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第57話「神すら、否定する者」

 契約核へと続く長い廊下を抜けた瞬間、空気は形を変えた。


 それは温度でも匂いでもない。

 “概念としての空気”が変わった。

 まるで目に見えぬ巨大な手が、侵入者をゆっくり握りつぶそうとしているようだった。


 広がる空間は、大聖堂という言葉すら矮小に見えるほど広大だ。

 天井は遥か高く、白石の反響がどこまでも昇り続け、やがて消える。

 影はひとつもない。

 光源がないのに明るい。

 “ここでは影の概念が許可されていない”みたいな均質な光の場。


 床も壁も天井も、巨大な白石を削ったような滑らかさで、

 人間の建築技術では到達し得ない精度で磨かれていた。

 そこには歴史がない。

 傷も摩耗もない。

 積み重ねが存在しない――まるで“世界の外側”にある空間だった。


 その中央に、浮いている。


 契約核。


 巨大な球体。

 光の心臓。

 封印された宇宙の欠片。


 表面には無数の紋章が絡みつき、まるで“神性の血管”のように脈動している。

 そのすべてが、サナという存在を“役割として固定”するためだけに働いていた。


 球体の内部。

 光の向こうで、サナが小さく丸くなり、息をひそめている。


 眠っているのではない。

 沈んでいる。

 意識の底へ押し込まれ、自我と呼べる輪郭が薄く溶けていく、その直前だった。


 ちゃたろ〜の喉が、無意識にきつく鳴った。


「……これが、サナを縛ってきたものか」


 声は空気に吸われ、ほとんど響かない。

 ここでは“言葉”という概念ですら、歓迎されていないようだった。


 彼が歩を進めるごとに、空気が揺れた。

 ただ重いだけではない。


 “存在そのものが削られる”。


 そんな異質な圧が、皮膚ではなく、骨と魔核を直に締め付けてくる。


 肩にのしかかる重圧。

 肺の奥へ突き刺さる透明な刃。

 歩くだけで筋肉が悲鳴をあげ、体温が奪われていく。


 それでも、止まらない。


「……神の仕組みだろうが何だろうが、知るか」


 声は低く、かすれ、それでも折れない。


「俺は、サナをサナに戻しに来ただけだ」


 その瞬間。


 指先が契約核へ近づいた、その瞬間。


 ――世界が裏返った。


* * *


 灰色の霧の世界だった。


 輪郭のない空間。

 上下も距離もなく、足場すら曖昧な世界。


 その中央に、サナがいた。


 瞳は開いている。

 だが、そこには焦点がない。

 見ているのは霧ではなく、何も映さない“内側”だけだった。


 白い影が無数に漂っている。

 音もなく蠢く“役割の亡霊”。

 祈りの残渣。

 使役の残響。


「……わたし……は……?」


 声は霧に飲まれ、輪郭ごと消えていく。


 サナは、言葉の形を保てない。

 名を思い出しかければ、影がそれを奪いに来る。

 記憶へ指をかければ、影がその手首をほどいていく。


「……だれ……?」


 白い影が寄る。

 耳元で囁く。


 器。

 祝福。

 副産物。

 適合。

 順応。

 奉仕。


 意味は分かるのに、自分とは結びつかない。

 むしろ、そうやって言葉が整うほど、自分の輪郭だけが薄くなっていく。


「……わたしは、だれ……?」


 答えは返らない。


 サナは自分の手を見た。

 小さい。

 でも、その小さささえ、自分のものなのか分からない。


 歩いた記憶がある。

 食べた記憶がある。

 火を見た記憶がある。

 誰かと一緒にいた記憶がある。


 けれど、そこへ届こうとすると、白い影が先に触れる。


 それは、忘却ではなかった。

 もっと質が悪い。

 “思い出してもいいが、それはお前のものではない”と奪い返される感覚だった。


 その時。


 “外側”から、ひとつの記憶が割れ目を作った。


 ――ぐつぐつ。

 ――とろとろ。

 ――ことこと。


 温かい鍋の音。


 焦げかけた匂い。

 笑い声。

 湯気。

 台所。

 シチューの香り。

 不器用に具材を混ぜる影。


 ちゃたろ〜。


 その記憶だけは、白い影が上手く触れなかった。

 役割でも、器でも、祝福でもない。

