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第64話「仮面の鑑定士と意地悪な問い」

 ギルドの奥へと続く石造りの廊下は、昼なお薄暗かった。


 人の出入りが多い大広間から、ほんの数十歩離れただけなのに、空気の温度がはっきり変わる。湿り気は薄れ、乾いた冷えが肌へ張りつき、壁の石には、指でなぞれば粉が落ちそうなざらつきが残っていた。


 魔石灯の淡い光は、壁の浮き彫りをきちんと照らし出す前に吸い込まれ、床へ落ちるのは光よりむしろ影の方だった。

 その影は一定の形を保たない。光が揺れれば影も揺れ、影が揺れるたびに、こちらの視線まで少しずつ迷わされる。


 迷う視線は、足元を甘くする。


 足音だけが、やけに大きく響いた。


 ……コツ。

 ……コツ。


 金属靴の硬い音が石に当たっては返り、返っては重なり、途中から妙に伸びる。規則的なはずの靴音が、反響の遅れひとつで歪んで聞こえ、その歪みごと廊下の奥へ引き込まれていく。


 まるで――ここを歩く者の存在を、少しずつ削り取っていく通路だった。


 削り取られる感覚は、気味が悪い。

 だが、削り取られる感覚を知っている者ほど、こういう廊下は真っ直ぐ歩ける。


 ちゃたろ〜は無駄に周囲を見なかった。

 見れば見ただけ、廊下が“見るべきもの”を増やしてくるのが分かるからだ。


 受付で示された部屋の前に立つ。

 扉の札には、乾いた文字でこう刻まれていた。


 《鑑定官 セフ=ユステ 鑑定室》


 扉の前へ立つと、胸元の木札が微かに熱を持つ。

 掌で触れると刻印が淡く浮かび上がった。受付推薦、装備鑑定申請済――そういった事務的な文言が浮く。事務的であればあるほど、そこに逃げ道はない。


 ちゃたろ〜は、ついでに通行証の紐も確かめた。


 木札は身分を示すもの。

 通行証は踏破を刻むもの。


 どちらも、“戻ってこられる”ことを保証しない。

 保証しないからこそ、握り直す。


 ノックしようとした、その瞬間だった。


 扉が、音もなく開いた。


 蝶番も鳴らない。

 木が擦れる気配もしない。

 ただ“開いた”という事実だけが起きる。


「……入りなさい」


 低い声だった。

 抑揚がなく、感情の輪郭がほとんどない。


 一歩、踏み込む。


 空気が変わる。

 外よりも冷たく、乾いていて、それ以上に重かった。重いというより、呼吸そのものを受け入れない密度がある。息を吸うたび、肺の奥が締めつけられ、自分の呼吸が自分のものではなくなるみたいな感覚があった。


