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第53話「観測と孤独 —地下の灯に揺れる手—」

 ちゃたろ〜が王都へ向かったあと、サナの発作は再び起きた。


 今度のそれは、これまでより深かった。


 浅い痙攣ではない。

 呼吸は細く乱れ、皮膚の下を走る魔紋はこれまでより明らかに濃い。

 胸元のペンダントは一度だけ強く発光し、そのあと、何かを押し返すように鈍い脈を繰り返した。


 ヴィリスは迷う時間を持てなかった。


 辺境伯家の保護規定に従い、サナは一時的に地下観測区画へ移された。

 管理責任者はヴィリス。

 最終権限も、記録責任も、すべて彼女ひとりに集められる。


 ちゃたろ〜は、まだ知らない。


 その事実だけが、地下へ降りる石段の冷たさより重く、ヴィリスの足に絡んでいた。



---


 観測記録:

 対象個体に、再び魔力の脈動を確認。

 数値上は“制御可能域”から逸脱せず。

 ……しかし、精神構造の“揺れ”は継続。

 前回と同様、内的運動と推定される不可解な身振り——。


 ヴィリスはそこでペンを止めた。


 記録用紙の上には、細かい魔力値と波形のメモが並んでいる。

 数字と線だけを見れば、この地下観測室は、ただの研究施設にすぎないだろう。


 だが、ここは“ただの”研究室ではない。


 世界のどこより静かで、

 どこより残酷な場所だった。


 温度は一定。

 湿度は一定。

 空気は浄化され、塵ひとつ入り込まない。

 遮断結界が幾重にも張り巡らされ、外界の気配はすべて断ち切られている。


 ――それなのに。


 ヴィリスの鼻先には、微かに甘い匂いが残っていた。


 ハーブ。

 焦がしかけの乳製品。

 台所で煮込まれるシチューの、あのほっとする香り。


(ありえない。ここには、火も鍋もない)


