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第60話「最後のシチュー」

 屋敷の台所は、まだ“新しい火”の匂いがしていた。


 煙突からゆっくりと抜けていく煤の香り。

 昨夜洗ったばかりの鍋が並ぶ棚の、金属の冷たさ。

 窓から差し込む夕光が、粉をはたいた木の調理台の上でやわらかく広がる。


 その真ん中で――サナは、両手で木べらを握りしめていた。


 鍋の中では、白い息を吐き出すようにシチューがぐつぐつと泡立っている。

 表面をゆっくりと滑る薄い膜。ふちに寄っては消える小さな泡。

 焦げ付きと吹きこぼれの境界を測るのは、まだたやすいことではなかった。


 火加減は、いまだ“体感”に馴染んでいない。

 炎を弱くすれば、沸く前のぬるい時間が長くなり、

 強くすれば、一瞬で鍋底が焼けてしまう。


 それでも――今日は最後まで、ひとりでやると決めていた。


 ちゃたろ〜に見てもらいながら一緒に作ることは、たぶんできた。

 ヴィリスに火加減を確認してもらうことも、きっとできた。

 けれど、それでは意味がなかった。


 今日のシチューは、「誰かに教えてもらうため」のものではない。

 “ここから先の自分”のための、一皿だった。


 鍋から立ちのぼる湯気が頬をなでる。

 くすぐったいほど懐かしい匂いが、鼻腔の奥を静かに満たしていく。

 形のない記憶が、湯気と一緒に立ち上がる。


 焦がした匂い。

 やり直した匂い。

 ちゃたろ〜に笑われて、むっとしながらも一緒に食べた匂い。


「……味、あってるかな」


 サナは木さじを鍋の縁で軽く叩き、慎重にすくい上げる。

 熱を確かめながらふうふうと息を吹きかけ、そっと舌に落とした。


 野菜の甘み。

 煮崩れかけたじゃがいものほどける食感。

 少し固さの残る人参。

 肉から出た旨みが、牛乳のまろやかさに薄く溶けている。


 塩は――少し控えめ。


「……ちょっと、足りない」


 サナは棚から塩壺を取り出し、人差し指と親指でほんのひとつまみをつまむ。

 ぱらり、と鍋の上で広げると、木べらで底からゆっくりと混ぜていく。


 あの日と同じレシピ。

 ヴィリスに教わり、ちゃたろ〜に味見をしてもらいながら何度も繰り返した、あの手順。

 けれど――今日のこれは、“自分の手だけ”で作ったシチューだ。


 ガスではなく薪の火。

 量も、火加減も、具材の切り方も、自分で決めた。

 「教わった味」をなぞりながら、「自分の加減」をひとつだけ上乗せしていく。


 鍋の中の泡が落ち着いたのを見計らい、サナは火を止める。

 小さな乾いた音が、台所に軽く跳ねた。


 シチューの表面がふつふつと静まり、湯気だけが細く立ち続ける。

 サナは木べらをそっと置き、胸の前で手をぎゅっと握った。


「……よし」


 自分にだけ聞こえる声で、小さくそう区切りをつけた。



---


 夕暮れ。

 窓の外の空は群青に沈みかけ、薄く残った赤が雲の縁を染めている。


 居間のテーブルには、湯気を立てる皿が三つ並んでいた。


 一皿、二皿、三皿。

 どれも同じ量。

 具の偏りが気になって、最後まで何度もよそい直した跡がある。


 ちゃたろ〜はいつもの席に腰を下ろし、無言でスプーンを手に取る。

 戦場でも会議でもない、なんでもない夕食の姿勢。

 だが、今日はどこかぎこちない。


 ヴィリスは珍しく外套を脱ぎ、椅子の背に丁寧に掛ける。

 白衣めいた布の下には、仕事モードではない、少しだけ柔らかく見える服装がのぞいていた。

 眼鏡を指先で上げ、黙って席に着く。


 サナは二人の向かいに立ち、姿勢を正した。

 指先がわずかに震えている。

 スカートの裾を一度だけきゅっとつまみ、それから手を離す。


「……今日は」


 声が喉でひっかかりそうになる。

 飲み込みきれない緊張を、息と一緒に押し出して――


「今日は、わたしが作りました」


 一拍。


 スプーンを持ち上げていたちゃたろ〜の手が止まり、

 ヴィリスの瞳が、ほんの少しだけ大きくなる。


「全部、自分で?」


 ちゃたろ〜の問いは短い。

 だが、その短さの奥に、いくつもの意味が詰まっていた。


 火をつけたか。

 味を見たか。

 誰かの手を借りなかったか。