 それだけで、ここが普通の部屋ではないと分かる。


 中央に立つ人物は、白銀の仮面と黒衣をまとい、無駄のない直立姿勢のままこちらを見ていた。

 人というより、道具に近い。

 動かない。瞬きすら、こちらが見落とせば最初からなかったことになりそうだった。


「セフ=ユステ、で間違いないか」


「そうとも言える。そうでないとも言える」


 即答だった。


 言葉が滑らかすぎる。

 準備された返答みたいに、間がない。


「私が見るのは名ではない。君自身だ」


「……なるほど」


 意味があるようで、ない。

 だが、ちゃたろ〜は聞き返さない。こういう相手は、問い返すほど深みに沈む。返した問いの形や、問い返した時の姿勢まで、丸ごと測ってくるからだ。


 机の上には、いくつか資料が並べられていた。

 地図。魔核模造品。記録文書。

 どれも意図的に配置されている。無作為ではない。手前にあるものほど触れやすく、触れやすいものほど、たいてい罠になりやすい。


 鑑定士の机は、戦場の縮図だった。


「この中に、誤りがある」


 セフが言う。

 指先が机の上を滑った。触れていないのに、触れたように空気だけが動く。


「どれだと思う?」


「いきなりだな」


「迷宮は、常にいきなりだ」


 淡々としている。

 だが、そこに逃げ道はない。


 ここで黙れば“分からない”の証明になる。

 証明されたものは、次に使われる。


 ちゃたろ〜は、まず地図を取った。


 第八層から第十層。

 何度も見た構造に似ている。曲がり角の数、分岐の癖、危険地帯の印。視線を走らせた途端、違和感がひとつ浮いた。


 ある。

 だが、すぐには言わない。


 言った瞬間から“論破”が始まる。

 論破は勝ち負けに見えて、実際には“こちらの手札を相手へ渡す行為”だ。


 もう一度、最初からなぞる。

 折れ。

 角度。

 幅。

 接続。

 線の濃淡。

 手癖。


 迷宮の地図には、描いた者の癖が出る。

 癖は、嘘の綻びになる。


「……ここだ」


 ちゃたろ〜は南側通路を指した。


「第九層東側と一致しすぎている」


「なぜ、それが問題だ」


「岩盤の層が違う」


「それだけか」


「違う」


 指先をずらす。


「通路幅が均一すぎる。自然崩落なら、必ずどこか歪む」


「……続けろ」


「この曲がり角。視界誘導用に作られてる。現地じゃ、こんな余裕はない」


 沈黙が落ちる。


 セフは否定しない。

 肯定もしない。

 正解でも不正解でも、反応した瞬間に“基準”が漏れるからだ。


 次に、魔核を取った。


 掌へ乗せた瞬間、違和感があった。

 冷たさが、妙に均一すぎる。


 生きた魔核は微細に温度が揺れる。揺れは、内部で循環する魔力の気配だ。

 均一なのは、死んでいるか、作られているか。


 回す。

 刻印を見る。


「……上下逆だな」


「それだけで模造と?」


「いや」


 ちゃたろ〜は木札を取り出した。

 木札は身分証だが、刻印には微かな“反応癖”がある。相性のあるものへ触れた時、ほんの少しだけ熱を持つ。


「本物なら、最低でも微反応が出る」


 魔核へかざす。


 ……沈黙。


「反応しない。魔力循環が死んでる」


「判断が早い」


「迷宮では、遅いと死ぬ」


 静かな返答だった。

 だが、静かだからこそ重い。


 “死ぬ”は脅しではなく、ただの事実の提示だった。


 最後に、記録文書へ手を伸ばす。

 第十一層遭遇記録。


 ちゃたろ〜は、すぐには読まなかった。

 先に他の資料を見る。接続表。踏破履歴。崩落記録。何度か照合する。記録文書は単体で読むと誘導される。周辺から固めた方が安全だ。


「……存在しないな」


「根拠は?」


「接続点がない。物理的に到達不能だ」


「偽装の可能性は」


「ある。だが、この書き方は雑だ」


「どこが」


「生還率。盛りすぎだ。現実を知らない数字だ」


 短く断言したあと、部屋の空気が一段だけ重くなった。

 それは圧力というより、“評価が決まる気配”に近かった。


 長い沈黙が落ちる。

 ちゃたろ〜は瞬きを一度だけし、呼吸を浅くする。深く吸えば、この部屋にこちらの輪郭ごと吸い取られる気がした。


 やがて、セフがわずかに息を吐く。


「……すべて正解だ」


 その声には、ごく小さな揺れがあった。

 感情というより、観測結果が更新された時の微差に近い。


「君は……見るな」


「生き残るためだ」


「違う」


