第48話「霧の森に影落ちて」
森の入口を抜けた瞬間、空気がひやりと変わった。
昼だというのに薄暗い。
霧は木々の間に重く溜まり、吐いた息の白がそのまま溶け込んで消えていく。地面は湿り、落ち葉は腐りかけた匂いを薄く返す。けれど、それだけではない。鼻の奥に残るのは、もっと古く、もっと乾いた気配だった。祈りの残り香にも似ていて、同時に墓を掘り返した時の土の匂いにも似ている。
「……鳥の声も、虫の音もない」
ちゃたろ〜が低く呟く。
ヴィリスは杖を握り、淡い光の粒を周囲へ散らしながら答えた。
「異常ね。通常の魔獣なら、森全体を黙らせるほどの圧は出せない」
ふたりは並んで進む。
靴が落ち葉を踏む音だけが響き、それもすぐに霧へ吸い込まれて消えた。歩いているのに、森の奥へ進んでいる実感が薄い。ただ白い中へ沈んでいく感覚ばかりが強い。
◇
しばらく進んだ時だった。
ひたり、と。
見えない視線が背をなぞった。
ちゃたろ〜の肩が即座に沈む。
踏み込みと防御のどちらにも移れる位置へ、重心が落ちる。
「来るぞ」
メイスを構える。
ヴィリスも杖の石突きを静かに土へ当て、術式の起動線を足元に走らせた。
次の瞬間、霧の中から“それ”が姿を現した。
人の形をしていた。
だが、人ではないと一目でわかる。
肩から伸びる白いものは羽の名残に見えたが、よく見れば羽毛ではなかった。骨だ。細く裂けた白骨が幾重にも外へ押し出され、翼の形だけを無理やり真似ている。顔は影に沈み、目があるはずの場所だけが淡く光っていた。顔を隠しているのではない。顔という概念そのものが、そこだけ剥がれ落ちているようだった。
ちゃたろ〜の喉の奥が、ぞくりと冷えた。
神聖さの残滓。
それを壊したもの。
そういう“見てはいけない途中経過”が、霧の中で立っていた。
「……解析開始」
ヴィリスの声が、わずかに掠れる。
「魔力波形、かつての《天使契約》の残響と一致。……堕天使型、残滓個体」
堕天使。
その言葉が落ちた瞬間、白い影が音もなく前へ出た。
速い。
脚が動いたのかどうかも見えない。ただ距離だけが一気に詰まる。次の瞬間には、白刃のように細く変質した腕が横薙ぎに振るわれていた。
風が裂ける。
近くの木の幹が、まるで紙でも断つように両断された。
「プロテクトウォール!」
ちゃたろ〜が反射で詠唱する。
透明な盾がふたりを包んだ直後、衝撃が叩きつけられた。
耳ではなく骨で聞くような轟音。
光壁に無数の亀裂が走り、ちゃたろ〜の腕へ痺れが突き抜ける。
「っ……!」
守りきった。
だが、軽く受け流せる相手ではない。
今の一撃だけで、盾ごと身体の芯まで揺さぶられた。
◇
「ヘイトは俺が取る! ヴィリス、援護頼む!」
「了解。三秒だけ、正面を維持して」
ちゃたろ〜は壁を再展開しつつ一歩前へ出た。
霧の中では距離感が狂う。だからこそ、自分が前へ出て基準になるしかない。
「ホーリーボール!」
正属性の光弾が堕天使の顔面へ直撃する。
白い影が揺れ、黒煙めいた霧が散った。手応えはある。だが怯まない。むしろ、光を浴びたことで輪郭がはっきりし、そのぶん速さも鋭さも増したように見えた。
「はやっ――」
真正面から突っ込んできた白刃を、メイスの柄で受ける。
衝突。
指の骨が軋む。
足が地面へめり込み、呼吸が喉の奥で止まった。
その隙を狙い、もう片方の腕が横薙ぎに走る。
「させません!」
ヴィリスの詠唱が重なった。
紫紺の魔弾が三連で放たれ、堕天使の脇腹と肩口へ炸裂する。火花ではない。音を押し潰したような暗い閃光だ。その一瞬だけ、白い影の軌道がぶれた。
ちゃたろ〜はその隙に半歩ずれる。
刃は頬を掠めただけで済んだ。皮膚が裂け、熱い血が一筋落ちる。
「ぐっ……今ので魔力の三割、持っていかれた」
「無理すんな!」
ちゃたろ〜が叫ぶ。
「……俺が持ちこたえる!」
「持ちこたえるだけでは無理よ。頭部に集束がある。そこを止めて」
観測していたのだ。
攻撃の最中でも、ヴィリスは相手の魔力循環を見ている。
堕天使が再び踏み込む。
今度は上段から、白骨の翼ごと叩きつけるような一撃。
ちゃたろ〜は受けた。
受けるしかなかった。
《プロテクトウォール》を重ね、角度をつけて流す。
それでも衝撃は全身へ通る。肩が痺れ、膝が折れそうになる。踏みとどまった場所の土がぐしゃりと沈んだ。
息が荒くなる。
だが、まだ前にいる。
◇
数分の攻防が続いた。
ちゃたろ〜は盾の角度で受け流し、プロテクトを何度も張り直して凌いだ。
白刃が降るたびに森の空気が裂け、木の皮が剥がれ、霧が不自然に巻き上がる。受けるたびに腕が痺れ、足元には自分の血の飛沫が少しずつ増えていく。