 “それを、本当に引き受けたか”。


「うん」


 サナはこくりとうなずく。


「ちょっと焦がしかけたけど……なんとか、なるようになったかなって」


 照れと誇らしさが半分ずつ混ざった笑み。

 今まで何度も見たはずなのに、ちゃたろ〜にとっては、どこか“初めて見るサナの顔”でもあった。


 ヴィリスは、わずかに口元をほころばせる。


「観測記録:本日夕食、対象自身による調理。……良い傾向です」


 わざと淡々とした調子を保ちながらも、その声には確かな温度が含まれていた。


 三人は、ほぼ同時にスプーンを動かした。


 ちゃたろ〜は黙って一口をすくい、口へ運ぶ。

 ヴィリスは慎重な動きで少量だけ掬い、舌の上で成分を分析するように味わう。

 サナも、一呼吸おいてからスプーンを口に運んだ。


 ――人参は、少し硬い。

 じゃがいもは、ところどころ崩れて、ところどころ大きすぎる。

 玉ねぎは甘いが、ほんの少し歯ざわりが残っている。


 塩は、やっぱり控えめ。

 でも、薄くはない。

 舌に残る余白が、次のひと口を欲しがってしまうくらいの、絶妙な浅さだった。


 スープには、ほんのわずかに焦げの匂いが混じっている。

 けれどそれは失敗の匂いではなく、「最後の最後に火を見過ぎた」人間くささの証拠だった。


 完璧なレシピという意味では、足りないところはいくらでもある。

 それでも、このシチューは完成していた。


 誰の助けも借りず、

 誰の「こうあるべき」を参照せず、

 自分の手で切って、炒めて、煮込んで、味を見て、調整して、火を止めた。


 その「全部」が、このひと皿に溶け込んでいる。


 しばらく、スプーンが皿を叩く音だけが続いた。


 ふいに――ちゃたろ〜が、ぽつりと口を開いた。


「……天使」


 そこまで言って一度区切り、シチューの表面をじっと見つめる。


「……あいつら、シチュー食べたかったんじゃないか?」


 時間が止まったような間。


 サナが瞬きをする。

 ヴィリスが、スプーンを口元で止めたまま固まる。


「な、なにそれ……」


 最初に漏れたのは、呆れとも戸惑いともつかない声だった。

 サナの眉が寄り、口が半開きになっている。


 ちゃたろ〜は真顔のまま、淡々と続ける。


「ずっと執着してただろ。

 記憶だの、契約だの、名前だの。

 あれ、ぜんぶ“味”を求めてたんじゃないかと思ってな」


「……どんな解釈?」


「自分たちで食えないから、人間の記憶に残る“味”に喰らいついてきた。

 そう考えると、あのしつこさも説明がつく」


「そんなの、ただの食い意地じゃん!」


 サナの声が一段高くなる。

 言葉の後ろに、思わず吹き出しそうになる気配が混じっていた。


 次の瞬間――


「ぷっ」


 こらえきれず、サナが吹き出した。

 慌てて口元を押さえるが、肩が震え、目尻が笑いで細くなる。


「……っ、……もう、ひど……っ」


 ヴィリスも、唇を手で隠しながら、静かに息をこぼしていた。


「確かに、“記憶の味”という観点は……興味深い仮説ですけれど……

 そんな神性、聞いたことありませんわ……」


 言葉こそ辛うじて理性的だったが、その声の端は楽しげだった。


 サナは笑いながら、スプーンの先で自分の皿の縁をつつく。


「もしそうだったら、ちょっとかわいそうかもね」


 笑いが少し落ち着いた声で、ぽつりと言った。


「いっぱい“正しさ”とか“契約”とか守ってきたのに、

 最後に欲しかったのが、こんなシチューの味だったら――

 なんか、こっちが申し訳なくなる」


「まあな」


 ちゃたろ〜は、残り少なくなったシチューを静かに掬いながら答える。


「でも、味はあげない。これはおまえのだ」


 短く、それだけ告げて、最後の一口を飲み干した。


 サナは、その言葉を聞いた瞬間、少しだけ目を丸くした。

 それから、ゆっくりと頷く。


「……うん。

 これは、わたしの味だから」


 自分で切って、自分で焦がしかけて、自分で味を決めた。

 その一連の「自分」が、このひと皿に詰まっている。


 天使にも、神にも、契約にも、誰にも譲らない。

 “サナという人間”だけが持っていていい味。


 それを、ようやく彼女自身の口で肯定できた。


 その夜、この家で三人で囲む食卓は、これが最後になるかもしれなかった。

