5章 第52話「天使活性 —白亜の静寂に刺さる影—」
王都ギルドの扉を押し開けた瞬間、
冷気と光が、薄い刃のように頬を撫でていった。
大理石の床は朝陽を吸い上げ、
白銀の波となって空間全体に満ちている。
壁には各地方の紋章旗が几帳面に掲げられ、
その整然たる秩序が、この場が“人間の中心”であることを主張していた。
だが――ちゃたろ〜には、この静けさが不自然に感じられた。
辺境の砦で吸い慣れた土の匂いも、
湯殿の熱気も、
風のざらつきもない。
ここはきれいすぎる。
音まで磨かれたみたいに、すべてが濾過されている。
(……あれから二年半、こうも違う場所になるか?
いや、違うのは俺のほうだ)
足取りが、わずかに重かった。
ここへ来た理由はひとつ。
サナの“異変”について、ヴィリスからの封書を受け取るためだ。
扉が閉じる音が響いた直後――
「おや……まあ」
その声だけで、場の空気が変わった。
赤茶の髪を柔らかく波打たせ、
白と深青の制服を美しく着こなした女が、
窓口の内側から現れた。
マリアベル。
長年ギルドで受付嬢として働き、
王都の冒険者たちには“完璧な調律”として知られる女。
視線が交わる。
柔らかい。
だが、計算され尽くした柔らかさだった。
「お久しゅうございますね。……二年半、でしたかしら?」
「……ああ」
「辺境では、お元気に?」
言葉は軽い。
だがその奥には、研ぎ澄まされた糸みたいな緊張が一本走っている。
彼女は昔からそうだ。
状況を測り、反応を読み、
“受付嬢”という仮面を最適な形で保ち続ける。
「封書を受け取りに来た。ヴィリスからだ」
淡々と告げると、
マリアベルは眉をひとつだけ上げ、
そのあとの表情をいつもの“役割”へ戻した。
「まあ……随分お早い到着ですこと。
てっきり――無言の睨み合いでも始まるのかと思っておりましたわ」
からかい半分の言葉。
だが指先は冗談めいた速度ではなく、
明確な意図をもって引き出しを探っている。
迷いがない。
ということは――封書はすでに、彼女の準備の中にあったということだ。
「こちらが封書ですわ。
……差出人の魔力封印が強すぎて、
私には開封手順どころか、中身も一切わかりませんでしたのよ?」
渡された封書は、薄いのに重かった。
魔導の刻印が表面に浮かんでいる。
ヴィリスが用いる、“本人専用魔力波形による完全封印”。
ギルドでも扱える者はほとんどいない。
「ここで開ける。構わないな」
「ええ。どうぞご自由に。
私はただ……“受付嬢”ですもの」
その微笑の裏の本音を、ちゃたろ〜は読めた。
監視。
記録。
警戒。
そして、ほんの少しの恐れ。
彼女の横顔が、ごくわずかに強張っている。
――“まだ生きて戻ってくるのか”という驚きと警戒が、微細に滲んでいた。
ちゃたろ〜は封書の封を指先で割る。
空気が震え、
周囲の光がひと呼吸ぶれた。
そして――紙が、語り出した。
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《天使活性/監察記録(抜粋)》
《対象:A(名称:サナ)》
《身体表層に神性発光の反復。周期は不規則ながら増加傾向》
《上位天使種の気配、断続的に観測。空間歪曲反応あり》
《地下区画にて、同質の反応が多層化》
《封鎖は限界。契約構造の活性化が進行》
《可能性:強制覚醒、または主格干渉》
《本件は、“貴君”の判断が必要な段階へ到達したと判断する》
《記録責任者:ヴィリス》
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文字の最後が光に溶け、
封書は灰すら残さず消えた。
残ったのは、わずかな熱だけだった。
ちゃたろ〜はしばらくのあいだ、何も言わず、
紙があったはずの場所を見つめていた。
(……サナ。
やっぱり、限界が来てるのか)
胸の奥で、希望と恐れがせめぎ合う。
二年半前の自分なら、
こういう領域へ足を踏み入れることさえ、できなかったかもしれない。
だが今は違う。
もう“人間の側の都合”だけで守れる段階ではない。
それでも、だからこそ、自分が行かなければならない場所だとわかる。
ちゃたろ〜は静かに息を吐き、
「……ありがとう」
とだけ言った。
マリアベルは、役割としての微笑を絶やさない。
「私どもは職務を果たすのみですわ」
完璧な仮面。
だが頬の筋肉が、ほんの少しだけ硬い。
「あなたのような方が……またここへいらっしゃるとは」
「情報が必要だった。それだけだ」
「ふふ。ご謙遜を」
言葉は軽い。
けれど、その奥に潜むものは軽くない。
(……この女は俺を“災害級”として見てるな)
ちゃたろ〜は首を横に振った。
「安心しろ。誰からも何も奪わない。
……ただ、俺の手でサナを“戻し”たいだけだ」
「“彼女”の……ため?」
「ああ。
サナを――壊させたくない」
その言葉を、彼は静かに外へ出した。
マリアベルの視線が、
一瞬だけ鋭く細まる。
その奥に揺れたのは、
警戒か、畏れか。
あるいは、自分の立っている場所と彼の立っている場所との、決定的な隔たりに触れた時のざわめきか。
けれど彼女は、すぐに笑顔を戻した。
「……どうか、お気をつけて」
「言われなくても、な」
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ギルドを出て、石畳の道に立つ。
空には白い羽根雲。
風は冷たい。
だが、冬のそれほど刺々しくはない。
このあとに待つものを思えば、
心を冷やしておく必要もある。
ちゃたろ〜は空を見上げ、
ひとりごとのように呟いた。
「……二年半か」
それは自嘲でも後悔でもなかった。
ただの事実だった。
二年半前には、届かなかった。
あの時の自分では、守れなかった。
けれど今なら――まだ、間に合うかもしれない。
「行くぞ、サナ。
今度こそ……誰にもお前を壊させない」
その背中を、
ギルドの窓からマリアベルが静かに見送っていた。
笑みは変わらない。
だが、目は変わっていた。
恐れか。
畏敬か。
あるいは、読み違えたことへの微かなざわめきか。
彼はもう振り返らなかった。
振り返る必要もなかった。




