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第54話「封じられた門 —焦土の上を歩く者—」

 “施設”――かつてそう呼ばれた場所に足を踏み入れた瞬間、

 ちゃたろ〜は肺の奥から空気をむしり取られるような感覚に襲われた。


 焼け焦げた石壁から立ちのぼる黒い残臭。

 地面にこびりついた煤の層。

 鉄と血の乾いた酸味。

 そして、感情の形だけが残ったような、重く沈んだ空気。


 誰かが、ここを“跡形ごと葬る”ために焼いた。

 記憶も、歴史も、そこにいた人も、すべてまとめて。


 焦土の真ん中に立つだけで、皮膚の下がざわつく。

 ここでは、人間が人間として壊される手順まで、全部が制度として整えられていたのだと、空気そのものが知っていた。


「……ここを“老朽化”とかで処理したのかよ。笑わせんな」


 声は低く、乾いていた。

 けれど、その奥にはわずかに震える怒気が混じる。


 ここは、サナが最初に

 “人間ではない何か”と分類され、

 役割に押し込まれ、

 存在を削られ始めた場所。


 焼けてなくなろうと、痕跡は確かに残っていた。


 瓦礫の陰に、小さな指の跡。

 焼け落ちた調理棚の残骸。

 焦げた床板に刻まれた、繰り返された足取りの傷。

 割れた食器の白い破片。

 誰かが、ここで生きようとしていた証拠ばかりが、消しきれずに沈んでいる。


 ちゃたろ〜は一度だけ目を閉じた。

 怒りに呑まれないためではない。

 怒りごと前へ持っていくために、呼吸を整えたのだ。


---


 瓦礫を踏み、崩れた梁を越えた先――

 地下へ続く階段だけが、辛うじて形を残していた。


 だが、踏み出すより早く、

 空気が逆流するみたいに波打った。


 足元から銀色の残光が立ち昇り、

 階段の前に“透明な壁”のような圧が張りつめる。


 結界。


 それもただの遮断ではない。

 通過を拒むというより、

 ここから先へ入る者そのものを“排除対象”として定義する、古い防衛意思の塊だった。


「……守ってんのか。こんな焼け跡でも」


 その瞬間、光が形を得た。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 銀の鎧。

 白磁の仮面。

 大槍を構える者。

 長弓を引く者。

 掌に裁きの光を宿す者。


 天使たち――だが、これは“本物”ではない。

 結界が生み出した守護意志の化身。

 生者でも死者でもない。

 ただ“ここを通すな”という命令だけで立つ、役割だけの残骸だ。


 表情はない。

 だが、そこに宿る意図は明確だった。


 ――通す気はない。

 ――ここには踏み込ませない。


 その一線だけを守るために存在している。


 ちゃたろ〜は、長く息を吐き、

 メイスを肩に担ぎ直した。


「……悪いけど、ここは通る。俺には、まだ先がある」


 返答はない。

 だが、次の瞬間にはもう戦闘が始まっていた。


---


 《プロテクトウォール》


 光の盾が展開した瞬間、

 天使たちの動きに“溜め”はなかった。


 矢が空を裂く。

 槍が雷のような速度で踏み込み、

 魔力光弾が前方で縦に割れるように炸裂する。


 光の衝撃が盾を軋ませ、

 矢は魔力障壁を削り、

 足元の石を砕くほどの加速で槍が迫った。


 ちゃたろ〜は分析しない。

 いや、分析している暇がないのではない。

 分析を、もう動きの中に組み込んでいた。


 正面は盾。

 左は半歩ずらす。

 矢の角度は頬を切るだけでいい。

 光弾は受けるな、流せ。

 槍は軸だ。軸をずらせば、次の二体も一拍遅れる。


「――ッ!」


 槍が光壁を砕き、肩へ衝撃が通る。

 矢が脇腹をかすめ、熱いものが流れた。

