第51話「この手が守るもの」
――なぜだ。
あの森で、たしかに堕天使を討ち果たしたはずだった。
ちゃたろ〜とヴィリス、二人で全力を尽くし、命を削るような戦いの末にようやく勝ち取った勝利だった。白い影は消え、霧の底に残っていた歪んだ気配も薄れた。少なくとも、あの時はそう信じてよかったはずだった。
だが、日常は戻らなかった。
サナの身体に起きた異変は、誰の目にも明らかだった。
規則的に走る痙攣。眠りと昏倒のあいだへ沈むような深い眠り。薄布の隙間から覗く細い腕やうなじには、幾何学的な魔紋がじわじわと浮かび上がり、まるで内側から肉体を侵食するように広がっていた。
囲炉裏の火が静かに燃える部屋で、その異様さだけがあまりに冷たかった。
「これは……“あの施設”で施されたものと酷似しているわ」
ヴィリスの低い声は震えていなかった。
だが、その眼差しの奥には迷いが滲んでいた。
彼女はただの監視者ではない。
かつて研究員として《天使契約》に関わり、数値と波形で“対象”を見てきた人間だ。だからこそ、軽率な憶測ではなく、確信に近いものとして言葉を落としたのだ。
ちゃたろ〜は拳を握りしめた。
目の前で苦しむサナを、ただ黙って見ているつもりはなかった。
「場所を教えてくれ、ヴィリス」
低く、それでいて鋭い声だった。
サナの寝顔を一瞥したあと、ヴィリスは息を詰める。
「……あなた、一人で?」
「俺が、行く」
「それは調査じゃない。介入よ。正式に認可された命令ではない」
「命令違反だろうが何だろうが、サナを見殺しにするつもりはない」
その言葉に、ヴィリスの眉がわずかに動いた。
研究員として過去を知る自分は、本来なら冷徹に判断し、報告と隔離を優先しなければならない。
だが今は違う。
サナの肩に毛布を掛け、同じ食卓で湯気を囲み、夜には囲炉裏の火を見つめてきた。そんな日々を知ってしまったあとで、それでもなお“監視者”としてだけ彼を止めなければならないのか。
ヴィリスは唇を噛み、髪を払った。
「だったら――通せない」
静かな声だった。
だがその背筋はまっすぐで、眼差しには決意と葛藤が同時にあった。
「私は監視者としての立場がある。サナの容体が報告レベルに達した今、正式に隔離申請が下りた。つまり、あなたの勝手な行動は“危険因子の拡大”に他ならない」
「……」
ちゃたろ〜は深く息を吐いた。
「通すも通さないも、最初から聞くつもりはない」
その声に、ヴィリスはほんのかすかに笑った。
苦い笑みだった。
「ほんと、バカね」
杖の石突きが、床へ小さく触れる。
「そういうところ、嫌いじゃないけど」
次の瞬間――空気が変わった。
紫電が足元を走る。
大地を穿つようにではない。広げず、漏らさず、村も屋敷も傷つけないように、それでも見ている者には明らかに“桁が違う”とわかる密度で、魔力が一箇所へ収束していく。
庭先に巨大な魔方陣が展開した。
紫と黒の幾何学模様が幾重にも噛み合い、空中へ層を作る。屋敷の壁は焦げない。土も割れない。だが空気だけが唸り、圧力だけが増していく。村を傷つけずに、ただ一点へだけ終末を集める術式だった。
ちゃたろ〜は、そこでようやく息を呑む。
これがヴィリスの本気だ。
荒々しい破壊ではない。
むしろ逆だった。
何ひとつ壊していないからこそ、その制御の異常さがわかる。もしこれが放つ先を間違えれば、村ひとつ消し飛んでもおかしくない。なのに、屋敷の柱一本焦がさない。その精密さが、かえって恐ろしい。
ヴィリスは杖を構え、真正面からちゃたろ〜を見る。
「来なさい、ちゃたろ〜。これが私の全力――《ラスト・フォーエバー》!」
ちゃたろ〜の眉がぴくりと動く。
「……名前、ダサくない?」
「うるさいっ!」
返ってきた声は、いつになく人間臭かった。
だが次の瞬間には、そのやり取りさえ飲み込むように術式が完成する。
紫と黒の奔流が入り混じり、音ではなく圧として押し寄せた。
熱ではない。冷たさでもない。存在の輪郭そのものを削り取るような、巨大な終端処理の波だった。
――ズガァァァン!!
