第58話「正義のゆくえ」
赤い鎖が、空に走った。
――《エンドオブフェイス》。
主神に捧げられた信仰の線を、根本から断ち切るための一撃。
祈りを礎とする権能に対し、「否」を突きつける異端のスキル。
鎖は主格天使の身体に絡みついた。
銀の胸甲。祈りの刺繍が刻まれた衣。背に広がる光の翼。
すべてを紅の線が縛り上げる。
天へ向かうはずだった力が、地へ引きずり落とされる。
神性に対する断罪。
「信じられている側」を裁く、一方的な暴力。
――そのはずだった。
鎖は、砕けた。
音もなく。
ただ光だけを散らして。
銀の鎧が、赤い残光を弾き返す。
主格天使の身体から、剥がれ落ちるように赤い楔が消えていった。
天使が、ゆっくりと顔を上げる。
仮面のような白い面の奥で、光が揺れた。
「……」
返ってくる言葉はない。
だが、ちゃたろ〜の内側で、何かがわずかに軋んだ。
(……足りないか)
前世の画面越しに何度も見た「デバフ成功」のエフェクトは、ここにはない。
今あるのは――自分の腕に残る、妙な痺れだけだった。
追撃を考えるより早く、天使が動いた。
銀翼がひと打ち。
風が裂ける。
床石が鳴り、空気が一瞬だけ真空になる。
そして――
《プロテクトウォール》。
即詠唱。
天使の口元がわずかに動いた瞬間、光の壁がちゃたろ〜の前に展開される。
彼を守るためではない。
天使自身が、その身を砲弾にするための、跳躍台として。
銀の身体が壁に叩きつけられる。
一撃目で光が揺れ、
二撃目でひびが入り、
三撃目で――壁が崩壊した。
破片の光が弾け、残滓が視界を白く染める。
その明滅の中で、ちゃたろ〜は盾ごと吹き飛ばされた。
石床への衝突。
背面からの衝撃が、肺の空気を無理やり吐き出させる。
肋骨が軋み、腹の奥で何かが裂ける感触。
口から、血が溢れた。
喉を焼く鉄の味。
肺の奥に残った空気が、濁った泡になって逆流してくる。
「……っ」
声にならない呻き。
肩が外れていた。腕が自分のものではないみたいに重い。
――まずい。
痛みより先に、判断が走る。
肩。脱臼。
肋骨。何本かいった。
呼吸。浅い。だが回る。
脚。動く。まだ立てる。
(《ヒール》)
詠唱が、乱れる。
頭の中ではいつも通りの順で言葉を置いているのに、舌がついてこない。
半拍、遅れが生じる。
それでもスキルは発動した。
白い光が骨を引き寄せ、筋繊維を無理やり引き合わせる。
継ぎ目は滑らかではない。
粗く縫われたみたいな痛みが、腕の付け根から指先まで走る。
術が終わるより早く、天使は踏み込んできた。
間合いを詰める速度は、人間の視界を超えている。
剣が振るわれたことを認識するより前に、斬撃が盾に火花を散らせていた。
右からの斬り上げ。
左からの薙ぎ払い。
下段からの突き上げ。
肩口への刺突。
流れるような組み合わせ。
秒間三撃。
どの一撃も、単独で致命傷になり得る線を通っていた。
それは“技”ではなかった。
剣技ですらない。
もっと単純で、もっと冷たいものだ。
裁定。
生かす必要がないと決めた対象を、ただ正確に削ぎ落としていくための運動。
迷いがないのではない。
迷うという工程そのものが、初めから存在していない。
《プロテクトウォール》。
《キュア》。
《ヒール》。
《グレイス》。
詠唱と同時に、盾を構える。
発動が一瞬でも遅れれば、そのまま骨ごと断たれる。
回復のタイミングが狂い始めていた。
天使の剣が盾に打ち付けられるたび、腕の骨が軋む。
痺れが指先まで広がり、一瞬、握力が抜ける。
柄から、指が滑りかける。
(離すな)
意識で命じる。
握り締める。
甲の皮が裂け、血が柄ににじむ。
「戦意確認。
敵性、排除対象」
天使が淡々と言葉を落とした。
声に温度はない。
だが、その一撃一撃には“裁き”としての意志が宿っていた。
右斬。
左薙ぎ。
踵落とし。
斬撃の合間に挟まれる蹴撃が、膝を打ち砕く。
盾にひびが入る音がした。
左膝にも、同じような音が走った。
床へ落ちそうになる体重を、ぎりぎりで支える。
呼吸が浅くなり、視界の端が暗くなっていく。
(止められてる。――まだ、“止まってる”)
ちゃたろ〜は喉の奥で息を殺し、
その一瞬の隙へ攻撃を滑り込ませる。
