第50話「光を刻むもの」
朝は、久しぶりによく晴れていた。
雲ひとつない青空が、村の屋根瓦を鮮やかに照らしている。
雨でも霧でもなく、ただ陽が差している――それだけのことが、どうしてこんなにも特別に感じられるのかと、ちゃたろ〜は縁側に腰を下ろしたまま空を見上げていた。
包帯はすでに外されている。
腕の傷はほとんど塞がり、皮膚の色だけがまだ少し新しい。
ヒールでの応急処置と、数日間の静養。それから――誰よりも的確に傷を見て、必要なところだけ魔力を通してくれたヴィリスの治療。
そのおかげで、回復は驚くほど早かった。
ふと、足元へ視線を落とす。
縁側の板の上に置いた木札が、朝日を浴びて淡く光を返していた。
冒険者としての身分を示す札。
そこへ、新たに刻まれた文字がある。
――メイス盾・レベル30。
ちゃたろ〜は、その数字をしばらく見つめた。
手のひらが、じんと熱を帯びる。
すると記憶が、遠いところから静かに浮かび上がってきた。
転生前。
まだゲーム開発者であり、同時にプレイヤーでもあった頃。
どれほどの絶望的な局面でも、自分を救ってくれたのは、あのスキルだった。
《エイシェントグレイス》。
盾役が仲間を守り抜くための、最後の砦。
理不尽な猛攻を受け止め、パーティーの前に立ち続ける象徴。
開発者として設計した誇りであると同時に、
一人のプレイヤーとして、心から信じ抜いた力でもあった。
「……ここまで、来たか」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
それは懐かしさであり、
今この世界を生きている自分自身を、あらためて確かめるための言葉でもあった。
――とくん。
縁側の奥から、小さな足音がした。
顔を覗かせたのは、毛布を抱えたサナだった。
砦でフィーネから渡された、あの毛布。今も彼女にとって一番の拠り所だが、最近はそれを抱えたままでも、前よりずっと自然に歩けるようになっていた。
「おはよう、ちゃたろ〜」
小さな声。
けれど、ちゃんと澄んでいた。
「おはよう」
それだけで、朝の空気が少しやわらぐ。
怯えも、ためらいも、昔ほどはそこに残っていなかった。
サナは縁側の端へ座り、ちゃたろ〜と同じように空を見上げた。
晴れた空を眺めるだけの沈黙が、気まずくない。それ自体が、もう大きな変化だった。
「今日は、少し……散歩に行こうと思うんだけど」
ちゃたろ〜がそう言うと、サナは目を瞬いた。
「……いいの?」
「うん。ヴィリスも“監視は最低限でいい”ってさ。たぶん……信用されたんだろうな」
「ふぅん」
サナは少し考えるように目を細めた。
「……あの人、意外と素直だから」
その言い方が可笑しくて、ちゃたろ〜は思わず笑った。
サナもつられて、頬にかすかな赤みを差しながら微笑む。
その笑みは、春風みたいにやわらかかった。
◇
ふたりで村の小道を歩く。
畑では老農夫が土を返し、干し草は陽光の下できらきらと光っている。
遠くの家では洗濯物が風に揺れ、小川の方からは子どもの笑い声が聞こえてきた。
そういう音を聞きながら歩いていると、この村がちゃんと朝を生きていることがわかる。
「この村、初めてなのに――」
サナが、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「なんだか、懐かしい気がした」
ちゃたろ〜は首を傾げる。
けれどサナは、それ以上は言わなかった。
ただ風に揺れる髪を押さえ、空を仰いでいる。
懐かしい。
その感覚がどこから来るものなのかは、本人にもまだよくわからないのだろう。
やがて、小さな石橋のほとりへ出る。
小川が澄んだ音を立てて流れ、季節の変わり目を含んだ風がふたりの頬を撫でた。橋の欄干は日に焼けてなめらかで、足元の石は何度も人に踏まれて丸くなっている。
「ここ、好きかも」
サナが言う。
「じゃあ、今度のお弁当はここで食べるか」
サナは目を見開いた。
それから、こくりと頷く。
その頷きは、これまでよりずっと自然で、ずっとやわらかかった。