空気が裂ける。
光と闇がぶつかり、景色が白と紫へ塗り潰される。
けれど、村は焦げない。
草一本、屋敷の板戸一枚、無駄に傷つけないまま、そのすべてがちゃたろ〜ひとりへ向けて収束していた。
ヴィリスは本気で止めに来ている。
そして同時に、本気で守ってもいた。
ちゃたろ〜は、その奔流の正面で静かにスキルを放つ。
《エイシェントグレイス》
かつて何度も仲間を守り抜き、理不尽な強敵を耐え抜いた信頼の象徴。
光の盾が彼を中心に立ち上がる。大きく広げるのではない。必要なぶんだけを、必要な場所へ。受けるために最適化された壁が、静かに世界の前へ差し込まれた。
――バリバリバリッ!
凄まじい衝撃が盾を軋ませる。
光が裂け、腕の骨まで揺さぶられる。
膝が沈む。
足元の土が削れ、ちゃたろ〜の身体が半歩、後ろへ押される。
それでも、崩れない。
砕けない。
ただひとり立ち、守るために築かれた壁は、今も彼の中で揺るぎなく輝いていた。
光が収束していく。
紫電が消え、庭へ静けさが落ちる。
残ったのは、抉れた土の筋と、白く焼けた空気の匂いだけだった。
屋敷も村も無事のまま、ちゃたろ〜は傷を負いながら、たしかに立っていた。
「……バカね」
魔力を使い切り、膝をついたヴィリスの声がわずかに掠れた。
「私を倒せなければ、その先には行けない。そう言ったのに……なのに、なんで……そんな顔してるのよ……」
ちゃたろ〜は彼女へ歩み寄る。
息は荒い。
頬には新しい傷が走り、肩も重い。
それでも声は思いのほか静かだった。
「本気だったんだろ?」
「……あたりまえよ」
ヴィリスは目を伏せる。
「私が本気じゃなかったら、あなた、本気で受けてくれないでしょ」
その言葉の中に、監視者でも研究員でもない“人”としての彼女がいた。
止めたい。
でも送り出したい。
そのどちらも捨てずに済ませるには、全力でぶつかるしかなかったのだ。
ちゃたろ〜は彼女の前へ立ち、短く告げた。
「ありがとう、ヴィリス」
「べ、別に……っ。行けばいいでしょ、もう!」
ぷいと顔を背ける。
だが耳まで赤くなっているのを、ちゃたろ〜は見ないふりをした。
「サナのこと、任せてもいい?」
その瞬間だけ、ヴィリスの表情が少し変わる。
「……あたりまえよ」
声は小さい。
けれど、迷いはなかった。
「あの子は、私の監視対象なんだから」
建前だ。
そんなものだと、ふたりともわかっている。
彼女はもう、サナを数字や波形だけで見ていない。
毛布の端を握る手も、ぎこちない笑顔も、囲炉裏の前でうとうとする横顔も知っている。
「でも、無事に帰ってきなさい」
ヴィリスは背を向けかけて、最後にそう言った。
「そうじゃないと、報告書に困るから」
ちゃたろ〜は小さく笑う。
その場を離れる前に、一度だけ屋敷の中を振り返った。
薄布の向こう、サナはまだ眠っている。
苦しそうな息の合間に、ときおり魔紋がうっすらと浮かぶ。そのたびに胸の奥が鈍く痛んだ。
ちゃたろ〜は静かに近づき、毛布の端を直した。
サナの手が、眠ったまま、ほんのわずかに彼の袖を掴む。
その小さな重みが、答えだった。
「……行ってくる」
聞こえているかどうかはわからない。
けれど、そう言わずにはいられなかった。
彼は歩き出す。
向かう先は、真実が眠る“あの施設”。
サナを蝕む魔紋の秘密。
堕天使を討っても消えなかった影の源。
白い部屋と、“A”という呼び名の意味。
そのすべてに、盾一枚で立ち向かうのだ。
夜明け前の空はまだ青く冷たかった。
だが、その手はもう迷わない。
守るべきものを、今度こそ取りこぼさないために。
この手が守るものを、自分の手で確かめるために。




