第46話「森の白影」
昼下がりの屋敷には、煮込みの匂いが満ちていた。
鍋は小さく泡を揺らし、やわらかな湯気が梁の影に淡い靄をつくる。ちゃたろ〜は木杓子でスープをすくい、光の中で沈む野菜をそっと持ち上げた。丸く煮えた芋も、崩れかけた豆も、みな静かに鍋の中で形を変えている。
それは、ゆっくりと息をする心臓みたいにも見えた。
「……これなら、サナも食べやすいだろ」
声は穏やかだった。
日常という薄い膜の内側にある声だ。
けれど、その膜は少し触れれば破れるほど脆いことを、ちゃたろ〜自身がいちばんよく知っていた。
卓の側にはサナが座っていた。
両手を膝に置いたまま、囲炉裏の橙へ目を向けている。光に照らされた頬は雪のように白く、呼吸も浅い。眠いのか、疲れているのか、それとも別の何かが身体の奥で沈んでいるのか、見ただけでは判別しづらかった。
ちゃたろ〜が木杓子を置き、何気なく肩越しに目をやった、その瞬間だった。
サナの身体が、糸の切れた操り人形みたいに震えた。
「おい、サナ――!」
駆け寄り、腕ごと抱きとめる。
軽い。
それなのに、触れた瞬間に返ってきたのは、ただの軽さではなかった。
体温が低い。皮膚の表面だけじゃない。もっと深く、骨の奥に氷の粉が降り積もっているみたいな、異質な冷たさがあった。
「……ぅ……」
声にならない息が唇から漏れる。
指先が淡く光を帯びた。
皮膚の下から浮かび上がるように、魔紋が一瞬だけ走る。線はまだはっきりしていない。けれど、白い火のような光を脈打たせて、確かにそこに現れた。
そして、次の瞬間にはまた闇へ沈む。
「……やっぱり、か」
その呟きは苦く、祈りに似ていた。
背後で、椅子を引く音が落ちる。
ヴィリスが記録帳を片手に歩み寄り、息を整えた声で告げた。
「対象A――周期性痙攣を確認。魔力波形に微細な異常発光。……記録します」
カリ、カリ、と羽ペンが走る。
だが、書かれていく文字はいつもより細かく、紙の端はわずかに震えていた。無機質であるはずの彼女の手から、ほんの小さな揺らぎが伝わる。
――動揺だ。
ちゃたろ〜はそれを責めなかった。
責めるより先に、その震えは胸に刺さった。
◇
夕暮れの村。
掲示板の前には人だかりができ、ざわめきは波のように広がっていた。
誰かがひそひそ話し、その声を別の誰かが拾い、少しだけ形を変えて隣へ渡していく。そうやって噂は、ひとつの影を少しずつ大きくしていく。
「昨夜だ。森の奥で――白い影が揺れてた」
「人の形に見えたぞ。風でも焚き火でもねえ」
「天使なんじゃないか。あるいはその“残り火”か」
ひとつの影が、十の不安になり、
十の不安が、百の怪物みたいに膨れ上がる。
ちゃたろ〜は無言で依頼掲示板へ視線を走らせた。
――《近隣林地にて異常発光。調査予定》
簡素な文字だった。
それだけに、かえって重い。
受付の女性が横へ来て、小声で訊ねる。
「お嬢さん……大丈夫なの?」
「……まだ、なんとか」
「村の人、みんな気にしてるよ。怖がられてなんかいないから」
その言葉は少し意外だった。
サナは無口で、笑うのもまだ稀だ。
村の輪へ完全に溶け込んでいるとは言えない。
それでも、人は見ていた。
小さな命が、ここで必死に生きていることを。
うまく話せなくても、笑えなくても、ちゃんと暮らそうとしていることを。
ちゃたろ〜は曖昧に笑った。
「そっか」
それだけ返して、もう一度掲示板へ目を向ける。
白い影。
森の異常発光。
サナの発作。
どれもまだ、一本の線にはなっていない。
だが、別々の出来事として片づけるには、少しずつ近すぎる気がした。
(……嫌な寄り方をしてるな)
はっきり断じるには、まだ早い。
けれど、放っておいていい感じでもなかった。
帰り道の風は、やけに冷たかった。
◇
夜。
屋敷へ戻ると、ヴィリスは机の前に座り、封緘を解いたばかりの文書を握り込んでいた。
薄紙はわずかに震え、蝋燭の火がその影を壁へ揺らしている。
「ちゃたろ〜。辺境伯から正式命令」
言葉は乾いていた。
だが、声の奥に硬い棘がある。
「命令?」
「《研究施設跡地の周辺を立入禁止区域とする。異常は本部部隊のみで対処》」
ヴィリスは一度、紙面へ視線を落とした。
「――つまり、あなた達は近付くなということ」
書面の中央には、黒い印が押されていた。
許可ではなく拒絶を示すような、冷たい印影だった。
「サナの発作が大きくなれば、隔離申請が下る可能性がある」
ちゃたろ〜の表情が、わずかに変わる。
怒りとも違う。
もっと奥に沈む、決意の影に近いものだった。
「隔離、ね」
短く吐き出す。
「あの子を“対象”に戻す気かよ」
沈黙が落ちる。
ヴィリスは答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
本当は抵抗したい。
けれど職務は、そういう言葉を口から奪う。
記録帳へ羽ペンを下ろそうとして――止まる。
一文字も書けない。
昨日の笑顔。
丘で震えながら握ったおにぎり。
塩気の強い団子を食べて、少しだけ頬をゆるめたサナ。
どれも、数字ではない。
番号でもない。
危険度や管理対象という欄へ押し込めるには、あまりにも生活に満ちている。
(サナは――サナだ)
筆先が紙へ触れたまま、沈黙だけが続いた。
「ヴィリス」
ちゃたろ〜が言う。
声は低い。
責める響きはない。
だが、それだけに余計に逃げ場がなかった。
「お前はまだ、あいつを“対象”で片付けるのか?」
ヴィリスは唇を動かしかけて、やめた。
否定も、肯定もできない。
そのどちらも、今の自分には嘘になると分かっていたからだ。
火が、ぱち、と爆ぜる。
小さな音なのに、胸の深いところへ刺さるほど痛かった。
◇
深夜。
囲炉裏の火はほとんど落ち、灰色の影が床へ沈んでいた。
サナは浅く眠り、時おり胸がわずかに上下する。その寝息を数えるように、ちゃたろ〜は隣で座り続けていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……森の白影。たぶん、ただの噂じゃねぇ」
断言ではない。
けれど、戦場を抜けてきた勘が、そう告げていた。
「何かが来てる。まだ形は見えないけど……たぶん、もう近い」
暗がりの奥で、ヴィリスはその横顔を見ていた。
監視者ではなく、
ただひとりの大人として。
そして、自分でも名前をつけきれない感情に胸を締めつけられながら。
任務か。
情か。
そんなふうに、もう綺麗には切り分けられないところまで来ていた。
ヴィリスは目を閉じる。
報告書を送るだけなら簡単だ。
そうすれば立場は守れる。
けれど、その先で失われるものを、もう知らなかった頃のようには見過ごせない。
炎が最後の赤を放ち、夜の底へ消えた。
その暗さの中で、誰もまだ眠れなかった。




