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第47話「揺れる霧の村」


朝の村は、濃い乳白の霧に呑まれていた。


 屋敷の庭に立つちゃたろ〜は、洗濯竿を支えたまま、霞む景色をじっと見つめる。

 木々も畑も輪郭を失い、白の中へ沈んでいた。いつもなら見えるはずの柵の先も、井戸の石組みの向こうも、今日は曖昧だ。音まで吸い取られているのか、遠くの鶏の声さえ湿った布の向こうから聞こえるように弱い。


 世界はまるで、息を潜めた巨大な獣の腹の中にあるようだった。


 背後で、草木に触れる細い音がする。


 振り返ると、サナが軒の下でほうきを握っていた。

 霧の方へ身を寄せるように掃いている。落ち葉は湿って土に貼りついていて、はくたびに思った以上に重い。小さく咳をひとつしたが、それでも動きを止めなかった。


「寒いなら、中に入れ」


 言えば、サナは首を横に振る。


 毛布にも囲炉裏にも頼れるのに、それでも外に立っている。

 その姿は少しだけ、強くなろうと背伸びをする幼い芽に似ていた。


 初めてここへ来た頃は、庭へ出ることすらできなかった。

 軒先に立つだけで目が泳ぎ、風の音ひとつで肩を縮めていたのに、今は自分からほうきを持っている。


 その成長が嬉しい。

 嬉しいのに、胸の奥では別の火種がくすぶる。


 この霧は、ただの朝靄にしては重すぎる。

 空気の白さの中へ、まだ名前のない不安がゆっくり混じっている気がした。


 軒先の戸が開き、湿った空気とともに歩みが現れる。


「――戻りました」


 ヴィリスだった。


 肩にかけたマントは細かな露で濡れ、灰色の瞳はいつもより深く沈んでいる。出先からそのまま戻ってきたらしく、杖の先には土が薄くついていた。


「ギルド支部で依頼が出たわ。森の調査。……もう噂の段階では済まない」


 ちゃたろ〜の眉間がわずかに動く。


「白い影の話か」


「ええ。複数の証言が重なった」


 ヴィリスは事実だけを並べるように言った。


「森の奥で“白い人影”を見た。木々の間が淡く光った。歌声のようなものまで聞いた者がいる」


 ひとつひとつの証言は曖昧だ。

 だが、曖昧なものが重なると、それだけで現実味を帯びはじめる。


 霧がさらに濃くなったような気がした。


「辺境伯から正式命令。調査、場合によっては対処。報告は最優先――とのこと」


 背後で、ほうきの動きが止まる。


 サナの手元から、ごく小さく土を擦る音がして、それきり動かなくなった。


 ちゃたろ〜は振り返り、その肩へ手を置く。


「……サナは留守番。今日は俺とヴィリスで行く」


 サナの肩が細く震えた。

 唇がわずかに開く。

 けれど言葉は零れない。


 目だけが、濁った霧の奥へ向く。

 見えない森の方角を、確かめようとするみたいに。


 やがて、ゆっくりと頷いた。

 ぎゅっと握られた指先に、見えない言葉が宿っていた。


    ◇


 午前、村の広場はざわめきに満ちていた。


 荷を抱えた村人たちが輪をなし、囁きは波のように広がっていく。普段なら子どもが走り回り、荷車がぎいぎい鳴っている時間なのに、今日はどこか重い。立ち話の距離が近く、声は低く、誰もが無意識に森の方角を気にしていた。