 魔力光が頬を焼き、視界の端が白く弾ける。


 痛い。

 だが、それは後回しでいい。


 ちゃたろ〜の思考の中では、

 痛みは“今すぐ処理すべき最優先項目”ではなく、

 前進に支障が出るかどうかを判定するための材料へと落とし込まれていた。


 脇腹――浅い。

 頬――視界に影響なし。

 肩――上がる。まだ振れる。

 なら、前へ。


 腰袋へ手をやる。

 薬草を二枚、噛み潰す。

 苦味と青臭さが口内に広がる。

 残りを脇腹へ押し込み、血のにじみを強引に鈍らせる。


《ヒール》


 小さく、必要なぶんだけ。

 裂けた肉を閉じる。

 血を止める。

 元通りにはしない。

 死なない線まで引き戻せれば、それで十分だった。


 そして、その一拍で踏み込む。


 《頭にどーん》


 メイスの一撃が、槍兵天使の兜を砕いた。

 だが仮面が割れた瞬間、そこから眩い光弾が内側へ向かって炸裂し、

 ちゃたろ〜の視界は白に染まった。


 鼓膜が痺れた。

 歯の根が鳴る。


「……マジで容赦ねぇな……」


 体が熱い。

 呼吸が荒い。

 喉の奥に血の味。


 それでも、退かない。

 退く選択肢を、一度も頭の上へ上げないまま、前へ出続ける。


---


 弓兵の矢が右腿を裂いた。


 遅れて痛みが走るより先に、

 ちゃたろ〜は足首の動きを確かめる。

 曲がる。

 踏める。

 なら、まだ戦線から落ちない。


 手早く腰袋から粉薬を抜き、傷口へ叩き込む。

 血が泡立ち、すぐに鈍く固まる。

 その上から、


《ヒール》


 浅く。

 深く回すな。

 深く回せば魔力が死ぬ。

 今必要なのは完治じゃない。前に出続けるための“継ぎ足し”だ。


 光を掌に宿した天使が、そこで一歩前へ出た。

 裁きの光が両掌のあいだで圧縮される。


 まずい。

 あれは受けると削られる類の光だ。


 ちゃたろ〜は半壊した柱を蹴り、角度を変える。

 槍兵の残骸を盾代わりに使い、

 長弓の射線を一瞬だけ切る。


《ホーリーボール》


 放つ。

 相殺ではない。

 目くらましだ。

 裁きの光の焦点を、ほんの一拍だけずらすための。


 その一拍で足を入れる。


 天使たちは、そこで初めて“想定が外れた”ように見えた。


 決して表情は変わらない。

 けれど、槍兵を失ってなお前進してくるはずの連携に、ほんのわずかな遅れが出たのだ。


 胸を貫く矢を受けても止まらない。

 焼かれても、斬られても、最短で前へ戻ってくる。

 その動きは気合や激情とは違う。

 壊れたぶんを切り捨て、残った部分で最短の前進だけを選び続ける、異様に冷たい戦い方だった。


 守護意志の化身であるはずの彼らでさえ、

 わずかにその“ズレ”を飲み込めずにいる。


---


 《エイシェントグレイス》


 柔らかな光が身体を覆い、

 一瞬だけ世界の重さが消える。


 槍も矢も光弾も、表面で“無”へと変換されていく。


 しかし――持続は短い。

 それは最強の無敵ではない。

 理不尽を“数秒だけ無かったことにする”ための、最後の砦だ。


 光が薄れた、その瞬間。


 槍が胸を貫いた。


 金属音を立てて鎧が裂け、

 槍先が背中から覗くほど深く突き刺さる。


 空気が抜けたように肺が止まり、

 血が一気に喉へ逆流した。

 視界が揺れ、天地が傾き、

 体が瓦礫へ叩きつけられる。


 普通なら、ここで終わる。


 ちゃたろ〜自身も、

 終わっていておかしくないことは理解していた。


 だが、その理解と“止まる”は結びつかない。


 息ができない。

 なら、次に息が入るまでの数秒で状況を処理する。


 胸――深い。

 抜くな。今抜けば噴く。

 右腕――生きてる。

 左手――盾を離していない。

 足――まだ前へ出られる。

