは頼りなく、光の届かない場所には暗がりが水たまりみたいに溜まっていた。奥の方からは低い唸り声が、姿より先に届いてくる。
「来たぞ!」
大剣使いが飛び込み、最初の一体を両断する。
その斬撃が決まった瞬間、影の中から分裂体が飛び出してきた。
切ったはずなのに増える。
倒したはずなのに足音が増える。
そういう敵は、人の焦りをよく誘う。
「二体目!? 援護、早く!」
槍兵の声が跳ねた。
声が跳ねると視線が散る。視線が散ると、足元が甘くなる。
ちゃたろ〜は即座に《プロテクトウォール》を展開した。
不可視の壁が少女の前に立ち上がり、突進してきた魔獣を弾き返す。弾かれた時の乾いた音だけが、そこに壁があった証拠になった。
「え……?」
少女は壁の存在に気づいていない。
何が起きたのか理解できず、ただ怯えたまま立ち尽くしている。
怯えること自体は悪くない。
だが、動けないことは危険だった。
それでも、それは未熟さより先に“経験不足の恐怖”なのだと、ちゃたろ〜には分かる。
群れが押し寄せる。
毒を浴びた槍兵へ《キュア》。
裂傷を負った大剣使いへ《ヒール》。
少女には《エイシェントグレイス》。
支援は、寸分の狂いもなく届いていた。
届いている。届いているのに、“届いたように見えない”。
見えない支援は評価されにくい。
評価されない支援は、次へ回されにくい。
それが普通だ。
「おい、攻撃が薄いぞ!」
前衛の怒声が飛ぶ。
怒鳴るのは、状況が苦しい証拠だった。
苦しくなるほど支援は忙しくなる。
忙しくなるほど、支援は見えなくなる。
ちゃたろ〜は盾を振り上げる。
「——《頭にどーん》!」
鈍い衝撃が走り、分裂体の動きが止まる。
止まる――ほんの一瞬。
その一瞬のために、支援は全てを費やす。
隙へ、大剣使いの一撃が叩き込まれ、数体がまとめて崩れた。
“隙”を作るのが支援の仕事。
倒すのは火力の仕事。
役割が分かれているからパーティは回る。
だが、奥からさらに巨大な分裂体が現れた。
魔法も斬撃も弾き返す異常個体。
硬いというより、攻撃そのものが“通っていない”感触だった。
通らない戦いは、長引く。
長引いた戦いは、事故を呼ぶ。
「こいつは無理だ、撤退だ!」
叫びと同時に隊列がほどける。
ほどけた隊列は、もう隊列ではない。
仲間がばらけ、少女が転倒した。
軽い音だった。軽い音ほど、首を折る危険が近い。
魔獣が殺到する。
誰も助けられない距離だった。
いや、助けられない距離が生まれた時点で、撤退はもう遅かった。
ちゃたろ〜は、静かに詠唱する。
「——《エンドオブフェイス》」
赤い鎖が、無音のまま巨大な胴を縛り砕いた。
断末魔すらない。
巨大なものが崩れる時ほど、音は不思議と小さい。
“終わった”と理解するまで、半拍遅れる。
誰も、その瞬間を見ていなかった。
偶然ではない。
皆、生き延びるために出口の方向を見ていた。
人は、死にかけた時ほど前ではなく出口を見る。
ちゃたろ〜は倒れた少女の腕を引き起こし、そのまま背中を押して走らせた。
言葉はない。
言葉を出すより先に、身体が動く。
それが彼の支援だった。
◇
帰還後の控室は、妙に静かだった。
外の喧噪が遠い。
この部屋だけ空気が少し冷えているように感じる。
鎧を外す音さえ、どこかためらいを含んでいた。
「……まあ、悪くはなかったな。やられずに済んだし」
大剣使いが言う。
褒めるでも責めるでもなく、現実だけを置くような言い方だった。
現実だけが残る時、人はそれ以上をうまく語れなくなる。
「メイス盾って意外と動けるんだな、へぇ」
槍兵が笑う。
その軽さで空気を保とうとしているのが分かった。
“危なかった”と言ってしまえば、誰かの責任になる。
責任になれば、次が組みにくくなる。
少女は一度口を開きかけ、それから閉じた。
視線を伏せ、荷物を抱え直す。
抱え直す手が少し震えている。
怯えは残っている。
それでも、生きていた。
ちゃたろ〜は短く頷くだけだった。
評価されなくても、守ったことは変わらない。
“分かってほしい”を口にした瞬間、支援は要求になる。
要求になった支援は、次に値切られる。
◇
その夜。
宿の小部屋には、昼間の湿気がまだ床へ残っていた。
盾の縁が壁に触れるたび、小さく硬い音が鳴る。鎧は椅子にかけられ、革紐は汗を吸って少し湿っている。金具には、昨日よりまた細かな傷が増えていた。
生き残った日の装備は、いつも静かに重い。
ちゃたろ〜は机の上の小さな魔核を手に取った。
石みたいに冷たいはずなのに、掌へ微かな温もりが残る。
錯覚かもしれない。
だが錯覚でも、感じたことが事実になる時がある。
戦闘では、いつだって感覚の差が勝ち負けを分けるからだ。
光はない。
ただ、掌の中にわずかな温もりだけがある。
――それで十分だ。
誰も気づかなくても。
届かなくても。
守ることが自分の仕事だと、ただそれだけを知っている。
知っているから、明日も同じように動ける。
ちゃたろ〜は通行証を握り直し、木札へも触れて確かめ、それから盾を磨いた。
磨くのは見栄のためではない。
傷の位置を覚えるため。
次に受ける衝撃を想像するため。
準備のため。
そうして、次の迷宮へ備えた。