◇
――そのときだった。
「きゃああっ!」
村の中央通りから、女の悲鳴が響いた。
ふたりは同時に顔を上げる。
ちゃたろ〜が先に走り出し、サナも一瞬遅れてあとを追った。
広場へ飛び込んだ瞬間、視界へ異様な影が入る。
牙を剥き、目を血走らせた獣。
体毛は逆立ち、涎を垂らしながら、周囲を威嚇していた。普通の野犬よりひとまわり大きい。だが恐ろしいのは大きさではない。獣の奥にある目の色が、明らかにおかしかった。理性を失って暴れているというより、何か別の刺激で内側から煮え立っているような、そんな濁った赤だった。
「野生の魔獣……それも、凶暴化してる!」
誰かが叫ぶ。
村人たちは悲鳴を上げ、家々の陰へ散っていく。
だが広場の中央に、逃げ遅れた若い母子がいた。母親は幼い子を抱きしめたまま、足がすくんで動けない。子どもは泣くことすら忘れたように、母親の服へ顔を押しつけている。
「サナ、下がってろ!」
ちゃたろ〜は即座に前へ出た。
魔獣が低く唸る。
地面を蹴り、一直線に突進してきた。
「《プロテクトウォール》!」
光の盾が瞬時に展開され、突進の勢いを真正面から受け止める。
衝撃。
足が土へめり込む。
肩に重みが食い込み、腕の骨が軋む。
だが、盾は揺らがない。
「……通さねえよ」
ちゃたろ〜は低く吐き捨てると、力を込めて押し返した。
魔獣の前足がずるりと滑り、体勢がわずかに崩れる。
そこへ、間髪入れずメイスを振り抜いた。
――ガンッ!
鉄と骨がぶつかる、重い音。
魔獣の頭が横へ弾かれ、よろめく。
「《ホーリーボール》!」
追うように放った光球が、肩口へ直撃した。
肉が焦げ、獣が苦悶の声を上げる。
それでも止まらない。
痛みで逆上したのか、さらに鋭く飛びかかってくる。
今度は低く沈み、脚を狙う軌道だった。
「くっ……!」
ちゃたろ〜は半歩引き、盾の角度を落として受け流す。
爪が頬を浅く掠め、熱いものが一筋流れた。
痛みに構わず、すぐに踏み直す。
ここで退けば、背後の母子まで届く。
それだけはさせられない。
魔獣が再び唸り、頭を低くする。
ちゃたろ〜は呼吸を整えた。視界が狭まり、周囲のざわめきが一段遠くなる。目の前の獣の動きだけが、妙にはっきり見えた。
(速い。でも、まっすぐだ)
凶暴化した個体らしく、動きは激しい。
だが理性が薄いぶん、読みやすさもある。
次の突進に合わせて、ちゃたろ〜はあえて半歩だけ懐へ入った。
「――ここで終わらせる!」
メイスを振り上げる。
渾身の一撃を、頭頂へ叩き込む。
「《頭にドーン》!」
鈍い衝撃が、獣の頭蓋を揺さぶった。
目が一瞬、白く剥ける。
身体が硬直する。
スタン。
「っ!」
その隙を逃さず、ちゃたろ〜はさらに踏み込んだ。
もう一度、今度はためらいなく振り抜く。
――ドォンッ!!
メイスが側頭部を打ち抜き、魔獣の巨体が地へ叩きつけられる。
痙攣が二度、三度。
それきり、動きを止めた。
広場に静寂が戻る。
ちゃたろ〜は肩で息をしながら、額の血を手の甲で拭う。
すぐに《ヒール》をかけた。淡い光が頬を撫で、痛みが少しずつ引いていく。
「す、すごい……」
物陰から顔を出した村人たちが、ざわめきを広げる。
「たった一人で……魔獣を……」
「いや、守ってくれたんだ……!」
「この村を……!」
その声を、ちゃたろ〜はあえて聞き流した。
メイスを静かに下ろし、呼吸を整える。
助かった母子へ目をやると、母親はまだ震えながらも子どもを抱きしめ、何度も頭を下げていた。
そのとき、隣の気配に気づく。
サナが、少し離れたところで立っていた。
怯えてはいない。驚きはある。けれど、その目の奥に浮かんでいるのは恐れより、もっと別のものだった。
誇らしさに似た光。
胸の内側から、そっと灯るような表情。
ちゃたろ〜はそれに気づいて、ほんのわずかに目を細めた。
――守るための力。
ただ強いだけじゃない。
誰かが怯えずに立てる場所を作るための力。
それが今の自分を、この村の真ん中へ立たせているのだと、ようやく身体の奥で実感できた。