頬の裂傷だけではない。
肩口も掠めていた。
メイスの握りは赤黒く染まり、指の力が少しずつ鈍っていく。
「ちゃたろ〜! 限界よ!」
「もう少し……!」
ちゃたろ〜は歯を食いしばる。
「“頭にドーン”を決めるまでは……!」
「雑!」
「でも通じる!」
返しながら、次の一手だけを探す。
堕天使は速い。
だが、速いぶん、魔力の集束も一瞬で頭部へ戻る。その戻り切る前に止めれば、わずかでも空白が生まれるはずだ。
ヴィリスの魔弾が、また三方向から飛ぶ。
正面を撃たない。肩、膝、翼の根元。相手の中心ではなく、姿勢を作る点だけを崩してくる。
(そうか――止めるんじゃなく、崩す)
ちゃたろ〜は踏み込んだ。
わざと正面を空ける。
堕天使が、そこへ白刃を振り下ろしてくる。
待っていた。
ぎりぎりまで引きつけ、半歩だけ懐へ滑り込む。
頬を裂く風。
白い骨の匂い。
近い。近すぎる。
「――頭にドーン!」
渾身の一撃が、堕天使の頭部を打ち抜いた。
鈍い手応え。
骨とも肉とも違う、不快な硬さが腕へ返る。
白刃の腕が、宙で止まる。
堕天使の身体が痙攣し、頭部を中心に白い魔力が一瞬だけ乱れた。
「今だ、ヴィリス!」
ヴィリスはすでに詠唱の終端に入っていた。
足元の術式円が紫と黒へ反転し、杖の先端へ収束する。彼女の得意は一撃必殺ではない。観測し、削り、崩し、最後に通す。その積み上げの最後だけが、今ここへきていた。
「受けてみなさい――《エクリプス・レイ》!」
紫と黒の光が、束ではなく一本の刃のように放たれた。
霧を裂く。
森の白を真っ二つに割り、そのまま堕天使の胸から頭部までを貫いた。
絶叫は、声というより祈りの失敗みたいな響きだった。
白い骨羽が内側から崩れ、霧へ混じって散る。光の残滓が木々の間へ飛び、すぐに灰のように消えていった。
最後に残ったのは、焼け焦げた羽片のような欠片だけだった。
ちゃたろ〜は数歩よろめいてから、ようやく立ち止まる。
ヴィリスもその場で杖を支えに息を整えていた。
森はまだ静かだった。
だが、先ほどまでの“押し潰されるような沈黙”ではない。息を止めていた何かが、ようやく離れたあとの静けさだった。
◇
二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
ちゃたろ〜の額からは血が伝い、頬の傷から落ちた滴が首筋へ細く伸びている。ヴィリスの呼吸も荒い。整えているつもりでも、肩の上下が隠しきれていなかった。
互いに短く視線を交わす。
言葉はない。
だが、今の戦いがひとりでは成立しなかったことだけは、どちらにも十分すぎるほど分かっていた。
ふたりは森を後にした。
帰路の途中、夕陽が霧を朱に染める。
その光に照らされ、ふたりの姿は傷だらけだった。血糊はまだ乾かず、服の裂け目から見える皮膚にも薄い泥がこびりついている。
それでも、足は屋敷のほうを向いていた。
◇
屋敷の玄関。
扉を開けた瞬間、サナが立っていた。
目を大きく見開き、ふたりの姿をじっと見つめている。血の匂いに気づいたのだろう。顔色がわずかに変わり、指先が毛布の端を強く握った。
ちゃたろ〜は、それでも口元だけは少しやわらげた。
「ただいま」
だが、サナはすぐには声を出せなかった。
唇が震え、代わりに小さく頷くだけ。
ちゃたろ〜はその頭を軽く撫で、奥へ入った。
ヴィリスは黙ってサナの肩を軽く叩く。その手つきは、報告でも命令でもなく、“戻った”と伝えるためのものだった。
◇
囲炉裏の前で、三人が座る。
ちゃたろ〜が鍋をかき混ぜ、野菜と肉のスープをよそう。
ヴィリスは無言で火加減を調整し、サナは器を両手で抱えていた。
静かな食卓だった。
けれど、何もない静けさではない。
さっきまで森にあった死の気配が、湯気と匂いの向こうでようやくほどけていくような静けさだった。
スープの湯気が立ち昇る。
野菜の甘い匂いが、服に残った血の匂いを少しずつ薄めていく。
サナは俯いたまま、器の縁を見つめていた。
それから、ぽつりと小さな声を漏らす。
「……おかえりなさい」
その一言に、ちゃたろ〜は驚いたように彼女を見た。
やがて、疲れの残る顔のまま、穏やかに笑う。
「うん。ただいま」
ヴィリスは何も言わず、帳面を開いた。
そして、一行だけ記す。
――対象A、初めて「帰還」を意識した言葉を発した。
書き終えたあと、その文を見つめる。
対象A。
その表記はまだ消せない。
だが、その一文の重さは、以前とはもう違っていた。
三人の影が囲炉裏の火に揺れ、長く伸びて、ひとつに重なっていった。




