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第7話「決断のとき、血に染まる畑道」

 風が変わったのは、ほんの一瞬だった。


 グレイハウス村の西端──畑へ続く静かな土道。夕日の色が赤から紫へ沈みはじめる頃、空気がふっと沈むように冷えた。


 草むらの向こうへ足を踏み入れたとき、ちゃたろ〜の耳に、かすれた呻きが届いた。


「あ……ッ……ぐぅ……」


 土の香りに混ざる鉄臭い匂い。


 その場に倒れ伏していたのは、村で何十年も畑を耕してきた老農夫だった。脇腹を押さえ、浅い呼吸を繰り返し、衣服は暗い赤に濡れている。


 地面に手をつくと、掌がぬるりと生暖かい血に沈んだ。夕暮れの光に照らされるそれは、まるで世界の底から滲み出した影のようだった。


「おっさん……!」


 ちゃたろ〜は迷わず膝をつき、老農夫の身体を抱き起こす。老人の瞳は焦点を結ばず、かすかに震えながら宙を彷徨っていた。


「し、しっぽ……黒い……牙が……ッ」


 途切れ途切れの言葉。血が喉に絡み、言葉の後端が形にならないまま零れ落ちる。


 毒牙ウルフ。


 違和感が、ざらりと脳裏を走った。


 ここは村の“最奥の安全地帯”だ。魔物が踏み込めるはずのない場所。なのに──なぜ。


 疑問と怒りが胸の奥で渦巻く。だが考えるより先に、体が動いた。


「ヒール」


 掌に灯る小さな光。


 それは赤ん坊が握る羽のように弱々しく、それでいて確かに温かかった。まるで“生”そのものがかすかに燃えているような光だった。


 光が老農夫の傷口へ染み込み、肉がゆっくりと閉じていく。皮膚の裂け目がふさがり、出血が止まり、呼吸が徐々に安定を取り戻す。


 老人の目に、わずかな生命の色が戻る。


「……おまえさん……助かった……」


 その声は、死の淵から戻ってきた者のかすれた感謝だった。


 ちゃたろ〜が息を吐いた瞬間──胸元の木札が柔らかい光を放つ。小さな脈動が指先に伝わり、心臓の鼓動と重なる。


(レベル……上がった。2だ)


 この世界は、“命を繋いだ者”に力を返す。


 その法則が、いま胸の奥で静かに脈打っていた。


 だが、安堵に浸る暇はなかった。


 遠くで、誰かの叫び声が上がる。


「人が倒れてるぞ!」 「血だ……っ、おい、誰か来い!」 「畑道の方だ、急げ!」


 村人たちが駆け寄ってくる。提灯の火が揺れ、ざわめきが一気に広がっていく。


「何があった!?」 「魔物だって……?」 「まさか、村の中まで……?」


 ちゃたろ〜は老農夫の身体を静かに横たえ、短く答えた。


「毒牙ウルフだ。おそらく村の外縁まで入り込んでいる」


 その言葉だけで、空気が変わった。


 村人の顔から血の気が引く。若い男が後ずさりし、女が口元を押さえた。


「そんな……ここは安全圏だろ……?」 「東の森だけじゃなかったのか……?」 「冗談じゃない……畑にも出るのかよ……」


 やがて、ギルドから駆けつけたティナが息を切らして人垣をかき分けてきた。


「ちゃたろ〜さん!」


 彼女の視線は、老人の脇腹、地面の血痕、そしてちゃたろ〜の掌に残る治癒の光の残滓へと走る。


「……ヒール、使ったの?」

「ああ。間に合った」


 ティナは老農夫の呼吸を確かめ、目に見えて安堵した。だがその安堵はすぐに緊張に塗り潰される。


「毒牙ウルフが、村の近くまで……」


 小さく呟いたあと、彼女は顔を上げた。


「今夜、ギルドで話し合いになります。これは、もう一人の依頼失敗とか、そういう話じゃない」


 その声は、もう受付補助の少女のものではなかった。村の異変を受け止める側の声だった。


 ちゃたろ〜は黙って老農夫の血で濡れた地面を見た。


 森の異変は、もう森の中だけのものではない。


 境界は破られた。


 安全地帯も、初心者向けも、村の外だから大丈夫だという線引きも、すべて。


(……来るなら、もっと近くまで来る)


 夕暮れの最後の光が地平の向こうへ沈んでいく。


 村を包む夜は、昨日までとは違う色をしていた。


 そしてちゃたろ〜は、はっきりと理解する。


 今日救ったのは、ひとりの命だけじゃない。


 村そのものが、いま“選択”を迫られようとしているのだと。

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