 隔離空間のど真ん中。

 灰色の石と精密な魔術装置と、白い寝具しか存在しないはずの地下で、

 記憶の匂いだけが、薄く居座っている。


 ヴィリスは記録用紙を静かに閉じ、椅子から立ち上がった。



---


「……サナ」


 呼びかけは短い。

 だが、何度も繰り返してきた“合図”でもあった。


 即座の返答はない。

 それもまた、いつも通り。


 寝台の上、小柄な影がわずかに身じろぐ。

 ヴィリスは観測者としての距離を一歩だけ緩め、

 見守る者としての足取りで近づいていった。


 サナは、こちらを見上げていた。


 瞳は開いている。

 だが、焦点は合っていない。


 視線はヴィリスの眼を通り抜け、

 その背後——かつて、この地下に“仮の調理台”が持ち込まれていた場所を見つめていた。


 あの夜。

 ちゃたろ〜が、不器用な手つきで鍋をかき混ぜていた場所。


「……あれが、あなたの“記憶”なのね」


 返事はない。


 けれど、サナの膝の上で揃えられた手が、ゆっくりと動き出す。


 右へ。

 左へ。


 円を描くように、なぞる。


 何かを混ぜる仕草。

 焦がさないように、じっくりと。


 それはあまりにも、見覚えのある動きだった。


「そう……そうだったわね。焦がさないように、ゆっくり。

 味見は、三回までって決めていた」


 言葉が届くかどうかは、もう問題ではなかった。


 重要なのは――

 この動きが偶然でも、魔力による“痙攣”でもないということ。


 サナは、覚えている。


 意識が何層にも裂かれ、

 名前も役割も“器”として定義され続けているはずなのに。


 あの時の、湯気と匂いと、隣に立つ影を。



---


 最終権限は、ヴィリスにだけ与えられていた。


 地下区画の“鍵”を預かっているのは、彼女ひとり。

 強制排除の最終権限。

 契約を切り、命を終わらせる呪文。

 発動条件も、停止条件も、すべて彼女の術式に割り当てられている。


 ちゃたろ〜でさえ、この部屋には入ることが許されない。


 だから結論として、

 この子を殺せるのは、自分だけだった。


 ヴィリスは、その事実を何度目かわからないほど胸の内で反芻した。


 冷たい。

 当然のようでいて、ひどく冷たい現実だ。


 その一方で、別の記憶も浮かぶ。


「あの人は、私に託した」


 冷たい盾を掲げた男の横顔が脳裏に浮かぶ。


 頼ることを嫌い、

 背を預けることに慎重すぎる男が、

 ただひとこと、ヴィリスに言ったのだ。


「お前なら、信じられる」


 それは、彼にとってほとんど“告白”に等しい重さの言葉だった。


(本当に、ひどい人)


 守り通せば、その信頼は証明される。

 殺せば、その報告をしなければならない。


 どちらに転んでも、

 ヴィリスはもう“ただの観測者”ではいられない。


 権限を持つ者の孤独。

 その孤独は、同時に――信頼の重さそのものでもあった。



---


 ヴィリスは、サナの横に腰を下ろした。


 この場所で彼女の隣に座ることを許されているのは、

 殺意も、慈しみも、希望も、冷徹さも――

 すべてを飲み込んだ者だけだ。


 サナの髪が、肩から胸元へ滑り落ちている。

 細い指でそれをそっとかき上げる。

 首筋に触れないぎりぎりのところで、指を止める。


 サナは動かない。

 まばたきひとつ、音を立てない。


 それでも、指先に伝わる体温は、確かだった。


 生きている。

 ただ“そこにある”だけではない。

 自分自身の内側で、何かと戦い続けている熱だった。



---


 観測記録(補遺):


 対象個体の動作に、一定の再現性を認む。

 魔力波形上に、儀礼言語と思しき断片を検出。

 頻出語:「器」「並ぶ」「祝福」。

 祈りか、料理か、もしくは何らかの“記憶”の再現行為と推定。



---


 ヴィリスは、その手を止めなかった。


 サナの手首に触れれば、

 契約発動条件はすぐに揃う。


 この隔離区域全体に張り巡らされた魔術式が一斉に起動し、

 サナの命は“契約違反”として処理される。


 人為ではない。

 システムとしての死。

 「そう設計した」のは、他ならぬ自分だ。


 ――それでも、いま指先がしていることは、

 命を断つ準備ではなく、“ここにいる”と伝える接触だった。


 手首を包む。

 ただ、それだけ。


 魔力の起動条件に“届かない”浅さで。

 しかし、本人には確実に伝わる深さで。


「あなたが……あなたである限り」


 ヴィリスは、ほとんど囁きみたいな声で言った。


「私は、ここにいるわ」


 言葉の意味を理解しているかどうかは、わからない。

 だが――サナのまつ毛が、ほんのわずかに震えた。


 小さな、しかし明確な反応だった。



---


 記録は記録として残す。

 数字も、波形も、事実を伝えるためには必要だ。


 けれど。


 目の前の少女が、

 かつて鍋を混ぜながら


 ――“ちゃたろ〜のシチュー、また食べたいな”


 と笑っていたことまで、

 数値に還元してしまう必要はない。


 湯気の向こうで交わされた会話。

 焦がしそうになって慌てた手つき。

 それを見て、肩をすくめて笑った自分自身の姿。


 それらを「不要な情報」として切り捨てるなら、

 自分は本当にただの“観測器”へ堕ちてしまう。


 それだけは、拒みたかった。



---


 ヴィリスは立ち上がり、記録机へ戻った。


 用紙の上に、ペン先を置く。


 いつもと同じ形式。

 いつもと同じ文体。


 違うのは――名前を書くときの、筆圧だけだった。


 「対象個体」でも、

 「器」でもなく、

 はっきりとした文字で一行を刻む。


 《対象:サナ》


 インクが少し、紙に染み込んだ。


 それでいい。

 それくらいで、ちょうどいい。


 地下の静寂は変わらない。

 だが、記録の一行だけは、わずかに重くなっていた。

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