 あまりにも生活で、あまりにも普通で、だからこそ“神の定義”から少しだけ外れていた。


 霧が裂ける。

 光が差し込む。

 湯気の向こうの温度だけが、まっすぐサナへ届く。


「……ちゃ……たろ……?」


 サナが、小さく、小さく呟く。


 声が震えているのは、恐怖ではない。

 ようやく世界へ指をかけた安心の震えだった。


 白い影がざわめく。

 器ではない言葉が、世界の奥で引っかかる。


 サナは、もう一度、呼ぶ。


「……ちゃたろ〜」


 今度は、少しだけはっきりと。


 その名前を呼んだ瞬間、霧の向こうに見えた。


 鍋をかき混ぜる背中。

 ちょっと雑に皿を置く手。

 不器用な優しさ。

 囲炉裏の火。

 ヴィリスの白い指先。

 ミーナの焼き菓子。

 畑の土。

 にんじんを抜いたときの、あの変な音。


 全部、自分の外にあった。

 でも、全部、自分が見てきたものだった。


 影がまた囁く。


 器。

 祝福。

 契約。

 役割。


 サナは首を振った。


 うまく振れたわけじゃない。

 ただ、嫌だった。

 そのどれで呼ばれても、胸の奥が冷たくなるのが嫌だった。


 代わりに、別の音が胸の奥から浮いた。


 サナ。


 それは大きな名前じゃない。

 立派でもない。

 神聖でもない。

 でも、あの家で呼ばれていた名前だ。


 湯気の向こうで。

 畑の中で。

 縁側で。

 眠る前に。


 その名前だけは、触れられても消えなかった。


 サナは息を吸った。

 白い影が寄る。

 霧が濃くなる。

 それでも、言った。


「わたしは……“サナ”です」


 その言葉が世界へ刻まれた瞬間――

 契約核が悲鳴をあげて砕け始めた。


 器ではない。

 役割でもない。

 ただひとりの“サナ”として、自分で名を名乗った。


 それだけで、枷は崩れる。


* * *


 光柱が天井を割り、空間が震えた。


 その中心から、主格天使が現れる。


 白銀の鎧。

 無機質な仮面。

 背中の光翼は、天井に届くほど巨大だ。


 ただ立っているだけで、床がきしみ、核が震える。


 > 「観測:契約構造、内側より破壊」

 > 「主因、対象“サナ”にあらず」

 > 「外部干渉者“ちゃたろ〜”の意志による発動」


 声は記録の羅列。

 だが、その奥には前より明確な“熱”があった。


 記録している。

 だが同時に、受け入れていない。


 > 「対象、神造契約を破壊せし危険因子と認定」

 > 「――粛清を執行する」


 光翼が広がる。


 周囲の重力が一気に変形し、床が波打つ。

 契約核の破片が宙に舞い、空間が震える。

 それは裁きだった。

 理から外れたものを、理の側が消しに来る音だった。


 対して、ちゃたろ〜は静かだった。


 目を閉じ、一度だけ息を吐く。


「……そう来るか」


 怒りではない。

 恐怖でもない。


 “覚悟”だけだった。


「たしかに俺は、お前らの“契約”を壊した」


 ゆっくりとメイスを抜き、両手で構える。


「でも、それでいい。

 サナがサナを名乗って、それで壊れるもんなら……最初から間違ってたんだろ」


 主格天使の気配が、わずかに揺れる。


 ちゃたろ〜は続けた。


「俺は、立派なこと言いに来たわけじゃない。

 世界の正しさを証明したいわけでもない。

 ただ――サナが自分の名前を口にしたなら、俺はそっちを信じる」


 視線は天使ではなく、

 サナに向けられている。


「それだけだ」


 天使が剣を構える。

 空気が凍り、裁定の一拍が響く。


 ちゃたろ〜が詠唱を重ねる。


 低く、深く、空間の根底を揺るがす声で。


 《エンドオブフェイス》


 赤い鎖が地を這い、天使を縛るように伸びていく。


「問うまでもない。

 おまえは“契約”の意味を取り違えてる」


 主格天使は剣を抜き放つ。

 光翼が裂け、空間が歪む。


 そして――踏み込む。


 それは、“裁き”と“祈り”が衝突する音だった。


 神の秩序を背負う使徒と、

 ひとりの少女の“名”を信じた盾。


 世界の正義の外で、戦いが始まった。

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