 セフが言った。


「多くは“勝つ”ために見る。君は“壊れない”ために見ている」


 間が落ちる。

 その間は、言葉より深く刺さる。


「君は、先を読む人間だ」


 ちゃたろ〜は答えなかった。

 “先を読む”と言われて喜ぶのは危険だ。喜んだ瞬間から、“先を読めるはずの人間”として扱われる。


「魔核とは何だと思う」


 唐突な問いだった。

 論理の段差がある問いは、たいてい相手を躓かせるためにある。


「……力の源だろ」


「浅い」


 即答だった。


「魔核は“選別装置”だ」


「選別?」


「誰のために燃えるか。何を守るか。何を捨てるか」


 言葉が、刃物みたいに整っていた。

 整っているからこそ、余計に怖い。


 選別とは、残すことだ。

 残すために、捨てることだ。


「……意志か」


「近い」


 セフは机へ指を置いた。

 その指先が木目をなぞる様子が、ちゃたろ〜には刃の跡みたいに見えた。


「だから、私は簡単に渡さない」


「試験か」


「観察だ」


「違いは」


「試験は評価する。観察は……見捨てる」


 その言葉は重かった。

 “見捨てる”という単語が、この部屋の冷たさとぴたり一致している。

 一致しているから、嘘に聞こえない。


「今日は渡さない」


 箱を閉じる。

 蓋の閉じる音は小さい。だが、その小ささが拒絶の確定そのものに見えた。


「まだ、足りない」


「何が」


「壊れる覚悟だ」


 壊れる。

 その言葉は、支援の話ではなかった。

 人間の話だった。


 支える者が壊れる時、たいてい誰も気づかない。

 それを知っている者の言葉だった。


「……それを決めるのは?」


「私と、運と、君自身だ」


「曖昧だな」


「迷宮は、常に曖昧だ」


 セフはそこで背を向けた。


「帰れ」


「次は?」


「私の気分次第だ」


 冷たい言い方だった。

 だが“気分”と言いながら、その中に一定の規則を匂わせる。匂わせるのは、追わせるためだ。


 ちゃたろ〜は何も言わず、部屋を出た。


 廊下の空気はまだ冷たかったが、さっきまでの部屋に比べれば、むしろ外気に近かった。

 扉が背後で閉じる。

 ……重い音だった。

 現実へ引き戻される音でもあった。


「よう、お疲れさん」


 柱の陰から、情報屋が姿を見せた。

 いつからそこにいたのか分からない位置だ。情報屋というのは、存在を薄くすること自体が仕事みたいなところがある。


「聞いてたのか」


「命が惜しい」


 軽く笑う。

 笑いは軽いが、視線は軽くない。


「でもな、あいつがあそこまで喋るのは珍しい」


「……そうか」


「半年ぶりだぞ」


 情報屋は腕を組んだ。

 それは防御姿勢でもあるのだろう。こういう手合いは、たいてい会話の最中ずっと守っている。


「悪魔だの怪物だの言われてたが……」


「違うのか」


「破壊予測機だ」


 低く言う。


「才能も、破滅も、全部見る」


 “見る”という言葉が、廊下の反響に重なった。

 見られる側は、削られる。


「レアアクセ狙ってるだろ」


「少しな」


「闇パーティが絡んでる」


 声が沈む。

 沈んだ声は、冗談では済まない合図だ。


「マジで洒落にならん」


「承知してる」


 それ以上、言わない。

 言えば情報になる。情報になれば取引になる。取引になれば値段がつく。値段がついた瞬間、関係は歪む。


 大広間へ戻る。

 掲示板。

 紙の壁。

 募集。

 依頼。

 死亡報告。


 誰かの“次”と、誰かの“終わり”が、同じ紙面へ並んでいる場所だった。


「メイス盾?」

「誰が組むんだよ」


 当然のような嘲笑が流れていく。

 当然のように流れるからこそ、止められない。


 ちゃたろ〜は、黙って見た。

 見返さない。

 見返せば、そこに立場が生まれる。立場が生まれれば、余計に削られる。


 セフの声が蘇る。


 ――壊れる覚悟。


 一枚、剥がす。

 依頼書が壁から離れる時、小さな音がした。


 剥がすという行為は、選ぶという行為だ。


(俺の盾は……)

(どこまで、届く)


 答えはない。


 だが、目は燃えていた。

 燃えているのは怒りではない。

 諦めないという、静かな執念だ。


 支える者が最後まで手放してはいけないものが、そこにはまだ残っていた。

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