 視界――揺れているが敵影は拾える。


 なら、立てる。


「……ッ、は……」


 血を吐く。

 吐きながら、腰袋へ手をやる。

 鎮痛草を噛み潰し、喉へ流し込む。

 残りを胸元の傷の周囲へ押し込む。

 痛みが消えるわけではない。

 ただ、“痛い”が“動けない”へ変わる速度を遅らせるだけだ。


《ヒール》


 今度はもっと浅く。

 槍そのものは残したまま、出血だけを締める。

 肉を閉じすぎるな。異物を抱く。

 血が落ちる速度だけ抑えろ。

 肺の穴は後回し。

 息が浅くても、数分なら保つ。


 ちゃたろ〜は瓦礫を握り、

 ゆっくりと体を起こした。


 その動きは、気力で立ち上がる者のそれではなかった。

 すでに“次の工程”へ移った者の復帰だった。


「俺は……何も奪わない……

 誰にも……お前を……壊させない……」


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。


 槍の天使の動きが、止まったように見えた。


 錯覚かもしれない。

 守護意志の揺らぎかもしれない。

 あるいは、結界側が“なぜ止まらない”というノイズを処理しきれなかっただけかもしれない。


 だが、その一拍で十分だった。


---


 ちゃたろ〜は踏み込む。


 《ホーリーボール》で視線を焼き、

 《プロテクトウォール》を半身だけに張って光弾を削り、

 《キュア》で胸の焼ける痛みを一瞬だけ後ろへ押しやり、

 《頭にどーん》を最短距離で叩き込む。


 攻撃。

 回復。

 防御。

 前進。


 それらが別々の行動ではなく、

 ひとつの呼吸みたいにつながっていた。


 矢が頬を裂く。

 光弾が皮膚を焼く。

 魔力の流れが神経を焦がし、

 足取りは次第に重くなる。


 だが、その重ささえも、

 ちゃたろ〜の中では“今どこまで踏み込めるか”を計る材料に変わっていく。


 一歩。

 また一歩。


 “その先に、サナがいる”


 その事実だけが、ちゃたろ〜の歩みを支えていた。

 支えるというより、他の選択肢を全部消していた。


 守護天使たちにとって、それは理解不能な前進だった。

 人間ならここで退く。

 深手ならここで引く。

 それが通じない。


 矢をつがえる腕が、わずかに遅れる。

 槍を支える脚が、重心を見失う。

 光を宿していた掌が、一瞬だけ収束を乱す。


 結界の論理が、

 目の前の男を“普通の侵入者”として処理しきれなくなっていた。


---


 そして。


 矢をつがえていた腕が。

 槍を支えていた脚が。

 光を灯していた目が。


 すべて――同時に“静止”した。


 音もなく、ゆっくりと崩れていく。

 初めから存在しなかったみたいに、

 光の粒へと溶けて消えた。


 その中央に、ちゃたろ〜は立っていた。


 荒い呼吸。

 焼けた皮膚。

 血の味。

 震える指。

 胸を貫いた傷の周囲では、浅いヒールの光がまだ弱く点滅している。

 完治にはほど遠い。

 それでも、死んでいない。


 立っている。


---


 足元の銀光が、ふっと消えた。

 空気が一気に軽くなる。


 結界が、解けたのだ。


 地下への門が、開いた。


 そこには、まだ見えない何かが待っている。

 恐怖も危険も、確実にある。


 だが――迷いはなかった。


「サナ……行く。必ず救う」


 その誓いだけが、崩れた世界の中で唯一揺らがなかった。


 ちゃたろ〜は一度だけ胸元に手を当て、

 浅く息を整える。


 まだ動く。

 まだ前へ行ける。


 それだけ確認すると、

 彼は地下へと足を踏み入れた。

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