第65話「届いていても、届かない」
——結局、こうなるのだろう。
迷宮都市カンブレーグ、冒険者ギルドの大広間。
朝と昼の境目に近い時間帯で、人の流れがもっとも濃くなる頃だった。
石造りの高い天井へ向かって、声は一度吸い上げられる。
それでも吸いきれなかった音は、薄く削られたまま戻ってきて、広間のあちこちへばらまかれる。
鎧の軋み。机を叩く拳。椅子を引きずる音。紙束を乱暴に剥がす音。
それらが重なり合って、空気そのものがざらついていた。
汗と鉄と獣脂の匂いが混じる。
そこへ、乾きかけた血の匂いと、湿った革の匂いがうっすら重なる。
誰もが“次”を求めて動いている場所の匂いだった。
その中心に、仮パーティ募集の掲示板がある。
壁一面に貼られた紙。
白い紙。黄ばんだ紙。端が破れた紙。筆圧の強すぎる紙。
文字の濃淡を見るだけで、書いた者の焦りや癖がなんとなく見える。
火力職募集。
回復職優遇。
索敵必須。
固定経験者。
短期で結果。
安全第一。
どれも現実的で、正しくて、だからこそ残酷な条件ばかりだった。
そこに「メイス盾歓迎」と書かれた紙は、今日も一枚もない。
ちゃたろ〜は掲示板の前に立ったまま、視線を右から左へ、上から下へと流していった。
条件を読むふりをしながら、最後に辿り着く結論はいつも同じだ。
行き場がない。
それでも、立ち去ることはできなかった。
立ち去れば、そこで終わる。
終われば、今日ここに来た自分の存在ごと“なかったこと”にされる。
——もう十分、なかったことにはされてきた。
同じ場所を何度も読み返している自分に気づいて、ちゃたろ〜は内心で小さく苦笑した。
笑いは口の外へは出ない。口角がほんの僅かに動くだけだ。
それは諦めではなく、確認に近かった。
「……やっぱり、な」
自分へ向けた釘のような声だった。
期待するな。そうなる。そういう場所だ。
背後から聞こえてくる囁き声は、決して大きくない。
だが、この広間では不思議なくらいよく通る。
「中途半端なんだよな」
「回復も火力も微妙らしいぜ」
罵倒というほど露骨でもない。
ただの評価だった。
そして評価であるがゆえに、訂正の余地がなかった。
転生前の世界でも、似たような立場に何度も立たされたことがある。
支える側に回り、縁の下へ入り、誰かの成功を成立させる役割を担いながら、その成功が当たり前になった瞬間、自分の存在だけが静かに消えていく。
支援という仕事は、失敗したときだけ目立つ。
うまくいったときは、最初から何もなかったことにされる。
それを理解した上で、ちゃたろ〜はここに立っていた。
理解しているから傷つかないわけではない。ただ、傷が少し鈍くなるだけだ。
鈍くなった傷は、気づかないうちに深くなる。
第四層予定の仮パーティ募集。
前衛、魔術、戦術支援。
構成としては悪くない。
だからこそ、自分が入り込めばどこかの歯車が狂うかもしれない、という感覚もあった。
歯車が狂った時、責められるのは“必要性が薄い者”だ。
つまり、自分だ。
それでも。
ちゃたろ〜は筆を取った。
少しだけ重い。
紙の端へ、自分の名を静かに書き込む。
筆先が紙を擦る小さな音が、妙に現実味を持って耳へ残った。
“参加する”という行為は、いつも音が小さい。
◇
控室へ足を踏み入れた瞬間、湿った熱気と金属の匂いが鼻を刺した。
人が集まる部屋は温度が上がる。
温度が上がると焦りが広がり、焦りが広がると、言葉はどうしても荒くなる。
斧を担いだ大男が、ちゃたろ〜を一瞥してから鼻で笑った。
ノルドという名らしい。
「へぇ……メイス盾か。まだ残ってたんだな」
“残ってた”。
その言い方には期待ではなく、在庫確認の響きがあった。
道具を見る目だ。
それで構わないと、ちゃたろ〜は思う。
そう思わなければ、ここにはいられない。
「……」
返答はしなかった。
返せばそこから交渉が始まる。交渉は、支援の価値を値切られる入口になりやすい。
ノルドは肩を回し、斧の柄を握り直した。
握りが強い。力が余っている。
余った力は、たいてい危険を呼ぶ。
「俺は火力型だ。多少削られても気にしねぇ。回復は後回しでいい」
「それでは遅い」
即答だった。
反論ではない。運用の確認だ。
「致命傷になる前に、体勢を維持するのが支援の役割だ」
ノルドは一瞬だけ黙り込んだ。
理解したからではなく、言い返す言葉を探している沈黙だった。
結局、肩をすくめる。
「理屈派か。まあ、好きにしろ」
許可ではない。
放置だ。
放置される方が、やりやすい時もある。
少なくとも、余計な期待を背負わずに済む。
隣では、魔術師の少女ナギが杖を指先で回しながら軽く笑った。
その笑い方は軽い。軽い笑いは、恐怖を薄めるための技術でもある。
「私は当たらないから大丈夫だよ」
ちゃたろ〜はナギの足元を見た。
軽装。可動域を優先した靴。悪くない。
だが、床を見る視線が甘い。
「前提が崩れた瞬間に瓦解する」
「……え?」
ナギが杖の回転を止める。
理解できないわけではない。ただ、理解すると怖くなるから、その入口で止まりたい顔だった。
仮面の戦術士シェナが、低い声で口を開く。