「昨夜だ。森の奥で――白い影が揺れた」

「羽みたいに見えた、って言ってたろ」

「俺は歌を聞いたぞ。子守歌みたいで、余計に気味が悪かった」

「光は本当だって! 他の家からも見えたんだ!」


 恐れと期待と無知が、同じ声の中に混ざっている。

 確かなものを知らないから、人は余計に喋る。

 喋ることで形を与え、形を与えた不安に今度は自分が怯える。


 その中心で、ちゃたろ〜はひときわ静かに立っていた。


「来てくれたのね」


 受付の女性が近づき、強張った笑みで告げる。

 笑ってはいるが、頬の筋肉がうまくついてきていない。寝不足なのか、目の下には薄い影があった。


「辺境伯は、あなた達に任せると。……本当に何かがいるなら、最前線よ」


「俺とヴィリスが向かう」


 短く返すと、周囲の空気がわずかに緩んだ。


 安堵に似た重さが、広場全体へ沈む。

 誰かが息を吐き、別の誰かが肩の力を抜く。頼っていいのか迷っていたところへ、ようやく“任せ先”が見えた顔だった。


 だが、それと同時に――別の視線もある。


 サナを屋敷へ残すことへの、言葉にならない視線。

 疑っているわけではない。ただ、気にしている。守られる側として見ている。ここ数か月で、村の中にも彼女の場所ができつつあったのだと、そういう目が教えていた。


 ちゃたろ〜は、その視線を責める気にはなれなかった。


    ◇


 屋敷へ戻ると、サナは縁側で毛布に包まって座っていた。


 ほうきはもう脇へ立てかけられている。

 細い指先は毛布の端を握りしめ、視線は霧の白へ向いていた。見えないものを見ようとしているのではなく、見えないものに気配を向けているような顔だった。


「……行くの?」


 掠れた声だった。


 ちゃたろ〜はサナと同じ高さに腰を下ろす。

 目線が重なる。


「行ってくる。すぐ帰る」


 言い切ったが、それが約束なのか願いなのか、自分でも分からなかった。


 サナのまばたきは遅い。

 沈んだ湖面みたいに、感情が深く、底のほうへ言葉を沈めている。


 それでも、頷いた。


 ヴィリスが歩み寄り、低く言う。


「私たちがいない間、扉は開けない。誰が呼んでも返事はせず、外にも出ない。わかった?」


 サナはうなずく。

 だが毛布がひどく小刻みに震えている。


 寒さではない。

 怖さだけでもない。

 なにか良くないものが近づいてくると分かっていて、それでも止める言葉を持てない震えだった。


 ちゃたろ〜はその毛布の上へ、そっと手を置く。

 指先は小さく、温度は弱い。けれど、たしかにここにある。


「帰ったら、一緒に夕飯だ」


 声は約束に似ていた。

 そして同時に、自分自身を縛る鎖にもなった。


 サナは少しだけ顔を上げる。

 唇が動く。何か言おうとして、うまく言葉にならない。

 結局、彼女はただ小さく頷いて、ペンダントを胸元で握りしめた。


 その仕草だけで、十分に伝わってしまう。


    ◇


 昼過ぎ。


 二人は森の入口に立っていた。


 霧はまだ晴れない。

 木々の影は白の中でほどけ、幹と枝の境目さえ曖昧になっている。鳥の声はなく、風も止み、世界には沈黙の重さだけが満ちていた。


 足元の土は湿っている。

 靴裏が沈むたびに、遅れて冷たさが伝わる。


 ちゃたろ〜は、森を見つめたまま短く息を吐いた。


「……行くぞ」


 メイスを肩へかけ、ゆっくりと一歩を踏み入れる。


 ヴィリスは杖を掲げ、術式を静かに起動させる。

 声はいつも通り冷静だった。

 だが、今日のそれにはわずかに湿った息が混じっている。


「観測記録――開始」


 そこでほんの短く、彼女は言葉を切った。


 いつもなら続くはずの定型が、今日はすぐには出てこない。


 霧の向こうには何がいるのか。

 森の異変とサナの揺らぎがどこで繋がるのか。

 まだ、誰も知らない。


 ヴィリスは目を細め、それから低く言った。


「……今日は、“対象”ではなく、共に歩む者として見ます」


 ちゃたろ〜は、その横顔を一瞬だけ見た。

 そして口の端を上げる。


「なら俺も、“対象”じゃなく“仲間”として守る」


 綺麗すぎる言葉ではない。

 けれど、今この霧の中で交わすには、それで十分だった。


 二人の靴底が、白い気配を裂く。

 霧は抵抗もなく分かれ、すぐにまた背後で閉じていく。


 その背を、村人たちが遠くから見つめていた。


 そして屋敷の縁側からも――

 小さな影が、両手で胸元を握りしめながら、ずっとその方角を見ていた。


 声にならない思いが、風のない空気の中へ沈んでいく。

 それは祈りに似ていた。

 けれど祈りよりも、もっと切実なものだった。

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