 けれど、それは終わりの味ではなかった。

 持ち帰れる味だった。

 どこへ行っても、自分の中へ残しておける味だった。


---


 食卓が少し落ち着いた頃合いを見計らって、

 ヴィリスが、食後の茶を置きながらさらりと切り出した。


「様子を見る限り――もう、十分でしょう」


 湯気の向こうで、彼女の瞳が淡く光る。


「明日、辺境伯のもとへ戻ります。

 報告と、手続きのために。サナも同行させます」


 その言葉は、事務的で、淡々としていて、

 それでいて、どこか一区切りの響きを含んでいた。


 サナの指先が、カップの取っ手の上で止まる。


「……はい」


 小さな返事。

 しかし、その声は揺れていなかった。


 彼女は分かっている。

 ここに留まるだけが救いではないことを。

 この屋敷が“戻ってきていい場所”であると同時に、

 また出ていく場所でもあることを。


 荷物は、驚くほど少なかった。


 着替えを数枚。

 使いかけのノートと、細い鉛筆。

 そして――

 サナが自分で書き起こした、シチューのレシピノート。


 ヴィリスはそれらをひとつひとつ確認し、布の鞄に収めていく。


 玄関の前で、サナは振り返った。

 ちゃたろ〜の前に立ち、少しだけ顎を上げる。


「……また、自分でシチュー作れるようになったら……」


 言葉を選ぶように、ひと呼吸置いてから続ける。


「帰ってきても、いい?」


 ちゃたろ〜は、ほんのわずかに目を細めた。


「待ってる」


 余計なことは言わない。

 条件も、時間も、約束の形もいらない。


 その二文字は、誓約ではなく、宣言だった。

 「いつ」とも「何度」とも言っていない。

 だからこそ、その言葉はどんな儀式よりも重かった。


 サナは、ほっと息を吐き、きゅっと口元を結ぶ。


「……うん」


 それで十分だった。



---


 玄関の扉が開く。


 外の空気は、夏の終わりと秋の始まりが混ざり合ったような温度だった。

 冷たすぎず、ぬるすぎず、頬をなでる風の中に、街の土と草と人の匂いが混じっている。


 靴を鳴らし、サナとヴィリスは一歩外へ出る。


「行ってきます」


 振り向きざま、サナが短く言った。


「……気をつけて」


 ちゃたろ〜の返事もまた、短い。


 必要な言葉は、それだけだった。


 ふたりの背中が、道の向こうへ遠ざかっていく。

 ヴィリスは荷物を片側に寄せ、歩調をサナに合わせている。

 サナは、ときおり振り返ることなく、ただ前を見て歩いていた。


 扉を閉める音は、小さく控えめだった。

 けれどその響きは、はっきりと胸のどこかに刻まれた。


 屋敷に再び、静けさが戻ってくる。


 だが、さっきまでの静けさとは違う。

 テーブルの上には、洗いきれていない皿の匂いがわずかに残り、

 台所には、火を止めたばかりの鍋の余熱がまだ残っている。


 誰もいないのに、ここにはまだ“誰かがいた”温度が漂っていた。


---


 夜。


 ちゃたろ〜はひとり、裏庭に立っていた。


 頭上には、雲の切れ間から星がいくつか覗いている。

 遠くの街の光が薄く反射し、完全な暗闇にはならない夜空。

 風が木の葉を揺らす音が、時折ささやくように聞こえる。


 誰もいない時間。

 誰のためでもない場所。


 それでも、胸の奥にはまだ食卓の匂いが残っていた。

 ミルクとバターと炒めた玉ねぎの甘さが、記憶の中で静かに湯気を立てている。


 ちゃたろ〜は空を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ぽつりと呟く。


「……さて」


 それ以上は続けない。

 どこへ、とも。

 何をしに、とも。


 ただ、

 サナが「帰ってきてもいい?」と尋ねたこの屋敷を、

 「待ってる」と答えた自分が守れるように。


 そのための次の一歩を、

 ひとり静かに踏み出す準備だけを、心の内側で整えていく。


 風が吹き、裏庭の草を撫でていった。

 台所にはまだ、最後のシチューの匂いが残っている。


 それは消えていく匂いではなく、

 ちゃんと生きていれば、また作れる匂いだった。

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