6章 第61話「迷宮都市カンブレーグへ」
王都ギルドの扉を押し開けた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。
夜の名残を含んだ湿り気。
石床の乾いた匂い。
遠くで鳴る鐘の音が、厚い壁を通してわずかに歪んで届く。
朝の光が、大理石の床に細長く落ちている。
ちゃたろ〜は、その光を踏まないように無意識に歩幅を調整してから中へ入った。
靴底が鳴った。
思ったより、大きな音だった。
その一音で、いくつもの視線がこちらに向くのがわかる。
――もう、慣れた。
慣れてしまったこと自体に、少しだけ苦笑する。
受付カウンターの奥で、赤茶の髪をまとめた女が顔を上げた。
マリアベルだった。
ほんの一瞬だけ、まぶたが揺れる。
それから、いつもの微笑が形を整える。
「まあ……ご挨拶から始まるなんて。今日はずいぶんとご機嫌ですのね?」
「最近ちょっと暇でさ。潜りたくなっただけ」
肩をすくめる。
二年半前の自分なら、こんな言い方はしなかった。
サナが自立し、離れていったあと。
ぽっかりと空いた時間。
誰にも管理されず、誰にも指示されない時間。
それをどう使うかは、もう――自分で決めるしかない。
「……レベリング目的ですの?」
「うん。長く潜れて、経験値も稼げる場所があれば助かる」
マリアベルは端末に指を滑らせた。
淡い光が、白い指先を照らす。
数秒。
沈黙。
彼女は、すぐには答えない。
いつもそうだ。
考えるときは、必ず間を置く。
「ご案内できる場所なら、いくつかございますわ。ただし――」
「ただし?」
視線が重なる。
「あなたのような立場の方に、私の判断だけで紹介できる迷宮はありませんの」
声音は柔らかい。
だが、その奥には動かせない線がある。
「監視対象ってことか」
「……ご自身でも、お気づきでしょう?」
“あちら”。
辺境伯。
その影。
見えない鎖は、今も外れていない。
「めんどくさいな」
「ええ。私も、そう思います」
即答だった。
そこに、わずかな疲労が滲む。
「三日。お時間をいただければ、整えておきますわ」
「三日で済む?」
「滞らなければ……大丈夫でしょう」
「わかった。待つよ」
短く頷く。
それ以上、聞かない。
聞いても、答えは変わらないと知っている。
*
三日間、ちゃたろ〜は王都の片隅で過ごした。
まだ暗いうちに目が覚める。
隣家の戸が開く音。
湯を沸かす匂い。
遠くで鳴る鐘。
それらを聞きながら、黙って盾を磨いた。
布は三種類。
粗取り。
中仕上げ。
艶出し。
呼吸を止め、角度を微調整する。
反射が、一直線になるまで。
「……あと十二段階」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
傍から見れば、暇人だ。
だがこれは――生き延びた者だけに残された儀式だった。
傷の入った縁を指先でなぞる。
主格天使の剣が滑った角度。
矢を流した位置。
受け損ねれば骨ごと割られていた線。
磨くたびに、それらが手に戻ってくる。
次は、どう受ける。
どこで流す。
どこまでなら折れない。
考えるというより、もう身体が覚え直している。
静かな部屋の中で、盾だけが少しずつ“次の戦い”に追いついていく。
*
三日後。薄曇り。
ギルドは、いつもより静かだった。
「準備、できた?」
「ええ。すべて」
差し出された紙束。
正式な推薦ではない。
だが、通れる。
それでいい。
「監視は?」
「記録は残ります。ですが……目立たぬよう処理しました」
「ありがと」
しまいながら言う。
「いろいろ、気を遣ってくれてるよな」
マリアベルは微笑んだ。
――ほんの、わずかに遅れて。
「職務ですもの」
その遅れに、ちゃたろ〜は気づいた。
だが、何も言わない。
言えば壊れる種類の沈黙だ。
*
迷宮都市カンブレーグ。
遺構が層をなす地下都市。
危険と欲望と、過去の残滓。
今の彼にとっては――ただの場所だ。
荷を背負い、街道を歩く。
背中の盾は、以前より静かだ。
重さはある。だが、もう迷いの重さではない。
腰の木札。
通行書類。
薬草。
包帯。
金具の軋み。
ひとつひとつを、歩きながら確かめる。
背後で、ギルドの尖塔が消えた。
風が、静かに背中を押す。
王都の石の匂いが薄れ、
土と草の匂いが濃くなる。
街道の先、雲の下の遠い地平に、
かすかに灰色の輪郭が浮いていた。
城壁か。
それとも、外縁の監視塔か。
まだ判別はつかない。
だが、あれがカンブレーグ側の景色なのだと、ちゃたろ〜にはわかった。
「……行くか」
独り言は短い。
それで十分だった。
*
同じ頃。
マリアベルは、書類を閉じた。
派遣先:迷宮都市カンブレーグ。
その文字を、指先でなぞる。
誰が彼を動かすのか。
それとも――誰も、動かしていないのか。
「……職務ですもの」
呟く。
微笑は、完璧だった。




