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第49話「名前の居場所」

 ――帰ってきた。


 それがわかった瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなった。

 でも、声は喉のところで止まったまま、うまく前へ出てこなかった。


「ただいま」


 ちゃたろ〜がそう言ったとき、私はうなずくことしかできなかった。

 たったそれだけなのに、胸がいっぱいになった。唇は少し震えて、声だけが遠くに置いていかれたみたいだった。


 本当はすぐ、言いたかった。

 けれど、うれしい時にどうやって言葉を返せばいいのか、私はまだあまり知らない。


 ちゃたろ〜の声は、焚き火より温かかった。

 その温度に触れた心のほうが先に驚いて、身体が追いつかなかったのだと思う。


    ◇


 夜。

 囲炉裏の前で、三人は静かにスープを食べた。


 ちゃたろ〜の腕には厚い包帯が巻かれていて、ヴィリスの白い髪には、薄く乾いた血の色が残っていた。

 森へ行ったふたりは、やっぱり少しだけ死の匂いを連れて帰ってくる。

 でも、それでも、ふたりはちゃんと私の隣に座っていた。


 器は温かいのに、胸の中は落ち着かなかった。

 指先がじんと痺れる。

 怖いような、泣きたいような、でも違う何かが、胸の奥で小さく拳を握っていた。


「……おかえりなさい」


 それは、押し出したというより、こぼれた声だった。


 ちゃたろ〜は少しだけ目を見開いた。

 それから、すぐにやわらかく笑った。


 その笑顔が火の明かりに溶けたとき、凍っていた心のどこかが、ゆっくりほどけた。


 ああ、この人は戻ってくる。

 だから私は、言えたんだ。


 そのことを、自分でやっとわかった。


    ◇


 その夜、なかなか眠れなかった。


 毛布にくるまっても、瞼の裏だけが明るいままだった。胸の中だけが勝手に脈打って、静かになろうとしてくれない。


 音を立てないように玄関へ出る。

 霧はもう晴れていて、星が深く瞬いていた。夜気が頬を撫で、毛布の端が小さく揺れる。


 ちゃたろ〜は怖くない。

 血の匂いも、包帯の白さも、傷口の色さえ、私を遠ざけるものにはならなかった。


 むしろ、胸の奥では別のことを思っていた。


 ――また、帰ってきてほしい。


 そう思っている自分に気づいた瞬間、目の奥が熱くなった。


 私はもう、あの白い部屋の“A”じゃないのかもしれない。

 そう思いたいだけなのかもしれない。

 まだ、よくわからない。

 でも、ここで「おかえりなさい」と言えたことは、本当だった。


    ◇


 ときどき、白い夢を見る。


 光の部屋。

 名前を呼ぶ声。

 “A”と呼ばれて、身体の中へ熱が流れ込んでくる感覚。


 そこには白い壁があって、白い明るさがあって、何もかもがきれいすぎた。

 でも、笑っている人の気配はなかった。

 手の温度も、囲炉裏の火も、鍋の匂いもない。


 目が覚めると、いつも少し汗ばんでいる。

 それから、自分の胸に手を当てる。


 私は本当に、サナとしてここにいていいんだろうか。

 その不安は、朝になるまで薄く残る。


    ◇


 朝。


 台所には、もう火が入っていた。

 ちゃたろ〜が鍋を混ぜ、ヴィリスが皿を並べている。どちらも私を見ていない。特別なことは何も言わない。けれど、その何でもなさが、かえってあたたかかった。


 私は戸口に立ったまま、少し迷った。

 それから、ようやく言葉を落とす。


「……手伝う」


 ちゃたろ〜はほんの一瞬だけ驚いた。

 でも、すぐに笑う。


 その笑みは、「いていい」と言っているみたいだった。


 ヴィリスは帳面に視線を落としたまま、しかし声だけはやわらかく言った。


「では、野菜を洗ってください。……丁寧に」


 桶の水は冷たかった。

 指先はすぐにかじかむ。


 それでも、やめなかった。


 水面に映る自分の顔を、ちらりと見る。

 昨日までと同じ顔のはずなのに、少しだけ違って見えた。

 番号ではなく、呼ばれる名前がある顔だった。


    ◇


 昼の席で、ちゃたろ〜が聞いた。


「サナ。昨日の夢……どんなだった?」


 私はすぐには答えられなかった。

 怖かった。

 言ったら、またあの白い部屋に引き戻される気がした。


 でも、逃げたくなかった。


 器の縁を見つめたまま、少しずつ言う。


「白い部屋で……“A”って呼ばれたの」


 ちゃたろ〜は、すぐには返さなかった。

 一度だけ頷いて、それから静かに言う。


「それでも、俺はサナって呼ぶ」


 言葉は短かった。

 でも、そこに迷いはなかった。


「ここで飯食って、眠くなったら寝て、朝になったら起きる。そうやって今ここにいるのは、お前だろ」


 私は顔を上げる。


 ヴィリスも、少し遅れて口を開いた。


「記録の上に何と書かれていたとしても……少なくとも、この家の中で、あなたをそう呼ぶつもりはありません」


 そこで彼女は、ほんの一瞬だけ言葉を探すように間を置いた。


「……サナ」


 たったそれだけなのに、胸の奥が熱くなった。

 視界が少し滲む。


 ちゃたろ〜は帰ってくる人。

 ヴィリスは見ていてくれる人。


 そのふたりが、同じ名前で私を呼ぶ。


 それだけで、切れそうだった何かが、少しずつ繋ぎ直されていく気がした。


    ◇


 夜。


 もう一度、星を見上げる。

 毛布にくるまれた肩はひんやりしているのに、胸のあたりだけがじんじんと温かい。


 私はサナ。

 ちゃたろ〜と、ヴィリスと、一緒にいる。


 そう思ったとき、毛布の重さが初めてただの重さじゃなくなった。

 包まれている、という感じに少しだけ近づいた。


 心の中で、小さく呟く。


 ――ただいま。


 声には出なかった。

 でも、その音はたしかに胸の中へ落ちた。


 名前という場所に、私はやっと少しだけ帰ってこられた気がした。

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