「――《頭にどーん》」
メイスが短く唸った。
天使の兜を正面から打ち据える。
乾いた音。
銀の仮面にひびが入り、顔の半分がわずかにずれた。
主格天使の身体が、一瞬止まる。
想定外の衝撃を受けた機構みたいに、動きが半拍だけ遅れた。
その隙を逃さない。
「《エンドオブフェイス》」
二度目の断罪。
赤い鎖が、今度は腹部に巻きついた。
神性の通り道――中枢へ近い核に、干渉する。
鎖が締まる。
天使の身体の動きが、わずかに鈍る。
翼を打つ回数が減る。
剣の軌道が、ほんの少しだけ重くなる。
(――削れる)
ちゃたろ〜は、自分の息が荒くなっていることに気づいた。
肺が痛む。
さっき《ヒール》で無理に継ぎ合わせた肋骨が、呼吸のたびにずきりと訴えてくる。
それでも詠唱は止めない。
痺れを流す。
盾の線を補強する。
裂けた肉をつなぐ。
ほんのわずか、失った“間”を取り戻す。
だが、もう発動が詠唱へ追いつかない。
魔力が削れていく。
神経が焼けるみたいに痛む。
天使も止まらない。
脚が砕かれた。
斬撃ではない。
単純な踏みつけ。
銀の足甲が膝を押し折り、骨が変な角度で曲がる。
バランスを失い、石床に肩から倒れ込む。
視界が回転する。
倒れた彼の肩を狙って、迷いなく突きが落ちてきた。
剣先が肩口を貫く。
骨と筋を貫通し、石床へ刃が当たる鈍い音がした。
視界が、白く弾けた。
(――まだ)
呼吸を整える余裕はない。
整う前に、次の詠唱へ入る。
(詠唱を止めた瞬間に殺される)
それは前世のゲームでも、今の世界でも変わらない理屈だった。
スキル発動タイミングの管理が、狂い始める。
盾の展開よりも斬撃が早く、
防御の前に傷が刻まれる。
斬られながら、唱える。
唱えながら、殴られる。
右腕が痙攣し、メイスが震える。
柄を握る指先に、もう感覚がない。
天使の剣が横から飛び込み、肋骨を斜めに割った。
肺の片側が潰れ、呼吸が片方だけで回る。
膝をついた。
意識が、地面の下へ引きずり込まれそうになる。
その時、ちゃたろ〜は自分の身体を“自分”として扱うのをやめた。
右腕。まだ振れる。
左脚。死んだ。
肺。半分で足りる。
目。見える。
声。通る。
なら、次へ行ける。
痛いかどうかは関係ない。
機能するかどうかだけが問題だった。
その瞬間――
渾身の反撃でメイスを振り上げる。
天使の胸甲を、下から打ち抜く。
「《エンドオブフェイス》」
三度目の鎖。
今度は胸部――神性の最も濃い核そのものを貫いた。
赤い鎖が深く食い込み、内部で暴れる光を締め上げる。
信仰を流す“線”が、内側から断たれていく。
天使の動きが、止まった。
剣が中空で止まり、
銀翼が、静かに折れる。
鎧が砕け、仮面がはらりと崩れ落ちた。
その奥の顔に、表情というものは最初からなかった。
ただ、空洞のような瞳だけが、
一瞬だけちゃたろ〜を見た気がした。
静寂が訪れる。
主格天使は、仰向けに倒れた。
音はなかった。
砕けた破片が光の粒になり、
空気の中に溶けて消えていく。
ちゃたろ〜は、立っていた。
盾には大きなひびが走り、もう一撃も受け切れない。
左足に感覚はなく、動かそうとしても指令が届かない。
右腕は力が入らず、指先が痙攣を続けている。
呼吸は浅い。
息が喉で擦れている。
血とも痰ともつかないものが、肺の奥で鳴る。
魔力の残量を、確かめることはもうできなかった。
感覚で分かる。
詠唱をもう一度行えば、何かが壊れる。
(一歩)
右足を前へ出す。
膝が、わずかに揺れる。
それでも崩れない。
足裏が、まだ“地”を掴んでいる。
(……立てる)
それだけ確認して、足を止める。
誰もいない。
誰も、来ない。
誰も、見ていない。
この戦いを祝福する者も、
この勝利を記録する者も、
どこにもいなかった。
正義が、どちらにあったのかも分からない。
天使の“裁き”が正しかったのか、
自分の“断罪”が正しいのか。
あるいは――どちらも正しくなかったのか。
言葉は出なかった。
思考も浮かばなかった。
ただ、戦闘は終わっていた。
ちゃたろ〜は静かに盾を引きずりながら、その場を離れた。
背後で、光の残滓が完全に消える。
正義のゆくえを、誰も知らないまま。