仮面越しの声には温度がほとんどなかった。
「私たちは結果だけを見る。君の支援が乱れなければ、それでいい」
乱れなければ。
それは信頼ではなく、条件だ。
条件は達成して当然で、達成できなければ責任になる。
支援はいつも、その条件の上で呼吸する。
「了解した」
期待されていないことは、最初から分かっている。
分かっているから心が折れないわけではない。
ただ、折れないように“形”を作るだけだ。
◇
第四層、石像の回廊。
入口を抜けた瞬間、空気が変わった。
冷え切った空気に粉じんが混じり、微かな魔力残滓が鼻の奥へざらついて残る。
床に刻まれた無数の傷は、この場所で繰り返されてきた戦闘の歴史そのものだった。
「行くぞ!」
ノルドが突進する。
その瞬間、ちゃたろ〜の意識は周囲の情報を一気に拾い上げた。
距離。
敵の初動。
武器の軌道。
床の摩耗。
苔の光の揺れ。
足が滑る場所。
味方が踏み込みすぎる線。
全部を重ね合わせた結果、彼は迷わず魔力を流し込んだ。
《プロテクトウォール》
展開と同時に衝撃が走る。
本来なら鎧越しでも骨へ届いていた打撃が、壁によってわずかに逸らされる。
わずかに。
その、わずかな差だけで致命傷にならずに済んだ。
ノルド自身は気づいていない。
気づかないまま斧を振るい、気づかないまま踏み込み、気づかないまま息を吐く。
支援は、知られないまま成立する方がいい。
……そう思っていた。
だが、知られないまま成立したものは、知られないまま“当たり前”にもなる。
「……くっ」
ノルドの口元に血が滲んだ。
完全には防ぎきれなかった。
衝撃は逸らした。だが、逸らしきれなかった分だけ現実が残る。
(……まだ甘い)
ちゃたろ〜は即座に自分の判断を切り直す。
後悔ではない。次に同じことを起こさないための処理だ。
支援役は、反省を戦闘中に終わらせなければならない。
続けて跳ねた石片が、ナギの腕を裂いた。
不規則な軌道だった。
不規則だから当たる。
《キュア》
迷う暇はない。
魔力を流し込み、毒素と炎症の兆候を断ち切る。
傷口そのものが閉じるわけではない。だが、悪化の方向を止めることはできる。
止めるだけで、次の行動が間に合う。
ナギが腕を押さえながら、息を詰めた顔で言った。
「ありがとう……でも、完全じゃないんだね」
その一言に、比較の気配がもう含まれていた。
もっと派手に傷が閉じる回復と。
もっと分かりやすく救われたと感じられる支援と。
そういうものと、無意識に比べている。
ちゃたろ〜は答えない。
答えれば弁明になり、弁明は手を遅らせる。
二体の魔像が同時に踏み込んだ。
石の脚が床を叩き、空気が震える。
“迷う時間”から先に、命は削られる。
「——《頭にどーん》!」
盾の縁が石へ当たり、鈍い衝撃が走った。
その瞬間、魔像の動きがほんのわずかに止まる。
たった一瞬の硬直。
そこへ、ノルドの斧が叩き込まれた。
石が砕ける音が広がる。
勝利の音に聞こえる。
だが勝利の音ほど、次の油断を呼ぶ。
「今のは良かったぞ!」
ようやく届いた評価。
けれどそれは、目に見える一瞬だけに対してだった。
見えたものだけが評価される。
見えないものは、最初から存在しなかったことになる。
戦闘は終わった。
全員が生きて戻った。
それが最大の成果であり、同時に誰の功績でもないような顔で、結果だけが部屋へ残った。
◇
控室へ戻る。
「無難だったな」
「まあ、火力頼みだけど」
悪意のない感想だった。
だからこそ、否定できない。
悪意がない言葉ほど、真っ直ぐ刺さる。
真っ直ぐ刺さる言葉ほど、抜けにくい。
ちゃたろ〜は黙って装備を外しながら、頭の中で戦闘を反芻していた。
手首の角度。
壁を張った距離。
キュアのタイミング。
頭にどーんで止まった時間。
もし、あの壁がなければ。
もし、あのキュアが一瞬遅れていたら。
もし、あの硬直がなければ。
いくつもの“死”が、すぐ隣にあった。
だが、それは起きなかった出来事だ。
起きなかった以上、誰の記憶にも残りにくい。
残らないものは評価にならず、評価にならないものは、次もまた“いなかったこと”として扱われる。
◇
再び、掲示板の前。
同じ場所。
同じ光景。
紙の端が少しだけ増え、床の汚れが少しだけ広がっている。
それでも「メイス盾歓迎」はやはり一枚もなかった。
ちゃたろ〜は静かに息を吐いた。
吐いた息は白くならない。だが胸の内側が冷えるのは分かる。
(今日の支援は……届かなかった)
そう思いかけて、そこで止める。
(いや……届いていた)
ノルドは死ななかった。
ナギは腕一本で済んだ。
あの一瞬、魔像は止まった。
届いていた。
ただ、誰にも見えなかっただけだ。
それは支える側にとって、いちばんよくある結末だった。
だから、やめる理由にはならない。
守ったという事実は、自分の中に残っている。
それで十分だ。
言い聞かせるのではない。
十分だと、自分で選ぶ。
そう選ばなければ、支える側は続かない。
ちゃたろ〜は木札を確かめ、通行証を握り直して歩き出した。
もっと深くへ。
もっと厳しい場所へ。
誰にも評価されなくても、盾であり続けるために。




